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2008年6月15日

《主がヨセフと共にいた》

説教者:
牧師 持田行人
聖書:
創世記39:1〜23

聖霊降臨節第六主日、讃美歌16、交読文14(詩50篇)
聖書日課 ヨナ(3:6〜10)4:1〜11、エフェソ2:11〜22、ヨハネ4:27〜42、
詩編126:1〜6、

先週も萬代池の周りなどを自転車で走りました。帝塚山から池の辺りには枇杷の木があります。実もたくさんなっていました。玉出教会の枇杷がカラスに食べられた後も、食べられていませんでした。どうしてだろうか、と思いましたが色が良くなるに従い、なくなっていました。カラスが食べたか人間か、賢いものは、食べごろを見分けているのでしょう。また昨日は東北地方で大きな地震がありました。地面の崩落、と伝えられた画面を見て驚きました。山野がでこぼこになっています。あの地方は深い森が連なる美しい所、目を覆うような惨状です。あの崩れた道路は使えなくなりそうです。付け替えるしかないでしょう。さもなければ橋を架けるのでしょうか。阪神淡路、中越、中越沖、そして今回。自然災害は相次いで起きています。何よりも犠牲者、被災者の皆様の冥福を祈り、復興が速やかになされますよう願います。「備えよ、常に」はボーイスカウトの標語です。私たちすべてが、不時の災害に備えるように求められています。

前週は、ヨセフに対する父ヤコブの偏愛振りと兄たちの反応まで読みました。

今日はその続きを読みましょう。37:12以下です。「ヨセフ、エジプトに売られる」と小見出しが付けられています。

ヤコブ・イスラエルの子供たち、そのうち十人の年長者たちでしょう、彼らはシケムで羊を飼っていました。シケムって何処かな、って思いませんか。スタディバイブルはこうした場面で、とりわけ便利です。57ページの欄外註にあります。

33:18、シケムはカナンの中心に位置し、イスラエルの部族がカナンに入った後、重要な集会の場となった(ヨシュア24:1)。シケムからヘブロンへは南に約75km。古代の町ドタンはシケムから北に約22km。

シケムは前週学びましたが、ヨルダン川の東ペヌエルから西へ渡って、山地に入ったところ。サマリヤのゲリジム山の北あたり。

父ヤコブはヨセフを使いに出します。兄息子たちが元気に仕事に励んでいるか、羊たちも無事か、様子を知らせてくれ。一体どういうことでしょうか。兄たちに聞いておいで、というのか、それとも様子を見ておいでというのでしょうか。どちらとも分りかねます。
ヨセフは、兄たちと羊の群れを求めてドタンまでやってきます。兄たちは遠くからヨセフを見つけ、彼を殺す相談をします。「夢見るお方がやってくる」、という言葉は、彼らが何を怒っていたかを示しています。ヨセフの見た夢とその解釈、その意味を怒っています。

弟が兄を従わせる、息子が父親から礼拝を受ける、これを怒っています。穴の一つに投げ込もう、ということになります。

この穴は、雨水を溜めるもので、蒸発を防ぐため口は狭く、中は広く作られています。たいてい岩をくりぬいて作られています。兄弟たちは殺してから穴に投げ込むことを考えていたようです。長男のルベン(29:32)は、「命を取ってはならない。穴に投げ込むだけ」と主張して、受け入れられます。この考えのほうが、夢がどうなるか見ることが出来る、という判断があったように感じられます。勿論、長男として父ヤコブの心中を思いやった、とも考えられます。それは22節の最後のところに顕れます。「父の元へ返したかったのである」。

さてヨセフがやって来ました。兄たちは彼を捉え、着ていた長袖、裾長の衣服を剥ぎ取り、穴に投げ入れます。丁寧に穴の状況も説明します。空っぽで水はなかった、と。

兄たちはそのまま食事を始めます。ヨセフには、その気配が感じ取れるようにしたのでしょう。意地悪く感じられるでしょうが、それこそ兄たちの企てです。シケムからでも22キロ、長い距離を懸命に歩いて来ました。疲れているでしょう。その上、空腹であったと考えられます。殺したいほど憎んでいる弟です。このくらい当然なのでしょう。

そこへイシュマエル人の隊商が、ヨルダン川東岸のギレアデからエジプト目指してやってきました。この隊商の荷物が何であったかを書いています。ギレアドの乳香、没薬、樹脂です。これらは、大変高価ですが、優れた品質で知られていました。特にエジプトでは、ミイラ造りに欠かせないものでした。

それを見て四男のユダが、皆に語りかけます。

「あいつだって肉親だ、殺すのは止そう。イシュマエル人に売ろうじゃないか」。
皆がこれを受け入れました。

それにしても28節はおかしいですね。兄弟たちは穴の近くにいるはずですが、彼らの知らない間に、ミディアン人の商人が「ヨセフを引き上げ、銀20枚でイシュマエル人に売った」というのです。伝承が二通り、あるいは三通りあったのでしょう。イスラエルと呼び(13節)、ヤコブと呼びます(34節)。これも伝承の違いだろうと考えています。一本にまとめようとして、チョッと失敗したのではないか、と考えられます。

