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2008年4月27日

《ヤコブは結婚する》

説教者:
牧師 持田行人
聖書:
創世記29:1〜35

復活節第七主日、讃美歌28,164,275、交読文13(詩40篇)
聖書日課 列王下2:1〜15、ヨハネ7:32〜39、黙示録5:6〜14、詩編46:2〜12


早いものです。新しい年を迎えた、と思うまもなく連休の入り口まで来ました。知らなかった、気付かなかったのですが、昨日の土曜日から大型連休はスタートしているそうです。26日から5月6日まで11日間、飛び石状態で続きます。カレンダーの上ではそうなりますが、気持ちの上では如何なものでしょうか。収入が抑えられ、景気も悪く、支出と血なまぐさい事件が増している。何方様も、楽しもうというような浮き立つ心には、なかなか なれないのではなかろうか、と案じます。

テレビ・ニュースの構成も、何か象徴的なものを感じます。メーデーの集会では、格差是正が訴えられました。年収200万以下のワーキングプアーの人々ネットカフェに泊まることすら出来ない人たちの存在が増えている。とも報道されます。画面が変わると、大型連休始まる、新幹線、自動車道の様子、空港の渋滞ぶり、が映し出されます。「働けど働けど我が暮らし楽にならず じっと手を見る」石川啄木でしたか。金田一京助に借金をして、芸者遊びをし、首が回らなかった時代の歌、と聞きます。説得力を欠く、とも言われますが、今の時代を表すものとして充分説得力を持っています。

生活の苦しさは、今の時代だけの特別な問題ではありません。いつの時代も貧しい者がいて、生活の苦しさを訴えています。あるいは沈黙のうちに姿を消すこともあったでしょう。少数の特権階級のために、多数が仕えて当たり前の時代もありました。そういうことを無くすのが政治のはずです。力弱く、貧しい者が正直に暮らすことが出来るようにするのが政治である、と読んだことがあります。政治不在の季節でしょうか。

創世記は、古代世界の、庶民生活を描きます。愛と冨、これはいつの時代にも共通する問題。喜びと悲しみをもたらすものです。

ヤコブは、故郷を遠く離れ、伯父ラバンの娘ラケルと結婚しようとします。

ここには、ヤコブの家庭環境などの影響はないでしょうか。ヤコブの両親、イサクとリベカの結婚は、どのようなものであったか、という問題も感じます。

イサクは、生贄として捧げられようとしました。その時、母サラの意向は如何だったのでしょうか。何も記されていません。語られていないのです。無視されているとしたら、この夫婦の関係は、必ずしも良好とは言えないでしょう。親として、子供の教育に協働することがなかった。一つの家庭として同じ信仰を保つ、維持することがなかったのでしょう。夫婦の間を隙間風が吹いているように感じます。共に悩み、苦しみ、慰め、励ますような関係が夫婦ではないでしょうか。

もう一世代遡って、アブラハムとサラの夫婦は如何でしょうか。彼らは長い間子どもが与えられないことで苦しみました。慰め、励ましもしたでしょう。その結果、エジプト女ハガルによって子を得ようとサラは提案します。それが現実のことになった時、言を違え、ハガルとイシュマエルの母子を追い出すように求めたのはサラでした。危険な隙間風を感じます。

このような食い違いは、それを修正するために、格別な努力が必要。何もしないまま、イサク奉献のときを迎えました。イサクのうちには親に対する不信感があったことでしょう。

イサクの結婚は、母親サラの死後のことでした。

『彼はリベカを愛し、・・・母の死後、慰めを得た』と記されています(創世24:67)。イサク中心であって、遠隔の地へ嫁いで来た若い女性の心に触れる言葉は見られません。最初からある種のボタンの掛け違いがあったことを、聖書記者は隠そうともしていません。二人の間に双子の息子が与えられます。イサクはエサウを愛し、リベカはヤコブを愛しました。それぞれ自分の利益を中心に、自分の欲望、必要を満たしてくれる者を愛しました。愛されている者の側には、いつも不安があります。親の顔色を伺うことになります。自分は親の求めに答えているだろうか、という不安です。精神的に不安定だし、自信のなさにつながります。ヤコブの様子と重なります。

結婚式で読まれる聖書の箇所は幾つかあります。その一つはエフェソ書5:25〜32です。「それゆえに、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人のものは一体となるべきである」。創世2:24、マタイ19:5、マルコ10:7,8、

人間は結婚を契機として、自立すること、成熟へと向かうことが示されます。ただし、親から自立したように見えながら、配偶者に寄りかかることになる場合があります。

古代世界においては、人間の数は力そのものでした。労働力、戦士となるからです。旧約聖書が人口調査をするとき、男の数しか調べません。これは大きな手落ちです。人口を再生産するために女がいなければなりません。それだけが存在理由ではありません。古代においても女性は、求められる大切な存在でした。

ハランに到着したヤコブとラバンを知る人たちとの出会いが語られます。井戸に関する慣習は、井戸を守るためのものだったでしょう。異邦人の旅人による破壊から、仲間の者による排他独占から守ろうとするものです。同時に協力協働によって結束が強くなることを求めたのでしょう。

