聖霊降臨節第四主日、讃美歌85,444,270、 交読文9(詩29篇)
聖書日課ハバクク2:1〜4、?ヨハネ2:22〜29、ヨハネ3:22〜36、詩編16:7〜11、
昨日の朝、テレビはホタルに興じる子供たちの姿を映していました。山奥の清流のある所です。それで思い出しました。佐川教会について報告しなければならないことです。
18日・日曜日の夜、辞去しようと北谷先生の車に乗りました。動き出した所で、大庭夫人が「ここ見て」と仰る。門のすぐ脇、牧師館裏庭へ行く木戸の下を指差しておられる。見ると、ホタルが光っています。それだけのことですが、街中のスーパーストアの隣にある教会がホタルに囲まれている、なんと素敵な所だろう、と感じました。蛍のことが報じられたら、佐川教会を思い出してください。ホタルの飛ぶ教会、皆様もぜひ一度お訪ねください。もっともホタルは今だけです。その代わり、何時でも野鳥が迎えてくれそうです。教会裏の電線に、やや大振りな黒っぽい小鳥が止まり、綺麗なさえずりを聞かせてくれました。季節ごとにいろいろな野鳥を楽しむことが出来るでしょう。近くの春日川には大きな鯉が悠々と泳いでいました。誰も釣る人はいませんでした。鯉こくも鯉の洗いも目にしませんでした。平和な里です。祝福された地だなあ、と感じました。
さて創世記では、ヤコブが神と組打ちしたペヌエルの場面まで学びました。いろいろな説がありますが、神が負けるということは、神の本質からしておかしい。『神に勝たれた者・イスラエル』とお話しました。求めに応じて祝福することは、神の敗北ではありません。天地創造以来、祝福こそ神の本質でした。
イスラエルの名を与えられ、祝福されたヤコブですが、33章では兄エサウが400人を引き連れ近付いてくるのを見ました。ヤコブは依然として兄エサウを脅威と考え、対応します。家族を分けて、仕え女とその子供たちを真っ先に進ませます。次にレアとその子供、最後にラケルとヨセフ(30:24)を置いたとされます。これは自分の側の都合、最も愛する者の安全を図ったのだ、と考えられています。それほどエサウを恐れていた、ということです。
そこでエサウは如何だったか、というと、彼は走り寄り、ヤコブを抱き、共に泣きました。エサウの心の中からは、かつての恨み、憎しみは消えてなくなっていました。一体、ヤコブの恐れは何だったのでしょうか。それがあったからこそ、すぐに帰って来ようとは思わず、ラバンのもとでの労苦を我慢できたのでしょう。
また自分のしたことを悔い、正しい道、神に従う道を求めるようにもなりました。
この後の展開には、少しばかり、驚くようなことが示されます。
ひとつはエサウの言葉です。家畜のおびただしい数に驚きます。誰のものかと尋ねます。
33:8の言葉は解釈に困難を覚えますが、『恵みを得るためには捧げものを携え、神の前に出る』ということから、我が主エサウの好意を得るための贈り物です、という意味のように考えられます。贈り物です、あなた様のものです、と言っているのです。
それに対してエサウは次のように返します。「弟よ、私のところにはなんでも十分ある。お前のものはお前が持っていなさい」と。エサウは辞退しました。ヤコブが上手に勧めて、ようやく贈り物を受けます。人間の欲望と怨恨の絡み合いを考えると、このあたりエサウの気性がよく見えてくるように感じられます。激発型とでも言うのでしょうか、さっぱりしています。すべては水に流されてしまっている、と言えそうです。
そこでもう一つあります。エサウは「一緒に出かけよう」と言いますが、ヤコブはそれを断ります。では私の家の者を何人か残して道案内させよう、とエサウが言います。ヤコブはそれも断ります。そして14節で、エサウのいるセイルへ参ります、と言ったにも拘らず、そこへは行かず、全く方角も違うスコトへ行きます。セイルは死海の南から東南に当たります。ヤボク川のペヌエルからはまだ道のりがあります。およそ200キロメートル程度。ヤコブが行ったスコテは、ペヌエルから川沿いを西へ8キロほどの北の岸。ヤコブは和解してもなお、自分がなしたことを記憶する故に、恐れから解放されないのです。彼は更に西へ進みます。ヨルダンを何処で渡ったかが記されていません。ペヌエルから直線で40キロほどのシケムに着き、そこに宿営します。エサウに語ったことと違います。嘘、偽り、裏切りです。そこで土地を購入します。祭壇を建てます。ヤコブが手に入れることの出来た最初の土地です。それ以上に、アブラハムへの祝福の契約の成就が始まった、と記憶されるべきでしょう。
創世記12:6、7「アブラハムはその地を通り、シケムの聖所、モレの樫の木まで来た。当時その地方にはカナン人が住んでいた。主はアブラハムに現れて、言われた。『あなたの子孫にこの土地を与える』。」
神の約束は、このように人の虚偽を用いてでも、成就されてゆきます。確実であるゆえにこの神を堅く信頼しなさい、と教えられます。
