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2008年7月20日

《私は弟ヨセフです》

説教者:
牧師 持田行人
聖書:
創世記45:1〜15

聖霊降臨日第11主日 讃美歌85,322,527、交読文18(詩67篇)

聖書日課 ヨハネ6:41〜59、箴言9:1〜11、
?コリント11:23〜39、詩編78:23〜39、

例年通り、「梅雨明け十日」の暑さを実感している所です。

大変暑い中、イタチの子供たちは、毛皮を着込んでいるのにたいそう元気でした。

昨日・土曜の昼前、牧師館の雑草の中を四匹の茶色の小動物が遊んでいました。一匹は、葡萄の幹に登り葡萄棚を走りました。今までにないことです。二階の部屋に入ってしまうかな、と思いましたが、ガラス戸は開けてあるが網戸は閉めてある、大丈夫。ということで、暫くお付き合いして、見入っていました。

前回説教からの続き、その後何が起こっているでしょうか。

一回の食糧供給だけでは、飢饉は解消されません。日照りは続きます。恐らく次の年、また食糧が底をつきました。ヤコブは再度、エジプトで穀物を調達するように求めます。

43章冒頭です。「もう一度行って、我われの食糧を少し買って来なさい」。ユダは答えます。
エジプトの宰相は、弟を連れて来るように、と我々を帰らせてくれました。弟ベニヤミン抜きで行くことは出来ません。
ヤコブにしてもそれを忘れているはずはありません。どうして弟がいるなどと言って、私を苦しめるようなことをしてくれたのだ。
息子たちは、想定外のことでした、と答えるよりありません。

42章では、長男ルベンが兄弟を代表しました。此処からはユダが代わります。

あの子をぜひ一緒に行かせてください。それならすぐにも行きましょう。

此処まで、聖書は一ページの半分ほどの会話で済ませています。しかし実際は、かなり長い日数が経過しているようです。両方が言いだすことの出来ない状況があったようです。

ユダはこんなことも言っています。「こんなにためらっていなければ、今頃はもう二度も行って来たはずです」。

とうとう父ヤコブも妥協します。「名産品を持って行け。銀を二倍用意せよ。袋にあった銀をお返しするのだ。ベニヤミンを連れて行け。全能の神が憐れみを施しこの子を返してくださるように。この私がどうしても子供を失わねばならないのなら失ってもよい」。

最後の祈りの部分には凄みがあります。新約聖書の祈りに通じるもの、とりわけゲトセマネの祈りと共通するものを感じます。人によっては、ヤコブの祈りに諦めにも似た感情・開き直りを感じるかもしれません。しかし、ヤコブはかつて神に守られ、パダンアラムのハランまで往復し、20年間の生活も守られ、導かれた経験を持っています。人間は、ぎりぎりの所に追い込まれ、初めてまことに信頼すべきものを見つけます。

この場面は、ヤコブの信頼の祈りであると考えます。大きな川の流れは、川底の様子や川幅の変化によって、深い底を流れているものが、表面に上がってきます。ヤコブの人生もよく似ています。普段の生活では人間的な感情、情緒の下に隠されている神への信頼が、危機的な状況の今、表面に出てきました。これがヤコブの信仰です。

ヤコブの息子たちはエジプトへ向かいます。不安と希望のない交ぜになった、落ち着かない旅路だったことでしょう。ヨセフの前に連れ出されます。

ヨセフはベニヤミンが一緒にいるのを見て、執事に命じます。「一緒に食事をするから、家畜を屠り、料理を用意しなさい」。
執事は命じられたとおりにし、一同を屋敷に連れて行きます。彼らは、これまでと違う扱いに戸惑い、不安になり、恐れます。屋敷の入り口で足を止め、執事に言上します。

43:20以下になります。前回の帰り、不思議なことに支払ったはずの銀が袋の中にあったこと、それをお返しし、また新たに食糧を買うための銀を持って来ました。あの銀はどうしたことでしょうか、と。

