聖霊降臨節第三、讃美歌76、169、339、交読文12(詩42篇)
聖書日課 イザヤ40:12〜17、?テモテ6:11〜16、
ヨハネ14:8〜17、詩37:23〜40
昨日から全国的に雨降りとなりました。午後には止むようです。ミャンマー、四川省の状況が心配です。
前主日は、佐川教会の牧師就任式。大庭先生のご就任をお祝いするために、玉出から牧師を含め四名が礼拝から参加しました。また笠岡の北谷先生ご夫妻もおいでになりました。
高知県下の教団の教会は20教会。そのうち16教会からご出席があり、合計19教会65名の出席。大変盛大でした。大庭先生もいつもの笑顔で励んでおられました。良い礼拝と教会形成をなさることでしょう。
佐川教会は、高知教会の出張伝道地として始められました。旧日本基督教会、長老主義教会の伝統です。大阪の旭教会、玉出教会とはだいぶ違います。学ぶ姿勢を忘れなければ、何処でも大丈夫です。どうぞ祈りのうちに憶えてください。
本日の聖書は、『ペヌエルでの格闘』と小見出しにあります。
伯父ラバンのもとを出立したヤコブ一家、旅路を重ねてガリラヤ湖、昔の呼び方ではキンネレテの海に至り、ヨルダン川の東を南へ下ります。前回、ヤコブが追いかけてきたラバンと話をした所は、ギレアデの山地とされました(創世記31:21,23)。キンネレテの海の東、ヨルダン川の東を南へ下る地域がギレアデの地です。牧草に適した高地と穀物が育つ肥沃な低地からなる、とスタディバイブルにありました。
創世記31章では、三日目に脱走が発見され、七日の道のりを追跡して追いついた。そこがギレアデの山地で、ハランから十日で下るのは、大きな家畜の群れを抱えたヤコブには困難、と申し上げました。
そのところで、ラバンはヤコブと契約を結びます。
この内容は二つに分かれます。第一は31:50、「お前は私の娘を幸せにしなさい。他の女と結婚してはならない」。非常に近代的であり、同時に人間的なものです。簡単に言えば、親としてのラバンの心情は、現代の親と少しも変わらない、ということです。親は子の幸せを願うものです。そのためなら自分の感情も抑えることが出来ます。ラバンは、ヤコブへの感情を押さえ込みました。
第二は、お互いに侵略しない、という約束でした。石塚を作り、それを証人として、境界ともして、敵意をもって侵入しないことを互いに誓います。相互不可侵の契約なら、その境界はもっと北のほうが相応しいと考えられます。後にソロモン王時代のイスラエルは北の境界をユーフラテス川の近く、北シリアのケデシュにまで広げます。その近くのほうが適切ではないでしょうか。
これほど南を境界とする理由は何でしょうか。現実に力関係がそのようなものであった、ということです。ヤコブとその一族はこれから勢力を広げるのです。これほど力弱き民が、神の助けによって大きな勢力、民族へと成長する、と語っているのです。信頼に値する神であることが示されます。神を信頼しなさい、と教えられます。
こうしてヤコブは、背後から追いかけられる心配は無くなりました。ヤコブの心は、ベールシェバにいるはずの父イサク、母リベカ、兄エサウに向かいます。懐かしい、元気だろうか、帰りたい、こんなにたくさんの財産、二人の妻、二人の側女、11人の子供、驚くだろうな、見せて安心させたい。喜ばせたい。ヤコブの心は故郷の両親を思う心で一杯になります。すると思い出されることがありました。これまで一生懸命心の隅に押し込め、思い出さないようにしてきました。兄エサウのことです。27:41を思い出してください。
長男の祝福をヤコブに横取りされたエサウは、ヤコブを憎むようになりました。
「父が死ぬ日も遠くないだろう。そのときにはヤコブを殺してやる」。この殺意を恐れて、母親リベカはヤコブを、一時的にハランの兄ラバンのもとへ行かせました。
以来20年の歳月が過ぎました。押さえ込んできたものも、吹き出てくる時があります。
他の心配が無くなった時、かつての恐怖が浮かび上がってきました。兄がわたしを憎んでいる。わたしがそのことを忘れていないのだから、兄エサウも覚えているはずだ。かつての恨みを晴らそうとして、力を蓄えているに違いない。
ヤコブは考えます。どの様にして兄の心を、憎しみを和らげるか。また被害を最小にするか。先ずエサウがいるはずのセイル地方、エドムへ使者を遣わし、言わせます。
「弟ヤコブが、伯父ラバンのもとでの滞在を終え、牛、ロバ、羊、男女の奴隷を所有するようになって、帰って来ました。ご機嫌をお伺いします」。使者は帰って来て報告します。「兄上様は、歓迎のため400人のお供を連れて、ここへ向かっておられます」と。
この知らせを聞いてヤコブは悩みます。何も知らない僕たちは、この主人の兄上様が400人もの僕を抱える有力者であると考え、喜んだことでしょう。しかしヤコブは従来のいきさつを全て心得ています。疑心暗鬼になり、エサウを恐れます。