これらを読む時、私たちは何を感じるでしょうか。ヤコブって随分いけ好かない人だな、と感じませんか。エサウのほうが感情的だけど人間的で、さっぱりしていて気持ち良いよ、と感じる方が多いのです。それではいけないのでしょうか。私はそれで良し、と考えています。創世記は、第1章のように、人間を創られた者として持ち上げようとする見方と、
第2・3章のように創造の秩序から転落したものとしてみようとするものに分かれます。
ヤコブ物語には双方の見方、考え方が混ざり合っています。
そこではどれほど人間的な力、魅力に溢れていてもそれだけでは祝福されないし、未熟な、暗い影を持った人間でも神の御旨に適えば祝福されることが、語られているのです。
先週の説教の後で、あけぼの会がありました。そこで信徒の友5月号を読みました。ペンテコステ特集で、『聖霊を求める祈りとは』という文が載せられていました。丁度、ヤコブの祈りで私たちが学びえたと同じ意味のことが書かれていました。「我意と神意」ということです。説教前に読んでおけば良かった、と後悔しました。数人で一冊を廻し読みするようなことでも宜しいと存じます。どうぞ、毎月お読みくださるとありがたく存じます。
神の民は、決して完全無欠で、偉大な民族ではありません。他を騙し、隙を狙って奪い取り、逃げ出し、その結果を恐れ、恐怖に震えるような人間です。当の相手がそれを忘れ、喜び迎えているのに、信じることが出来ず、手立てを講じなくては眠ることも出来ない人間。それが選ばれ、神の民となり、イスラエルの父祖とされるのです。これは今日も同じです。何の功績もない私たち、家柄、血筋も持たない私たち、弱く、穢れていることだけは確かな私たちが神の民とされています。感謝しましょう。
34章は省略します。各自でお読みください。
35章は、ヤコブが神に命じられてベテルへ上る記事です。28章後半に『ヤコブの夢』と題された記事があります。これがベテルの地名原因物語、またヤコブに対する神の祝福の約束でした。今35章では、あの時、お前を守り導き返してくれた神に祭壇を築きなさい、と命じられます。2節でヤコブは、お前たちが身につけているすべての外国の神々を取り去り、衣服を着替え、身を清めなさい、と言います。さまざまな、小型の御守りのような装身具があったのでしょう。私たちの周辺にもあるようです。
4節に、人々の反応が記されています。すべての神々と耳飾をヤコブに渡し、彼はそれを樫の木の下に埋めた、とされます。高い樹の下は、しばしば聖所、神の宿る所と考えられていました。その根方に埋めることで、それは封印されたことになるのでしょう。
ここにはすでにリベカの乳母でボラが葬られています。そのため、ここはアロン・バクト、「嘆きの樫の木」と呼ばれたと記されます。
この地に祭壇が築かれた時、神が顕れ、ヤコブを祝福し、語ります。
第一は、「あなたの名はもはやヤコブと呼ばれない。イスラエルがあなたの名となる。」
すでにヤボクの渡しで、お前の名はイスラエル、と告げられました。それでもまだ、ヤコブでした。ここから「イスラエル」が実質を持つようになります。実際にその名をもって呼ばれるようになります。名が実質化するためには時間が必要です。
実質化とは、この場合は神への徹底した信従です。御言葉に従うことです。
第二は、「産めよ、増えよ」です。ご承知のように創世記1:28で神が言われた言葉です。
「神は彼らを祝福されて言われた。『産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ』」。
ヤコブが「イスラエル」を名乗る時、創造の秩序の再建が期待されています。
彼からは多くの民が産まれ、多くの王が立つようになります。
第三は、「この土地を与える」ことです。アブラハムに対する約束で見てきたとおりです。
イスラエルはユダヤ人とその国家となりました。彼らは、今でもあのカナンの地を約束の所と信じ、所有権を主張しています。長い不在の期間がある時、それが認められるでしょうか。所有権は認められるでしょうか。第一次大戦の時、戦争を有利に導くために英国は、この土地にユダヤ人国家の建設を約束しました。パレスチナ紛争の始まりです。
現代の多くの問題は、いわゆる先進諸国に責任があることが多いものです。神の責任ではありません。人間の利己的なご都合主義の結果です。同じものを抱えている私たちも考えねばなりません。
ヤコブはこれら神の言葉に対して何をしたでしょうか。石を立て、記念碑としました。28:22の繰り返しです。繰り返されることは、そのことが重要であることを示しています。石を立てること、記念碑とすること、が重要なのでしょうか。むしろ、ブドウ酒を注ぎ、油を注いだことです。
これは記念碑を聖なる物とすること、神の名を拝することに他なりません。神から祝福を与えられた時、私たちは神を礼拝することにこそ力と心を集中させるべきです。祝福の結果を守ろうとすることよりも、神を礼拝することが大切です。感謝しましょう。