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2008年4月13日

《兄の怒りを逃れる》

説教者:
牧師 持田行人
聖書:
創世記27:30〜46

表の庭の桜は葉桜、牧師館の桜はようやく九分通り咲きました。

桜前線といわれるように、地方によって開花時期が異なります。そして種類によっても時期が違うのが桜です。置かれた場所、自らの種別によって違ってきます。人間は自分自身の努力によって咲くか咲かないか、咲くなら何時になるか、変わって来ます。

 前回、兄エサウが受けるはずの祝福を弟ヤコブが騙し取ったことをお話しました。

父イサクは、愛するエサウを祝福したかった。その気持ちが、最後の「お前の弟が」と言う言葉に込められていたように感じられます。更に、眼の見えないイサクを支えようとしないで、ヤコブのために祝福を騙し取る段取りを組んだ妻リベカへの恨みが感じられます。

 説教題を《父は祝福する》としたのは、このイサクの祝福への熱意が父なる神の御意志でもあることを知っていただきたかったからです。

特に、あの折「偏愛」ということをお話しました。といってもまだ終わってはいません。もう少し話しましょう。神学校の講義で、愛の虚偽について学んだことを思い出しました。
北森教授の組織神学特講だったかと存じます。愛は他を愛するもの、ところが他を愛する振りをして自分を愛する者がある。その結果自分に利益が帰ってくることを求める自己愛の変形にほかならない。この時間は興味深いものでした。

 イサクもリベカも、この自己愛の変形としての愛に陥っていたのです。しかも、これは彼らだけではなく、私たちにも共通のもののように感じられます。

 エサウは、弟に横取りされた祝福を取り返したいと願ったに違いありません。
イスラエルには、独特の言葉感覚、言語観があります。創世記1章の天地創造に顕れます。3節、神は言われた。「光あれ」こうして光があった。また4節では、「光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一日である。

 神の言葉は、一旦出されると、必ず実現します。その力を持っていると考えられていました。ヤコブへの祝福も、一旦出された以上、取り返すことが出来ないことをイサクも知っています。「わたしも、わたしも祝福してください」としか言えませんでした。

そこで父親は懸命に愛するエサウのために祝福を探します。与えます。

肥沃なカナンの地から遠く離れた、乾燥した土地に居住すること。

剣という武力に頼るが、それでも弟に仕える。そして何時かその支配から脱する。

 何とか、エサウにも祝福を与えました。
それは後世のエドム人の生活や歴史に合わせたものかもしれません。エドム、それは赤いものを意味します。エサウの末裔とされます。

エドム人は、死海の南、石灰岩質の台地に住む人々。その土地は決して肥沃ではなく、乾燥の地でした。長くイスラエル、ユダの支配に服していましたが、ユダの王ヨラムの時代に、エドム人はその支配から抜け出ることが出来ました(列王下8:20〜22)。

 祝福を受けはしたものの、エサウの怒りは燃え続けます。憎しみの心が成長します。

「父イサクの最期の時は遠くない。その時は弟ヤコブを殺してやる」。

これは非常に冷静な怒りです。自分を愛してくれる父親への配慮があります。
家長である父の生存中に殺人の罪を犯して哀しませたくない、それは二人の息子を同時に失わせることだから。

怒りに燃えると、つい我を忘れてしまうものです。エサウは怒りの炎を冷たく燃え上がらせています。それでも黙っていられなかったのでしょう。口にしたようです。心にあることを口が語る、目が語る、という通りです。周囲の人の知る所となりました。そしてリベカの耳に入りました。彼女はヤコブを迎えにやり、語ります。

この兄エサウに対するヤコブの恐れ方は、当然ながら、尋常ではありません。先ず親元から逃げ出し、母の郷里ハランの、ラバンのもとへ逃れます。その地での様子は別の機会に学びましょう。この27章にある様子だけでも、その恐怖がよく分ります。パニックです。幾つかの理由を考えることが出来るでしょう。

一つは、普段からエサウは粗暴な振る舞い、暴力的な行動が多かった、ということです。正しい相手、対象に向けられた力は素晴らしい結果となります。イサクの好物である肉を手に入れることが出来ました。この力こそ、アブラハム、イサクの家を祝福に満ちるものにしてくれるように思えました。力は正しい方法で、正しい相手に向けられる時、祝福をもたらします。そうでない時、力は恐怖と疑惑、対立と争いの元になります。その結果は悲劇と死です。

