大変寒い日が続いています。例年、立春の頃は一番寒く、しばしば大雪が降ったように感じています。とはいえ、陽射しは明るさを増し、風が吹かなければ、存外暖かさを感じる頃です。氷が張る一方で、春の花便り、蕾のふくらみに春への望みを感じます。モーツアルト、シューベルトは『春への憧れ』『春への信仰』という美しい歌曲を作りました。
本日の福音書はヨハネ9:13〜41,1〜12が括弧に入っています。ここもお読みなさいよ、という親切心だろうと感じています。読む必要を感じたら読めば良いのですから、それは余計なお世話、お節介なことです。
この所に関して、私には忘れがたいことがあります。駿河療養所内の神山教会の牧師であった大日向繁牧師が、御自分の回心はこの聖句によるものです、言われました。直接伺いましたし、先生の説教集にもあります。
当時、不治の病とされた病気を発症した時、目の前が真っ暗になりました。特効薬が発見され、今では治る病気になり、明るさが差し込むようになりました。一度、二度自殺を試みました。幸か不幸か、失敗しました。死ぬことすら出来ないのか、絶望し悲惨な闇の中を歩まされました。そうした中で出会ったのが、このヨハネ9章「生まれながら眼の不自由な人」でした。「罪があるのに、ないと言い張っていた自分に気付かされ、愕然としました」と言っておられました。
このところは、ヨハネ福音書の中でも有名なものに属します。はじめに少し気になるところをお話しましょう。それは、本日の主題にも見られる「メシアへの信仰」という言葉です。9:22に基づく主題です。皆さんは不思議に思われませんか。
神学校では、「はてな?」、と感じたらそれを考え続けなさい、と教えられました。
大阪市立大学の法哲学講義は、『法哲学とは問いを立てることである』と始められました。
すべて学問的な姿勢は問いを大事にします。問いに始まり問いに帰るものです。
問いに対する答えが終わった所は、新しい問いの始まりになります。
すべての人間は、パスカルが示すように『考える葦』であるに違いありません。
人間になろうとして懸命に生きるものは、誰でも考えに考えるのです。はてな?と。
聖書を読む時も正直で宜しいのです。遠慮はいりません。分らないこと、はてなと言う所を共に考えようではありませんか。私も、何とかお答えしましょう。出来ないところは考え、それでも分らなければ偉い学者先生をお呼びしましょうか。実は、判るまで考え続けることも大事なことなのです。
9:22「メシア」という訳語は新共同訳が初めて採用しました。
口語訳、文語訳ともに、「イエスをキリストと言い表す」と訳す。
岩波版も「キリストだと公言する者があれば」とする。
英訳は?that he was Christ、 OXFORD(King James version)
ギリシャ語では、ホモロゲーセー クリストン
ギリシャ語を話す弟子たちにとっては当然「キリスト」。弟子たちの大部分がヘブライ語であれば「メサイア」を用いたであろう。
手近にある聖書はすべてギリシャ語写本に従ってキリストと訳しています。
メシアとする必要を認めていないのです。
スタディバイブル欄外註「メシアはヘブライ語(マシアハ)で油注がれた者の意、そのものが特別に選ばれたものであることを示し、神の力がその人に臨むしるしでもある。」
同じスタディバイブルのキーワード解説では、「イエスをメシアと告白することで、初期のキリスト教徒は同時代のユダヤ教徒とは区別されるようになっていった」、と記し、ヨハネ9:22を1ヨハネ2:22と共に引用しています。
このところでは、「キリスト」を用いることで、ヨハネとその教会がギリシャ語を用いる群れであることが示されました。「メシア」を用いることでこの背景の教会が大変ユダヤ的な集団、ヘブライ語の人々から成り立っているように感じさせることになりましょう。
この訳語の採用は著しく適正と公平を欠いている、と考えざるを得ません。翻訳の方法として、文脈全体を移すということは理解します。しかし原語にない言葉を用いるようになることまでは支持できません。更にその原語が表し得たものが消えてしまうとしたら、それは全く支持されないでしょう。
本日の主題は「キリストへの信仰」である、とご理解ください。
さて本題に入ります。9章全体となります。長いので簡単に、短くしてみましょう。
最初の部分では、生まれつき目が不自由な人が中心に据えられます。ユダヤ人の考えとして、これは誰かの罪の結果である、と言いたいのです。イエスは質問を受け、答えられます。「誰の罪でもない。神の業がこの人に現れるためである」。このように言われると、
唾で土をこねてその人の目に塗り、「シロアム(遣わされた者、という意味)の池に行って洗いなさい」と言われます。この人は言われたようにして、目が見えるようになりました。
この不幸な人、今では幸運な人を巡って、人々の間に騒動が起こります。
これはあの物乞いか、この人は誰か、何が起こったのだ。
彼は隠さず、正直に語ります。「イエスという方がなさった通り、言われた通りにしただけです」。
その次が本日の日課です。ファリサイ派の人々が登場し、舞台を仕切ります。
彼らの関心は、この日が安息日であったことに絞られます。安息日には癒やしを行なってはならない、と定められています。病気であっても、生命の危険があれば、その状況を止めなさい。