 これに対し執事は、心配するなと告げます。面白い、と感じました。彼は、「あなたたちの神が、父の神がなさったのでしょう」と繰り返します。あなたたちの神、すなわちイスラエルの神を指しています。ヘブライ人の神ヤハウェは、このエジプトの地にあってもヨセフを通して自らの力を発揮しています。

そしてシメオンを連れて来て、一緒に居させます。

食事の準備も整った頃合に、ヨセフが帰宅し、会話となります。先ず安否を問います。

一別以来如何であったか、というようなことでしょう。その後、「年老いた父親は元気か」と問いかけます。「あなた様の僕である父は元気で、まだ生きております」。

ヨセフは同じ母ラケルから生まれた弟ベニヤミンに目をとめ、言います。

「前に話していた末の弟はこれか」、「私の子よ。神の恵みがお前にあるように」。

 此処でヨセフは、慌てて席をはずします。「弟懐かしさに、胸が熱くなり、涙が溢れそうになった」のです。顔を洗って出てきます。そして食事です。ヨセフのもの、エジプト人のもの、そして兄弟たちのもの、それぞれに違いました。

ちょうど今日でもユダヤ教徒、イスラム、ヒンズー教徒、キリスト教が違うのと同じです。先週のサミットの食事はたいへんだったようですね。

食卓では序列がつき物ですが、兄弟たちの間の順序は間違いなく、席が定められていました。ベニヤミンの分は他の者より五倍も多かった。皆が酒宴を楽しみました。どうやらすでに夜になっていたようです。

ヨセフは、明朝の出立に備えるよう執事に命じます。ここから44章になります。

できる限り多くの食糧を袋に入れる。めいめいの銀をそれぞれの袋の口に、そして私の杯を、銀の杯を一番年下の者の袋の口に、代銀と一緒に入れておきなさい」。

準備ができ、次の朝早く、兄弟たち一行は見送りを受けて出発します。

 まだ遠くに行っていない頃、ヨセフは一行を追うよう、執事に命じます。そして4節後半、「『どうして、お前たちは悪をもって善に報いるのだ。あの銀の杯は、私の主人が飲む時や占いの時に、お使いになるものではないか。よくもこんな悪いことが出来たものだ』」と言いなさいと教えます。

兄弟は、身に覚えのないことですから、しっかりと語ります。「彼らは言った」。これは複数形です。兄弟たちの考えが一致していることが示されます。ヨセフを奴隷に売ったときとは様変わりです(37:16以下)。

「僕どもの中の誰からでも杯が見つかれば、その者は死罪に、他の私どもも皆、御主人様の奴隷になります」。

 執事は、その者だけが奴隷になるが、他の者には罪はない、と言います。そして年長者から調べ始めます。最後、ベニヤミンの袋から見つけられます。彼らは衣を引き裂き、荷を積んで町へ引き返します。彼らの悄然たる後姿が目に浮かびます。

 そしてヨセフによる裁きになります、杯が袋に見つけられた者だけが奴隷になり、そのほかの者は安心して父の家に帰るが良い、というものでした。

そこで、ユダが代表してエジプトの宰相に嘆願します。自分を奴隷として此処に残し、ベニヤミンは他の者たちと共に父の元へ返してやって欲しい。大変丁寧な、行き届いた嘆願です。父を思う心、真実を通そうとする思い、自己犠牲、そうしたものが聞こえてきます。かつて妬みのために弟ヨセフを殺そうとし、ついに奴隷に売ってしまった者が、いまや愛と真実をもって訴えています。

そして45章に入ります。ヨセフは多くの人々の前で、自分を抑えていることができなくなります。皆を追い出し、兄弟たちだけになったところで、声を上げて泣き、自分の身を明かします。

「私はヨセフです。お父さんはまだ生きていますか」。これはヘブライ語でしょう。兄弟たちは驚きの余り耳を疑い、口を開くことも出来ません。

「私はあなたたちがエジプトへ売った弟のヨセフです。しかし今は、私を此処へ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです。この二年の間、世界中に飢饉が襲っていますが、まだこれから五年間は、耕すこともなく、収穫もないでしょう。・・・」。