今ひとつは、祝福を得たが、祝福とは何かを知らなかった、ということです。

祝福とはどのようなことでしょうか。いろいろな意味があります。イサクの祝福は父アブラハムから受け継いだものです。アブラハムは、かつて神から祝福を約束されました。彼から多くの子孫が生まれ、土地を獲得し繁栄するだろう、というものでした。イサクの祝福も、基本的にはそれを繰り返します。常に神がともにいて守ってくださる、ということです。そのことを知らない、理解していなかったら如何でしょう。さまざまなことが生起する中で一喜一憂し、右往左往することになります。将にヤコブとその母リベカの姿です。エサウから、父の祝福を横取りはしたものの、祝福の何たるかを知らなかったのです。

「神ともにいましたもう、故に我恐れることなし」、とは言えなかったのです。

三つ目の理由は、自分たちのしたことが正しいこととは思えないからこそ恐れた、ということです。エサウとヤコブはすでに赤いものを巡る取引で「長子の特権」を交換しました。この取引に関しても、それが正当なものであったとは考えられなかったのです。弱みに乗じて騙し取ったような感じがあったとしてもおかしくはありません。正当なものと考えるなら、直ちに父と母に申し出て、長子の権利を譲り受けたことを申し出で、承認を受けるはずです。イサクが与えようとする祝福は、長子の権利のうちで最も大切なものです。

兄弟の間では譲渡が成立しました。それが神の計画のうちで承認された、と言えるでしょう。そのことが分っていません。そのために恐れました。このために、この家庭内の喜劇は、悲劇へと変わって行きます。

13節で、母リベカは祝福奪取が呪われるべきであれば、その呪いはわたしが引き受けます、と語ります。そして事実そのとおりになってしまいます。

リベカは、自分の郷里ハランにいる兄ラバンのもとへ、ヤコブを逃がすことにします。

妥当な判断でしょう。真に恐れるべきものを忘れ、祝福の意味が判らないときには。

そして暫く姿を隠していれば、エサウも怒りを忘れるだろう、と考えています。確かにエサウは忘れるでしょう。しかし神はお忘れになりません。リベカがヤコブを唆し、横取りさせたのは、神から奪ったことに等しいのです。

リベカは愛する我が子ヤコブとすぐに再会できると考え、その日を夢見て、北方ハランへ送り出します。先走ってお話しますが、この母と子は二度と会うことがありません。

エサウから逃れて、この言葉はわたしに『神の顔を逃れて』という言葉を思い出させます。これは旧約聖書ヨナ書に見られる言葉です。1445ページをご覧ください。

1:3「しかしヨナは主から逃れようと出発し、タルシシュに向かった」。10節

アミタイの子ヨナは預言者です。彼に神の言葉が臨みました。「立って、ニネベヘ行きなさい」。勿論、預言するためです。ニネベの人々の悪が大きい、ニネベは滅ぼされる、と告げなさい、というのです。これを聞いたヨナは逃げ出します。何故でしょうか。

預言するのは結構です、宜しいでしょう。しかし、その結果どうなりますか。ニネベの人々は悔い改めるでしょう。すると主なるあなた様はどうなさるでしょうか、一旦滅ぼす、と言われたにも拘らず、心変わりされ、ニネベをお許しなさる。滅びを預言した私はどうなります。皆の笑いものですよ。そんなことは真っ平御免蒙りたいですね。

これがヨナの言い分です。国にいたとき、神に語ったこと、とされます(4章)。

もっともなことです。彼の気持ちは判ります。しかしこれで良いのでしょうか。良くはありません、ということで、三日三晩、大きな魚の腹の中で過ごすことになったわけです。

 どうしてこれを思い出したのでしょうか。私にも分りません。二人とも逃げ出した、という点は同じです。それ以外は全く違います。

ヨナは4章で告白しています。2節

「あなたは、恵みと憐れみの神であり、忍耐深く、慈しみに富み、災いをくだそうとしても思い直される方です」。

ヨナは、慈しみの神を知っていました。その慈しみがニネベの人々にも向けられる時、自分が嘲笑される、と信じて逃げました。神の慈しみが自分を傷付け、倒すと思い、神の顔を避けて、逃走しました。

リベカとヤコブは、ヨナとは違います。この神を知らず、その祝福を知りませんでした。真に恐るべき者が何であるかを知らず、ただ兄エサウの暴力と殺意を恐れて逃げ出しました。兄を恐れ、自分の悪を恐れ、逃げ出したのです。この場所から出てしまえば、恐れなくて済む、と考えたのでしょう。

しかしアブラハム、イサクの神は祝福しようとされる神です。イサクの祝福を実現され、ヤコブを守り、導かれます。

ヤコブは、これからの歩みの中でそのことを知り、変えられて行きます。

感謝しましょう。