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2008年9月28日

《先在の御子》

説教者:
牧師 持田行人
聖書:
コロサイの信徒への手紙?1:13〜23

聖霊降臨節第21主日、讃美歌12,162、262、交読文23(詩96篇)

聖書日課 ヨハネ11:28〜44、ヨブ42:1〜6、フィリピ1:12〜30、

詩編73:21〜28、

私の記憶では、1997年は非常に暑い夏でした。そして残暑も厳しく、11月に入っても夏物を身に着けていました。以来毎年のことで、10月は残暑、と考えるようになっていました。今年は様変わりです。まだ10月にもならないのに、肌寒さを感じるようになりました。

平均気温が上昇し、気候の温暖化が言われますが、それ以前に戻ったような感じです。10年以上続いた傾向が逆の方向を向くとも考えにくいのです。このようなことでも、人の思い通りには行かない、と強く感じます。

  「人の心には多くの計画がある、

  しかしただ主の、御旨だけが堅く立つ」箴言19:21

箴言は旧約時代の知恵の書です。実に多くのことを語り、私たちを教え、考えさせてくれます。箴言は、知識の初めは主を恐れることである、と教えます。では、主を恐れない生き方とはどのようなものでしょうか。それが傲慢であり、箴言の教えの、一つの柱となります。8:13には「主を恐れるとは悪を憎むことである。わたしは高ぶりと、おごりと、悪しき道と、偽りの言葉とを憎む。」とあります。

6:16〜19はこうです。「主の憎まれるものが六つある。否、その心に、忌み嫌われるものが七つある。すなわち高ぶる目、偽りを言う舌、罪なき人の血を流す手、悪しき計りごとをめぐらす心、速やかに悪に走る足、偽りをのべる証人、また兄弟のうちに争いを起こす人がこれである。」

どうやら箴言の記者は、驕り 高ぶりこそ、主なる神が嫌うもの、その御旨に適わないこと、としているようです。傲慢は、神の座に立ち、神に代わって裁きを行うのですから、当然のことです。そして自分自身が傲慢であることに気付かないことが多いのです。

 これが人の常であれば、このような人はいかにして救われるのでしょうか。救い難いのでしょうか。或は見棄てられているのでしょうか。


聖書の中で、「救い」は「赦し、解放、癒やし」などと同義語、とされます。本日のコロサイ書は、この解放を語り、教えています。13節以下は、段落の切り方もさまざまな意見があり、一様ではありません。私は、この所から御父に関して語り始める、という点で段落を切りました。長い文章と、重なり合うような中身は、なかなか理解しにくいものですが、出来るだけ、簡単に整理してみましょう。13〜18節は「御父と御子」について、18〜20節は「キリストの体なる教会」について、21〜23節は「福音宣教」について、と分けてみます。

先ず、父なる神は、その壮大なご計画に基づき、私たちを闇の世界から解放し、御子の国へ移してくださいました。ということは神の子の一人とされたこと、神の国の住民とされたことです。そのためには私たちの罪の赦しが必要ですが、私たちには、赦しに値するような力も業績も、功績もそして血筋すらありません。そのような私たちのために、み子が身代わりとなり、罪の代価、身代金を支払ってくださいました。こうして罪の赦しを得たのが私たちです。


15〜20節全体は、当時の教会で使われていた賛美の歌、キリスト賛歌を、手紙に引用する際に手を加えたものと考えられています。ネストレ版では15〜18は詩の形となっています。大体、日本文で一行になっているものが、二行に別けられている、とお考えください。

その初め、15節は、驚くような言葉、文章です。

「御子は見えない神の姿である」、と記されています。どのような意味があるのでしょうか。それは、ある人が書くように、キリスト・イエスを見ると、神の姿を見たことになる、という意味です。ここで用いられる言葉はエイコン。像、形姿を意味しますが、単に煮ているものを指すのではありません。原型から造り出されたもの、或は原型によって造られたもので、原型と関係を保っていることを意味します。更にこの意味から、キリストは神の本質をその本質としています。人としてのキリストも神の像です。しかしそれは目に見える外形を言っているのではありません。この点は有名なアリウス論争の中心点であって、教理史上重要な一点です。後ほど少しお話しましょう。