売られた後にルベンが帰って来ます。何時から、何処へ行っていたのかは何も分りません。聖書記者にとって、どうでも良かったに違いありません。ルベンは、驚き、パニック状態になります。「ヨセフがいない。どうしたら良いだろう」。長男として、父親にどの様に言ったら良いか悩みます。兄弟たちは細工することを考えます。ヨセフの衣類を取り、雄山羊の血に浸し、それを父のもとに送り、「これを見つけました。あなたの息子のものか否か調べてください」。弟と言わない冷たさ、父に判断させる非情さ、ルカ福音書15章の放蕩息子の譬と同じものを感じます。

ヤコブはこれを見て、自分の衣を引き裂き、粗布を腰にまとい、嘆き哀しみます。息子、娘たちがやって来て慰めますが、「ヤコブは慰められるのを拒んだ」とあります。決して老人性の引きこもりではありません。悲しみの淵に沈み、立ち上がることが出来なかったのです。「生きている喜びも、希望もない。死んだほうがましだ」。ヤコブの心境です。ヤコブはきっと、長生きすることは悲しみを積み重ねることにほかならない、と言うでしょう。

今ミャンマーで、中国四川省で、宮城・岩手内陸部で、多くの人が同じ悲しみが経験されているのです。

38章は、ユダとタマルの物語です。省略しようと思ったのですが、簡単にお話します。
この背景にあるのはレビラート婚です。申命記25章に記されています。
イスラエルの律法は、子供なしで夫が死んだ場合、その兄弟は、兄嫁と結婚し、兄のために子を儲けなければならない、と定めます。
ユダは、ヤコブとレアの間に生まれた4番目の息子です(29:35)。彼はカナン人シュアの娘と結婚し、長男エル、次男オナン、三男シェラを儲けました。息子エルの嫁がタマル。エルは主の前に悪を行なったため、殺されます。

そこで舅であるユダは、掟に従い、次男オナンがタマルと結婚し、長男エルの跡継ぎを得ることを求めます。それを不満に感じたオナンは、『子種を地に漏らします』。これも主の意に背くことであり、主は彼を殺されました。ユダは困惑したことでしょう。三男シェラをタマルのもとに入らせて、また彼を失うことになったらたまらない。そこで、シェラはまだ小さいから、成人するまで やもめのまま実家で暮らしなさい、と言って帰らせます。かなりの年月がたちました。ということは、シェラも成長したはずです。タマルはユダには約束を守る積りがない、と判りました。

その頃ユダの妻がなくなります。その後ユダは、タマルの家の近くでしょうか、ティムナへやってきます。そこで神殿娼婦と思い、女と寝ました。そのしるしを与えます。

その結果タマルは身ごもり、人々は、タマルが姦淫したとユダに告げます。ユダは、「あの女を引きずり出して、焼き殺してしまえ」と言います。

 タマルはそれを聞いて、しるしの品々、「紐のついた印章と杖」を示し、誰のものか調べるように求めます。ユダは直ちにすべてを理解します。26節「わたしよりも彼女のほうが正しい。私が彼女を息子のシェラに与えなかったからだ」。

タマルは、裁かれることなく、ユダの家で双子の男の子を生みました。そして、ペレツとゼラと名付けられます。

マタイ1:3の系図は「ユダはタマルによるペレツとゼラの父」と記します。救い主・キリストの系図は、異邦の女だけではなく、姦淫という罪を、そのうちに含んでいます。

私たちの世界は、醜いもの、汚いことは隠し、美しい立派に見えるものだけが見えるようにしようとします。そうすることで、自分を誇ろうとします。その陰でどれ程多くの人が傷付けられ、打ちのめされ、倒されてきたことでしょうか。ところが聖書は違います。

隠したいようなことを公にし、そうした営みを神は用いてご計画を成就されることを示されます。

更に、救いは人間の力や、功績によらず、またその清さにもよらないことが明らかにされるのです。

39章に入りましょう。イシュマエル人の商人に連れられたヨセフは、エジプトの王・ファラオの侍従長ポティファルのもとへ売られました。2節、3節に「主が共におられたので・・・主がすべてうまく計られるのを見た」と書かれています。ヨセフは、エジプトのファラオの家にあっても主に守られ、その主人はヨセフの働きの中に主の力を見出しています。今日私たちは、これを「証する」と表現しています。

この先、ポティファルの妻のことは、次回お話させてください。

主はヨセフと共にいた。祝福し、御守りくださいました。万事が好都合になった、進んだ、と語られています。逆にうまく行かなかった場合、どうなるのでしょうか。どの様に語るのでしょうか。「主は共におられなかった。それはヨセフの罪の結果であり、ヨセフが裁かれたからです」、と語るのでしょうか。

自然災害や交通事故、戦争、病気などがあります。いずれも人の側からは、思い通りにならないことです。何も悪いことをしていないのに何故だろうか、と考えます。主が共におられなかった、いなかったのでしょうか。第一次世界大戦、ヨーロッパの戦場は大変悲惨な状況だったそうです。カソリックの信仰者であったカール・ヤスパースは、信仰を棄て、実存哲学を構成します。それでも『超越存在』トランスエクジツテンツという名を用いざるを得ませんでした。

ヨハネ福音書9章を思い浮かべています。生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか。主イエスは答えます。誰の罪でもない。神の業がこの人に顕れるためである。ハンセン病の患者・大日向繁さんはこの言葉に撃たれてクリスティヤンとなり、更に牧師となりました。長い時間が必要かもしれません。神の業が顕れる、その時を見ることが許されるのです。感謝しましょう。