 日本でも田植えや屋根の葺き替え、普請などを協力して行なうことによって、村落共同体の絆を深めてきたことがよく似ています。1970(昭和45)年以降かと記憶しますが、政府、文部省が各地の市町村の末端に向かって「各市町村の祭礼を盛んになるよう指導せよ」と通達を出しました。町役場の人が教えてくれました。それによって神社の祭礼費を町会で集めやすくなったようです。目的は地域共同体の結びつきを強めることでした。そのために、教会からも神社の祭礼費を徴収しようとしました。信教の自由を侵害することです。

ラバンの娘ラケルが羊を飼う者として登場します。24章ではラバンの妹リベカが、水がめを肩に登場し、アブラハムの僕の連れている駱駝すべてに水を飲ませました。同じ井戸でしょうか。ユフラテ川の上流で水の豊かな所、井戸も多かったでしょう。

血筋かもしれませんが、リベカ、ラケルは共に水を汲み、多くの駱駝、羊、家畜を守り導く力がありました。それでも決まりごとがあったようです。ラケル一人では大きな石のふたを動かせないので、彼女が来るのを待つようになっていました。


ラケルと羊の群れがやってきた時、ヤコブは他の羊飼いを待たず、石を動かし、「伯父ラバンの羊」に水を飲ませます。そして自分がリベカの息子であることを知らせます。この辺はたいへん感動的な情景描写がなされます。

やって来たラバンは、ヤコブから直接話を聞き、「お前は本当に私の骨肉の者だ」と言います。「骨肉」は、恐らく創世記2:23「ついに、これこそ  わたしの骨  わたしの肉

これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう  まさに、男(イシュ)から取られたものだから。」

に基づく表現でしょう。最も近い血筋のもの、ということです。日本人は、血肉と言い表すでしょう。そして骨肉の争い。

こうしてヤコブは、ラバンのもとに滞在することになります。

この滞在は当然のように労働を伴っていました。ヤコブは兄エサウに較べるとひ弱に感じられるようです。しかし、ハランの地に来ると、羊飼いと較べて遜色ない力を持っていたようです。ラバンの一家にとっては貴重な働き手となります。何しろ、女性は天幕のうちに仕事があったはずですが、娘のラケルが羊飼いとして働いていたほどです。ヤコブは単なる居候ではなく、一個の労働者として有能であることを証明し、ラバンは彼を永く手許に置いて働かせたい、と願うようになりました。

そこで、ヤコブに一つの申し出でをします。「働きに見合う報酬を与えよう。何を望むか」。

このときヤコブは、すでにラケルを愛するようになっていました。彼女にはレア、雌牛という意味の名の姉がおります。「優しい目をしていた」とありますが、これは視力が弱いことの表現である、とも言われます。これに対しラケルは雌羊で、顔も美しく、容姿も優れていたとあります。

 ヤコブはラバンに、七年間の労働の報酬としてラケルをください、と願いました。

七という数は、完全数であり、聖なる数である、と言われます。もう一つの意味があります。それは「多くの」ということです。多くの歳月をここで働く、という意味です。ラバンはこの意味で受け取り、ヤコブは七と考えた、ということも考えられます。それぞれが自分にとって都合の良い意味で考えることはよくあります。

当時も今も、結婚には持参金が必要です。この甥は持参金を持っていません。それ相当のものを求めるのは当然のこと、娘のためと考えたでしょう。

約束が出来上がり、その時が満ち、ヤコブは、「これで充分でしょう。約束を果たしてください」、と申し出ます。ラバンは、土地の人を集め、祝宴を開きます。何日も続くようです。最初の夜、父親ラバンは、姉娘レアをヤコブのもとに連れてゆきます。

朝までこの人違いは気付かれません。気付いた時ヤコブは抗議しますが、ラバンは答えます。「ここでは姉より先に妹を嫁がせることはしないのです」。

結局、一週間が経ち祝宴が終わってから、ラケルも妻として迎えることが出来ました。

祝宴は、一回だけだったようです。二人の娘を一辺にと告がせることに成功しました。それだけではなく、これまでの七年はラケルのため、これからの七年間をレアのために働きなさい、と求めました。

ヤコブはレアよりもラケルを愛し、七年間をラバンのもとで働きます。それでも神は、レアを顧みて、レアの胎を開き、子供が生まれます。ルベン、シメオン、レビ、ユダの四人です。このことは次回。

聖書学者、山本泰次郎先生は青年たちに『結婚は、自分のためにするものではない。神のため、キリストのためにするものである』と語られたそうです。それを聞いた若者の中に、後に伝道者となられた飯島正久青年がおりました。意外なことを聞くものかな、と思いながら信頼し、胸の内に暖めながら数十年、ようやくその意味を悟り得るようになった、と書いておられます。飯島先生は、10冊ほどの御本を出版されていますが、その最初は、先生の原稿を奥様がガリ切りされ、印刷されました。私たちにも納得できます。

結婚にはさまざまな形があり、歩みがあります。その中には愛のゆがみもあります。人間的な思いもあります。混乱もあります。私たちの結婚そのものです。

それでも神はその結婚を祝福し、ご自身の計画、目的のためにお用いくださいます。

感謝いたしましょう。讃美しましょう。