このキリストは二点において、他の被造物と異なります。

第一は、このキリストは、神が世界を創造するときに、神と共にいたということです(ヨハネ1:1〜3)。

第二は、キリストは創られたものではなく、生まれてきたものである、ということです。ここではプロトトコスという言葉が用いられます。これは、最初に生まれたもの、長子、初子の意味です。従って、キリストは最初の被造物(プロトクティストス)ではありません。神の長子であるから、この全世界、全宇宙の支配者です。

16節「王座も主権も、支配も権威も」、この四つは、天使のような霊的存在で、天に住み、 地上に多大な影響を与えると当時の人たちは考えた(2:10、エフェソ1:21)。

また当時のユダヤ思想は、詩編89:27の初子をメシアと理解していたので、キリストを初子と呼び、救い主であることを主張しています。

随分難しいことが書かれています。キリスト、救い主、私たちの主、全世界の主である、このことをしっかり頭に納めましょう。当時のコロサイの教会は、偽教師たちによって、この点が揺らいでしまいました。パウロ、またはその弟子筋に当たる人たちの丁寧な指導によって、この信仰の筋を確立できたことは、嬉しいことです。

この機会に、教会史上名だたるキリスト論論争に、少しだけ触れておきましょう。

ローマ帝国内でキリスト教が公認されるのはコンスタンティヌス帝の時代です(306〜37)。

この頃、アリウス派の思想が現れました。コンスタンティヌス帝はニカイア総会議(325)を召集して危機を乗り切ります。その後首都はローマからコンスタンティノポリスへ移されます(330)。論争、主導権争いは続きました。381年のコンスタンティノポリス総会議で正統派が認められ、アリウス派は異端として禁じられました。

論争点はキリストと父との関係です。アリウスたちは、天父と子とは「本質が異なる」と主張します。アタナシオスたちは「天父と子とは本質が同じ」と主張しました。

アリウスの死後、後期アリウス派は3分しました。?非類似的(アノモイオス派) ?類質的(ホモイウシオス派) ?類似的(ホモイオス派) となって対立しました。

正統派は、ホモウーシオスを主張しました。まったき神にしてまったき人、ということです。

次に、18節以下、キリストを頭とする一つの体なる教会の形成、を学びましょう。

ローマ12:5「私たちも数は多いが、キリストに結ばれて一つの体を形作っており、各自は互いに部分なのである」。

?コリント12:27「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です」。エフェソ1:22,23「神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です」。

これらの聖句は、教会の頭はキリストであるをはっきりと語ります。

体の部分に関しては、?コリント12章などをご覧ください。

目や鼻、口は手や足と同じく頭の一部だが、ここでは体の一部と表現されています。

これは信徒各自が、等しくキリストの体の一部であることを示そうとするものです。

エフェソ、コロサイではキリストは頭として、教会である体を支配する。

頭であるキリストは、新しく造られた体の生命力の源泉である(エフェソ2:15,16)。

神学論議として全体教会を認めないものもあるようです。しかしそれは、私たちの信仰箇条に反します。

使徒信条は次のように告白します。「われは聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、身体のよみがえり、永遠の生命を信ず。アーメン」

教会の信条は、その時代の異端に対する戦いの中から生まれました。これはこのように信じなさい、と強要し、強制しているのではありません。違う告白をする人もいる中で、私たちは、この信仰で一致しています、と告白しています。

holy catholic church、世にあまねく広く存在する教会を信じます、という告白です。

これは何もローマ教会が独占するものではありません。教皇制度を受け入れることは出来ませんので、一つの組織、制度になることはできません。然し教会、それもキリストの体なる教会、という点では一つである、と考えます。

この使徒信条を含む、「日本基督教団信仰告白」を、玉出教会は、私たちのものとして、受け入れました。承認しました。これが伝統です。私たちは、この信条を声高らかに告白しようではありませんか。

さて三つ目に使徒による福音宣教について御話しするところですが、次回と重なりますのでそのときに譲りましょう。

ある注解者は、この所全体は、『パウロがアグリッパ王の前で、神が彼に与えられた務めについて話した時の、パウロの演説の文章と密接に関係している』と指摘しています。

使徒言行録26:18「それは、彼らの目を開いて、闇から光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、こうして彼らがわたしへの信仰によって、罪の許しを得、聖なる者とされた人々と共に恵みの分け前に与るようになるためである。」

私たちの教会も、この同じ使命を与えられ、この地に建てられました。ひとりでも多くの人と共に、喜びのおとずれに耳を傾け、賛美を捧げたいものです。