四旬節(レント)第一主日、讃美歌79,399,280、交読文21(詩91篇)
聖書日課 申命記30:15〜20、マタイ4:1〜11、ヤコブ1:12〜18、詩編91:1〜16、
教育会館に君子蘭の鉢があります。火曜日に見たときはなかった花芽が、昨日は伸びてきていました。デンドロビューム、シンビジュームの芽も膨らんできました。そして黄色のフリージャは、いつの間にか咲いてしおれていました。
2月25日が、今年の『灰の水曜日』この日から、日曜日を除く40日間を、主イエスの御苦しみを覚え、克己の生活をする慣わしです。教会に伝わる長い伝統、と言えるでしょう。禁欲的な生活をしてきたことになります。もともと余り豊かではない生活の中で何かを禁じることで『克己』を示そうとすると、なかなか難しかったようです。私の友人は、少しばかりビールを飲むことを楽しんでいました。それをこの期間中は自分に禁じておられました。
克己の受難節・四旬節は、その後に花開く時を控えています。形ばかりの克己とならないよう注意しましょう。日に一度は主の御苦しみを覚え祈りましょう。その意味を考え、讃美しましょう。
さて今朝は、《荒れ野の誘惑》という主題が与えられました。マタイ、マルコ、ルカ、三つの福音書に、同じような形で語られています。小見出しは、「誘惑を受ける」で、共通しています。順に読んで行きましょう。
「さてイエスは、悪魔から誘惑を受けるため、聖霊に導かれて荒れ野に行かれた」。
この一行は、結構衝撃的ではありませんか。主イエスが悪魔の誘惑を受ける。
悪魔は、ディアボロス。辞書にはこのようにあります。「誹謗者、中傷者、謗る者、悪意をもって訴え・責める者、告発者サタン、神のことを人に誹謗し、人のことを神に告発するもの、サタナスの訳として七十人訳で広く用いられる。」
荒れ野はユダの荒れ野です。ヨルダン川から見れば、高い所にあります。
悪魔はイエスを神に訴える材料を求めて誘惑しようとします。罠にかけようとします。
これは、イエス様は強いから大丈夫、と言ってやり過ごせるかもしれません。然しその次、聖霊が導いて行かれた、これは困る、聖霊様には、いつも私たちを守り、助ける立場をとってもらいたい。悪魔の要求に従うようなことでは困ります。悪魔の下請けのようでは困ります。
このところはそのような解釈ではなく、非常に危険な、神から離れるように見えるときでも、神のご計画の中では聖霊が御守りくださるし、導いてくださる、と語られています。
人にとって良いこととは考えられないようなことが、神のご計画の中に置かれています。
しかもその実現のために、聖霊が働きます。悪魔の誘惑に負けることなく、勝利するように導かれます。
『人は、家庭に全てを持つなら、決して荒野には出ない』、これはゲーテの言葉でしょうか。19世紀英国の大伝道者、メソジスト教会の創始者ジョン・ウェスレーは、世界は我が教区なり、と言って伝道旅行に出て行きました。聖霊が共にいて、守り導いたのです。
次の節から三つの試みが記されます。スタディ版を見ましょう。
「四十日間、昼も夜も断食した」ユダヤ人は、罪を悔いていることを表すために特別な断食の期間を設定した。ここでイエスの断食は、恐らくモーセと同じように、神への献身を示すためのものであろう(申命9:9、18)。40は聖書では特別な意味がある(使徒7:30、?コリント11:24)。
「これらの石がパンになるように命じたらどうだ」。悪魔はイエスが空腹なのを利用して、神に不誠実な行為をさせようとする。
出エジプトの民は、最初四十日四十夜を経てカナンの入り口までやって来ました。
四十日四十夜、断食をすれば当然の事ですが、空腹になられました。
よくもまあそれほど長く出来たものだ、と驚きます。
現代のイスラムには断食月・ラマダンがあり、断食をする規定になっています。
日の出から日没まで、水を飲むことは出来る、食を断つ。これはイスラムの定めです。
旧約以来、どの様に断食されたか不明。書かれていない。ヨナ書などは大変ストレートに断食した、食を断つ、と記されるので、そのままに理解したい。
福音書は、昼も夜も断食した、と書きます。いかなる便法も許さない厳しさがあります。
現代日本は飽食の時代です。それでも飢えている人はいます。コンビニやスーパーで廃棄される食品を有効利用すれば、国内の飢えはかなり解消されるはずです。然し地球規模で起こっている飢餓に対しては、地球規模で富の偏りをただすことが必要です。有能な者、富める者、力強い者たちの論理からの脱出が期待されます。富み、資源の再配分と人権の正しい拡張でしょう。
私たちは飢えていると、正常な判断が出来なくなります。飢えを満たすためなら何でもしようとするでしょう。何でも許される、と考えたいのです。ところが聖霊に導かれたイエスは違います。
「神の子なら、これらの石にパンになるように命じたらどうだ」という悪魔の囁きに対し、
