降臨節前第9、讃美歌11、352、263、交読文3(詩8篇)
聖書日課 マタイ10:28〜33、箴言8:1,22〜31、黙示録21:1〜4、
詩編8:2〜10、
コロサイ書とはどんなものでしょうか?
大伝道者パウロの名が、手紙の差出人として記されています。
彼は紀元64年ごろ、ネロ皇帝の大火に関連して、ローマで殉教した、と伝えられています。
パウロの真筆であることを疑う学者が多くなりました。彼の弟子にあたる人、または人々が作ったものではないか、と言います。そうかも知れません。ただ時代は、それほど遠くはないでしょう(パウロの死後10年程度)。
コロサイは地名です。それは、どこなのでしょうか、どのような土地柄でしょうか。
現代のトルコ、ローマ時代のアジア州内陸の町、フリギヤ人と移住してきたギリシャ人、ユダヤ人たちがいました。東西の交易路が交差するところで、国際的な色合いを持っていました。ギリシャ・ローマ世界の人々の中でも交易に従事する人たち、軍事・経済界で積極的に関わっている人たちでしょう。
パウロとの関係は、どちらかといえば遠い関わり方です。まだ会ったことはないが、コロサイの伝道者エパフラスを仲立ちにして、互いに親しみを覚えています。
とは言うものの、会ったこともない人たちに対して、なぜパウロは、親身になって心配し、指導しようとしたのでしょうか
基本的には、コロサイの人たちへの愛でしょう。余計なお節介だ、と感じる人もいるようです。考えが違うのだから放っておいて欲しい、という方もあります。違う考えになったら、それを放置するというのでしょうか。最近はそうするのかもしれません。間違った方向へ進んでいる、と感じても放置して、事件になって、こうなるのではないかと心配していました、とお話しになる。はてな、と思いませんか。失礼になるので言いにくい。それに見知らぬ方ですし、何も言えなくなってしまいましょう。
愛があるなら、愛があるから、違う方向へ行きそうになるものを懸命に引きとめようとします。辛い話もします。
ある教会の牧師、大学生である青年がやって来て話をしたいというので聞き始めました。
「もっと教会で聖書を勉強しましょうよ。僕は良い聖書研究グループと出会いました」。
いろいろと聴く内に、どうも違うぞ、と感じました。疲れているし、眠いし、嫌だな、と思ったそうです。でも青年を愛していました。辛抱強く聞きながら、違うところを指摘しました。対等になって討論したのでしょうか。真夜中過ぎ、どうも自分がおかしいのかな、あれはキリスト教とは違うのかな、と言って帰りました。数日後、またやって来ました。
先生、有難うございました。あれは、文鮮明を教祖とする統一原理でした。
その牧師は、君は聖書を勉強したい、もっと理解したい、と願っていたために、引っかかったのだよ、勉強に来なさい、と言ったそうです。おじさんになった青年、今でもその教会につながり、牧師と仲良し、と聞きます。愛があるから話をする、話を聞けるのです。
次に、コロサイの問題が全教会的な広がりをもっていることを理解していたからです。
「コロサイの教会は、これから先数世紀にわたってキリスト教がそれから身を守ることを余儀なくされた傾向との最初の対決の場となりました」。
これがグノーシスの思想であり、キリストを蔑む考え方であり、教会の中には居場所がないことを、皆に知らせたかったのです。
それでは、その当時、コロサイの問題、教会にあった心配事はどのようなものだったのでしょうか。
この頃はローマ帝国が世界を支配していました。インドや中国はもう一つの世界をそれぞれ構成していました。ローマ世界の中には、ユダヤ教、ユダヤ人に好意的な人たちが、結構いたことが知られています。とりわけ一夫一婦の結婚生活に心惹かれる女性が多くいた、と伝えられています。ローマ帝国でも同じ風習でしたが、かなり乱れていました。皇帝の家をはじめとする上流階層の人たちの間で乱れていました。それに対して眉をひそめる女性がいました。ユダヤの生活習慣と掟の問題があります。
豊かな人たちは、毎日のように宴会を開き、家から家へと徘徊するようなことでした。
文字通り酒池肉林の騒ぎでした。世界中から珍味佳肴を集め、生きるためではなく、食べる為に食べていました。お腹一杯に食べると、咽喉に鳥の羽を入れて刺激し、戻させまた食べる。心ある人たちは、このような生活よりも、勤労と祈りの静かな生活を求めました。
食物規定を守る質実な食生活はローマ風の飽食・美食とは違いました。
そこに付け込んで、ユダヤの割礼と律法厳守を強いる者が現れます。
ユダヤ主義の偽教師たちです。
ギリシャ・ローマの神々を尊崇する人たち、それがローマ帝国の時代でした。
世界の原則、物が動く時には人が動く。人には、ものの考え方がついてくる。
戦後日本、この60年間におけるアメリカの影響を考えれば分かるでしょう。