「400人も連れて来る。自分を殺すためではないか」。思い悩んだ末、すべての家畜、人間を二組に分けます。エサウが攻撃してきてもどちらか一方を助けられる、と考えたのです。
これがマハナイムという地名の原因です。「二組の陣営」という意味です。
そして祈ります。「神よ、私はあなたの仰せに従い国へ帰ってきました。これまで守り、豊かなものにしてくださいました。兄が攻めてくるかもしれません。子供たち、その母親を殺すかもしれません。約束を果たしてください」。
この祈りの後、ヤコブはさらに手立てを考えます。32章14節以下をお読みください。
兄への贈り物を三つの群れに分け、間をおいて進ませます。自分がエサウと会う前にこれらを見せることで懐柔しようとします。21節
「贈り物を先に行かせて兄を宥め、その後で顔をあわせれば、恐らく快く迎えてくれるだろう、と思ったのである」。
神を信頼し、約束どおり御守りくださいと祈ったヤコブです。それが直ちに自分の知恵を頼み、力に依拠するのです。
ここまでのヤコブは、確かに祈りを捧げています。しかし、祈っても祈っても心は平安になりません。不安に支配され、次々と手段を考え、手を打ちます。それでも不安です。
そこで、贈り物を先に行かせ、ヤコブ自身は、野営地にとどまります。
ここには少しの乱れがあります。23節は22節の説明とでも考えておきましょう。ヤボクの渡しをわたり、独り残ったヤコブです。
25節「その時、何者かが夜明けまでヤコブと格闘した。ところが、その人はヤコブに勝てないと見て、ヤコブの腿の関節を打ったので、格闘をしているうちに腿に関節が外れた」。
ヤコブは神と格闘したことを知ります。
組打ちとも訳されます。日本では相撲だし、中国、韓国、蒙古にも同じようなものがあります。ギリシャ、トルコなどではレスリングと呼ばれています。Struggle
そして最終的に祝福を獲得します。
この格闘は、伝統的に『祈りである』とされてきました。
それでは、彼は何を祈ったのでしょうか。
ヤコブには望郷の念があり、ハランを出発しました。彼はその苦しい旅路の中で兄エサウのことを思い出します。兄エサウは弟ヤコブを殺そうと考えたことがあります。故郷が近くなるほどに、思い出は次第に大きくなり、重荷となります。
郷里が近くなればなるほど、帰郷の喜びよりも恐れが湧き起こされてくる。
兄弟の間の解決されていない問題があるのです。
彼は自分自身が抱える恐怖と戦います。自分の期待、願望と戦います。
ヤコブは神を相手に組打ちをしました。ヤコブはこの時、組打ちに負けています。腰の関節は、力が所在する所として重んじられました。この筋が外れるということは、もはや力が出ないこと、格闘に敗れたことを意味します。それでもなお、ヤコブは神にすがりつき、組打ちを続けました。「負けるが勝ち」という諺は、ここでも生きています。ヤコブは負けることで祝福を得ました。
ヤコブの祈りは、自分にとっての安全と幸福ではないでしょうか。
自分自身の願いを組み伏せ、神のみ言葉に自らを委ねること、これがヤコブの格闘なのです。
彼はイスラエルと言う名を与えられます。『ヘブライ語で、イスラエルの意味の一つは「神と戦う」である。アブラハムの子孫は後にイスラエルの民、イスラエル人として知られた。「神は戦う」が原義』。これから出て、神の戦士、神勝利する、などとも訳されます。
私は、これを「神に勝たれたる者」と訳したい。というよりそのように訳している注解者に賛同します。ヤコブは、まさに神に勝たれた者だからです。格闘して神に負けました。そして負けたからこそ勝ちました。祝福を得ました。
『祈りの格闘』で思い出すのは、なんと言っても『ゲツセマネの祈り』でしょう。
マルコ福音書14:32〜42,36節「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願う事ではなく、御心に適うことが行なわれますように。」
ここにまことの信頼があります。
私たちもまた祈りの格闘をします。その中で自分の願いと神のご計画がぶつかり合うこともあるでしょう。その時どうするでしょうか。
私たちの祈りは、御言葉にたってなされます。「主よ、お約束を果たしてください」。
ルカ2:29でエルサレムの老シメオンは祈ります。ヌンク ディミッティス
「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり
この僕を安らかに去らせてくださいます」。
ヤコブは、約束を御守りくださる神を知りました。この神は信頼できることを教えられました。それでもなお、彼は自分の恐怖に打ちのめされ、自分の知恵、力で対抗しようとしました。繰り返し祈る中でヤコブは神の力に負けました。屈服するしかありませんでした。そのヤコブが神に祝福されました。
私たちも神と格闘し、神に敗れ、なおかつ祝福される者です。感謝しましょう。