「人は、パンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。」と答えられます。これは、申命8:3の引用です。
「主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出る全ての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。」
出エジプトのイスラエル人にとって、これは単なる教訓などではありません。
彼らの体験であり、現実そのものでした。飢えにも目的がある、と語られます。
克服されるべき飢えという生存の危機に際し、彼らは圧倒的な神の臨在を経験しました。
食べるものがないという危機にあって、神の恵みの言葉は生きて働き、全ての者を生かしました。イエスは、この神にこそ信頼する、と断言しました。
悪魔は次、二番目の試みに取り掛かります。ここでは、誘惑者が聖書の言葉を用います。
聖なる都の神殿の屋根に立たせ、「神の子なら、飛び降りたらどうか」、
「神があなたのために天使たちに命じて、あなたの足を支えられるだろう」と言います。
「イエスは、『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と答えられます。
具体的に神殿のどのような部分なのかわかりません。
誘惑者はとても賢いものです。それでも誘惑に対抗する手段は聖書が一番です。
イエスの答えは申命記6:16(七十人訳)の言葉です。
『あなたがたがマッサでしたように、あなたがたの神、主を試みてはならない』。
異訳『あなたは、あなたの神、主を試みることはないであろう』
これは命令的ニュアンスを含む未来形です。
三番目の誘惑では、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄振りを見せて、
「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんなあなたに与えよう」と言います。
わたしを拝め、という要求こそ、悪魔の本性です。空腹のイエスのために、無一物のイエスのために、と言うのは誘惑するものの手段です。おためごかしの中に真の欲求が隠れています。俺が一番だと認めろ。
主イエスは答えられます。「『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある」。唯一人の生ける神への服従を宣告します。
「あなたの神」という言葉は、普通イエスご自身を指すものと理解します。
ですから「仕えよ」という言葉も主イエスがそれを聞き、受け入れておられる、と考えます。それだけではなく、誘惑者、誹謗者、中傷者もこの言葉の前に置かれている、決断を迫られている、と考えます。イエスに敵対する者にも福音の言葉は備えられています。
否、むしろ神に敵対する者たちのためにこそ福音が備えられている、と言うべきです。
悪魔が離れ去ると、天使たちが来てイエスに仕えました。
私たちは、自分は弱いから、と言い訳しながら、悪魔に負け、み使が悪魔を押しのけてくれるのを待ってはいないでしょうか。大胆に悪魔の誘惑に屈してから、神のみ力が悪魔を打ち破り、悪の誘惑から解放されるのを待っている、ということはありませんか。
誘惑に負けるのは私、誘惑を取り除いてくださるのは主なる神。こんな考え、信仰を見ることが出来るようです。
憐みに富みたもう神は、私たちが誘惑する者と戦う力を与え、武器を与えてくださいました。エフェソの信徒への手紙6:10〜20を繰り返しお読みいただきたいものです。
「悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身につけなさい。・・・
救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい』
私たちも悪魔の誘惑に曝されています。信仰が試みられています。私たちを、神の前で告発しようとして、あげつらい、あら捜しをする者たちがひしめいています。負けてはなりません。神の武具を身につけ、共に戦いましょう。
私たちを悪魔の仲間にしようとする力も働きます。賢くなり、違いを見分けなければなりません。誰が賛美されることになるのか。神か人か、この一点です。このぐらい大丈夫だろう、これが怖いのです。悪魔は、誘惑するものは、私たちの心の隙間を
狙っています。
あなたは、あなたの、あなたに、あなたを、私は、私の、私に、私を。これが誘惑者のキーワードです。悪魔が誘惑しやすいと考える相手は『常に自分のことしか考えない人間』です。神の言葉は、神のために何が出来るかを考えるよう求めます。
四旬節に深く考え、讃美できるようにして行きたいものです。