 ヨセフの信仰は、この出来事全体は、更に大きな救いに至らせるためである、と見抜いています。

大変感動的な場面が展開されました。

歌舞伎にもありそうな・・・この言葉は、最近聖書研究やその他ご一緒に旧約聖書を読み、語り合う時、よく耳にする言葉です。大時代な、義理人情の世界。立派な建前と悲惨な現実。権力者の腐敗と庶民の苦しみ。そうした中で真実に生きる者の姿。

本日は、むしろ新派の舞台で聞かれるようなセリフが聞かれ、演技が見られます。

演劇と聖書は深く関わり、影響を受けてきたはずです。如何に聖書を視覚化するか、聴覚に訴えるものとするか、演劇の進歩に関係してきたでしょう。

たとえば英国の文豪シェイクスピアー、彼は≪人生は、舞台≫と断じます。

そのゆえに彼は、その劇場を「グローブ(地球)座」と名付けました。
其処で「人間の一生」が演じられる、世界だからです。

彼の人間観察の確かさ、深さ、鋭さ、そしてその表現法は、後の時代の哲学、心理学、精神分析の先駆けであると認められるほどです。

『お気に召すまま』の中で、元公爵が追放の身を振り返り、語ります(二幕七場)。

「我われが演じる場面以上に惨めな見世物を、この広大な劇場は見せてくれる。」

それに答えるジェイクスの台詞は、身に沁みるものがあります。

「世界はすべて舞台、そしてすべての男も女もただの役者に過ぎない。

それぞれに登場と退場のときがあり、そして一人が、一生のうちに多くの役を演じ、

その幕には七つの時代がある。最初は赤ん坊、

乳母の腕のなかでにゃーにゃー泣いたり、吐いてもどしたり。

次に、めそめそした学童、鞄をかけて、

輝くような朝の顔で、カタツムリのようにのろのろと

いやいやながら学校へ行く。そして恋する若者、

以下、兵士、判事、痩せたスリッパをはいた老人、

最後の場面は、二度目の子供時代と完全なる忘却、

歯もなく、目もなく、味もなく、何もなく。」

兄弟がどれ程多くの悲劇をはらんでいるか、どれほど大きな矛盾撞着を抱いているか。
ヨセフにしても、その兄たちに対して、さまざまな感情を持っているはずです。

夢は兄たちがヨセフを崇めるようになることを告げました。

現実の兄たちは、弟ヨセフを殺そうと謀りました。

実際にエジプトのファラオの侍衛長に売られてきました。

今此処ファラオの役所に兄たちが来て、ヨセフの前に平伏しています。



 本日のまとめに入りましょう。はじめは、ユダについてです。

ユダが兄弟を代表しているのは、後の時代、このユダの子孫としてダビデが生まれ、十二部族を統一するので、ユダには大きな意味があることが示されます。華を持たせている、という方もあります。ダビデの子孫にイエスが生まれることが暗示されます。

これだけ詳細に出来事を綴るのはなぜでしょうか。

劇的な進行の中に、兄弟たちの愛と真実さを確かめるため。そして、この愛と真実こそが神の民、イスラエル十二部族の紐帯として不可欠のもの、と教えようとしています。

更に私たちは、この長大な物語を通して、神のご計画が成就されてゆくことを知り、信仰を強くすることが許されます。

そこでヨセフの言葉の意味が生きてくるのです。『大きな救いのために』

確かに、この未曾有の大飢饉からの救いの意味があるでしょう。そのためにヨセフは、あらかじめ派遣されてきました。しかしそれだけにとどまりません。

山の彼方に山がある。壁の向こうに壁がある。意味の彼方に更に深い意味がある。

大飢饉からの救いは、後の時代の「出エジプトの救い」に備えるものとなり、更に「第二の出エジプト」、キリスト・イエスによる罪からの救いに備えるものとなります。

更に私たち自身の存在理由、生きる意味を教えてくれます。誰も自分ひとりの利得のために生きてはいません。他の人を救い、活かすために生かされ、生きています。だから私たちの祈りも、自分ひとりのためではないし、他の人のため、他の人と共に生きる、生かされることを求める祈りへと向かうのです。

感謝しましょう。