治してはいけません、という定め、掟です。この目が見えなかった男の人が治されたのなら、治した者は神の許から来たのではない、と言います。安息日規定を破る悪者です。
この人は、問われて答えます。「あの方は預言者です」。
次に、ファリサイの人たちは、この人の両親に問いただします。これはお前の息子か、何が起こったのか。親たちは、事実を陳べることしか致しません。眼の見えない息子、今は見えるようになっているが、何があったかは知らない。もう大人だから、当人から聞いてくれ。
会堂から追放されます。 アポシュナゴーゴス、ユダヤ人共同体からの追放、村八分。
「ユダヤ人指導者たちは、イエスを信じるようになった者をユダヤ人共同体や会堂から追放した(9:34)。ユダヤ人が同胞の会衆から追放されることは旧約聖書にも見られるが(エズラ10:8)、
実際には神殿の崩壊後(AD70)に起こったと考えられる」。SB
大変賢い、と思います。彼らはユダヤ人としてその共同体から追い出されるようなことになっては困ります。見えない状態から解放してくださった方は、救い主です、といったら大騒動になり、彼らは共同体から追い出されることになります。
そうならない様に言葉を濁すのは両親です。自分たちはすべて見えている、知っているとするのはファリサイ人です。見えるようにされた人は、外に追い出されました。彼は信じたい、と言います。唯一神教の世界ですから、もうひとりの神ではなく、神からの救い主を信じたいのです。
今、見ることを許されているのですから、信じたいではなく、信じることが出来るのです。
列王記下6:8〜17、「神の人」と言われた預言者エリシャの物語の一部です。彼は預言者エリヤの弟子、その衣鉢を継ぐものです。その次第は、列王下2章にあります。
アラムの王ベン・ハダド二世とイスラエルの戦争が舞台です。イスラエル王はヨラムと考えられます。
ここでは、少なくとも二つの物語が錯綜しているようです。実際は何回も起こったことのだったのでしょう。アラムの王が陣を張る時、あるいは待ち伏せする時などに起きたことです。そうした時に、その策略が破られてしまうので、ベン・ハダド王は怒り狂ったとされます。信頼する部下がイスラエルに内通し、大事な情報を流していると疑ったのです。しかし、部下の者たちは実情を良く知り、王に説明します。「誰も内通などしていません。イスラエルには預言者エリシャがいて、彼は王の寝室での会話まで知る力があります」と。
そこで、王は預言者エリシャを捕らえるために大軍を動かします。場所はドタン、サマリヤの北15キロの所です。
エリシャの従者が、朝起きて外に出ると大軍に取り囲まれているので驚きます。それを聞いたエリシャは、主に祈り、従者の目を開いて見えるようにしていただきます。すると如何でしょう。従者は「火の馬と戦車がエリシャを囲んで山に満ちているのを」見ました。
この時代、戦車は最速、最強力な戦争機械。兵器でした。また火は地震、雷、嵐と共に神の臨在と裁きに関連しています。エリシャの先生であるエリヤは火の馬に引かれた火の戦車で天に上りました(列王下2:11)。
ここでは見える積りが見えていなかった、というイメージが働きます。
次の場面は、エリシャが再び祈って、異邦人の目をくらまします。彼らは見えないために、知らずにエリシャに導かれ、(ドタンから15キロ南)サマリヤの町の中央まで入り込みます。そこで、またエリシャが祈り、彼らの目が見えるようにしました。アラムの兵士たちは驚き、おびえます。イスラエルの王は勇み立ち「私が彼らを打ち殺しましょうか」と言います。エリシャは「彼らを打ち殺してはならない。あなたは捕虜としたものを剣と弓で殺すのか。彼らにパンと水を与えて食事をさせ、彼らの主人のもとに行かせなさい。」と答えました。殺戮と侮辱の後には深い憎悪と怨恨が残ります。決して平和は生まれません。平和のための戦争などと言うものはありません。まやかしの言葉です。
第一次大戦、第二次大戦のとき、この言葉をスローガンにして、アメリカの青年たちはヨーロッパや中東・アフリカ・アジアの戦場に送り出されました。永久平和は夢のまた夢でした。死んで行った多くの若者のためにも、平和を生み出そうではありませんか。
大宴会が開かれ、無事、帰って行った彼らは、二度とイスラエルの地に来なかった、と語られます。アラムとイスラエルの間に、長い平和が到来した、と言いたいようです。
確かにそれは一つの物語だったのでしょう。
ここにはもう一つの物語が影を落とします。
24節には、ベン・ハダドが全軍を呼集して、イスラエルを再征することが陳べられています。人間の妄執でしょうか。アラムの王は、再び兵士を集め、軍備を整え、進軍してきます。しかも狙いはエリシャの首です。ただし、この部分は本日の日課を外れていますから、ここまでにしましょう。
救いは解放を意味します。病気、対立、争い、苦しみ、悲しみ、憎しみ、殺意からの解放。
これらの総体が罪です。
イエスはまことの救い主、キリストです。解放してくださる方です。
キリストへの信仰は、平和を生み出す主を信じること、平和を生み出すことです。
争いや憎しみは暗黒の世界です。闇が支配する所です。それらからの解放が告知されます。
本日の使徒書簡日課が、エフェソ5:6〜14、であることの意味は、ここにあります。
闇ではなく、光の子らしく、光の中を歩みましょう、と告げられます。
私たちは、すでに光のうちへ引き入れられています。感謝しましょう。