コロサイはこの原則通り、ヨーロッパ、アジアの諸宗教から、影響を強く受けています。
ギリシャ・ローマ、ユダヤ、ペルシャなどに親しんでいます。
わたしたちは、この人生で何を大事なものとしているでしょうか。
何を大事にするか、という問いは、価値観の問題と考えられます。何に値打ちを認めるか、ということです。
この問いかけは非常に漠然としていて、答え難いなー、と思います。誰が、何時どのような状況で聴いてきたかで、答えは変わりそうです。
ある人は御自分の戦争体験を踏まえて、平和だよ、と言われます。
ある人は今の幸せを思い返し、この生活、この家庭だ、と仰るでしょう。
学校、という方もあるでしょう。その場合、学校での勉学を大事に考えるのでしょうか。それとも友達でしょうか。或は部活ですか。ベル命、という人もいました。
大事なものは、失いたくないものです。火事の時に、自分の大事なものを取りに帰って命を失った、という話を聞きます。
先日、難波で15人が死んだ火事がありました。有毒ガスと熱い空気が非常な速さで広がったようです。たいへん悲惨な出来事でした。被害者の方々、ご家族の皆様は本当にお気の毒に思います。このニュースを聞きながらふっと感じることがあります。
異常に気付いた人は、その時どうしただろうか。
逃げなければ、大事なものを持って、と考えて、次の瞬間、意識が遠のいて行ったのではないだろうか。
大事なものとは一体何か、と考えます。本当に大事なものは、この自分を生かすもの、自分が生きる力となるものではないでしょうか。これこそ私を生かすもの、と感じ、考え、後生大事に抱え込んで、その重さに負けて死んでしまうとしたらそれは、このわたしを縛るもの・縄目であって、生かすものではありません。
この手紙の中では、コロサイの人たちが教えられた戒めが、人を縛るものである、と指摘されています。21節「『手をつけるな。味わうな。触れるな』などという戒律に縛られているのです。・・・これらは人の規則や教えによるものです。・・・実は何の価値もなく、肉の欲望を満足させるだけなのです」。
イザ、という時の役には立たず、かえって人の重石になってしまう、と言っています。
本日の礼拝で歌う讃美歌は、すべてチャールス・ウェスレイの作品から選びました。
彼は18世紀英国の人。父サムエルと共に国教会の聖職。母はスザンナ、この両親から生まれた19人の子供の末っ子でした。オックスフォード大学に学びます。兄ジョンは国教会を離れて、信仰復興運動に励み、メソジスト教会を造りました。チャールスは終始ジョンを助けますが、国教会からは離れませんでした。それでいながら、兄の信仰を最もよく伝えたのは彼の説教であるが、チャールスの讃美歌はそれ以上に平易に伝えた、と言われます。
彼は生涯に6000を越える讃美歌を作り、そのうち2000は今でも実際に使われているそうです。
現行讃美歌には62番『主イエスのみいつと』、98番『あめにはさかえ』、273番『わが魂を愛するイエスよ』など、14編が収められています。ある名説教者(ビーチャム)は言いました「王として君臨するよりも、この一篇の作者でありたい」と。
ジョンとチャールスのウェスレイ兄弟の信仰は、両親によって伝えられたものですが、独自のものは1735年宣教師としてアメリカへ渡った時に始まります。二人はわずか220トンの帆船シーモンド号に乗りました。秋から冬の大西洋は荒れる時期です。非常に困難な航海でした。恐怖と不安に襲われましたが、同船者の中に、たいへん平安にしているグループがありました。モラヴィア兄弟団の人たちです。恐ろしくはないか、と問うと答えがありました。
「いや、有り難いことに私たちは生きるも死ぬも一切を神様にお任せしてある。だから女たちも子供たちも死ぬることを一向に恐れていません」と。
波風の中で何の役にも立たない信仰がありました。立派に役立つ信仰もありました。
それがモラヴィア派の人たちでした。この敬虔な態度に心動かされ、後に兄弟は、モラヴィアのヘルンフートにツィンツエンドルフ伯爵を訪ね、学びます。そして独自の信仰を確立し、多くの人に良い感化を与えました。ウェスレイは、当時の英国が直面していた政治、宗教、経済界を覆っていた腐敗、堕落、そして倫理の乱れを克服し、立ち直る力を社会に与えたとまで評価されています。彼はさまざまな縛りつけようとするものから自由になり、信仰の根源まで立ち返ることが出来た人です。
大事にするものは、私たち自身を縛ります。良い縛りがあります。
私たちに力を与え、良い生き方を実現させます。すべての良いものは、キリストの内に満ち満ちています。キリストを信じるとは、この方の縛りに身をゆだねることです。
多くの力、慣わしが私たちを縛りつけようとします。それらをキリストは排除し、武装解除してくださいました。今の私たちは、キリストによって自由となり、キリストと結び付くことができます。感謝しましょう。