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2008年2月10日

《荒れ野の誘惑》

説教者:
牧師 持田行人
聖書:
マタイ福音書4:1〜11

最初に『交読文』について、少しお話しましょう。その意味について、由来について
これまで、いろいろな機会を捉えて交読文について質問し、考えてきました。
納得できる答えはありません。
詩編交読が元来の形、ということは良く聞きます。それは何処から来るのでしょうか。
恐らく、イエス時代のイスラエルが行なっていた都詣での人々の間で交読されたものでしょう。詩編の中に、その序に都詣での歌、と記されたものがあります。120篇から133篇にわたります。119編はアルファベット歌。135編からはハレルヤ詩編が続きます。136編などは、ハレルヤの言葉はありませんが、一連の感謝と讃美の詩編であることは間違いありません。
この都へ上る歌は、隊列を組んでエルサレムへ、行列の前と後ろ、あるいはリーダーと大衆との間で歌い交わしつつ進んだものでしょう。聖なる神殿の町、祈りへと歩みます。この歌い交わす、交読の伝統を教会が受け継いだのではないでしょうか。
詩編はイスラエルの祈りです。その伝統も受け継ぎたいものです。

本日も旧約聖書日課から学びましょう。
出エジプト17:3〜7、旧約の122ページです。メリバの水、という名で知られる出来事です。エジプトを出たイスラエルが(12:37)、まだエリコに着いていない時のことです。およそ60万の人間が水の少ないシナイ半島を歩きます。水のあるところなら、人が住むのが普通です。乾燥した大地をおよそ60万の人間が歩きます。それを養う水は何処にもありません。話半分の30万でも無理だとされます。分散させたのでしょうか。分りません。
民はモーセに訴えました。神ヤハウェがエジプトの奴隷の民を、そこから脱出させたのは何のためだったのか。詰めより、叫びました。「渇きで殺すためなのか」。
モーセは主に訴えます。「彼らはわたしを石で撃ち殺そうとしています」。
そこで神はモーセに命じました。「ナイル川を打った杖をもってホレブの岩を打て」。
スタディバイブルには次のように記されます。
かつてモーセはナイル川を打ち、エジプト人の飲み水を飲めなくした(7:14〜24)。しかしここではモーセは岩を打って、イスラエルの民に飲み水を与えた。

 水は出ました。イスラエルは充分に飲むことが出来ました。

 イスラエルの神ヤハウェは、この時、民は神を試みたのだ、と見做しました。何が試みなのか、というのは分り難いことです。直接的には、水が与えられるか否か、ということ。
そして、イスラエルは、神が自分たちの都合に従うか否か試みた、ということでしょう。
これは私たちがしばしばなしていることではないでしょうか。祈りの時に、要求ばかりと言うことはありませんか。ある高名な説教者は、祈る時は出来るだけ具体的に求めなさい、と教えました。
それに感激した方がいらっしゃいました。私は、それは間違っている、と申し上げました。
それは、神を自分の求めに従わせることになりませんか。それが聞かれて、求めが満たされて喜ぶ時、私たちは自分が神を従わせたことを喜ぶことと変わりがありませんよ、と。

このことが、マタイ福音書4:1〜11ではっきりさせられます。
主イエスは、ヨルダンの畔でバプテスマを受けられました。その後、み霊に導かれて荒れ野に行かれます。そこで40日40夜断食をして、空腹を覚えられます。そこへ誘惑者が出て来て言います。「神の子なら、石にパンになるよう命じたら如何だ」と。答えは、
 「『人はパンだけで生きるものではない。
神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある」申命8:3
第二の誘惑は悪魔、と記されます第一も第二、第三もすべて同じ誘惑するもの、悪魔と考えられます。これは神と神の民に敵対し、滅ぼそうとする諸力の総称です。御言葉を利用します。詩編91編と考えられます。これに対しては、「主なる神を試みてはならない、と書いてある」と答えられます。申命6:16
第三の誘惑となります。悪魔は、この世の栄華を見せ、「ひれ伏して、私を拝むなら、このすべてを与えよう」と言います。これに対する答えは申命記6:13の言葉です。
「あなたの神である主を拝み、唯主に仕えよ」

 誘惑するものは三回現れます。人が生きる上でどうしても必要なものを入手すること。神に従い、神に仕えるものを自分の都合に仕えるものに変えること。この世的な繁栄を求めること。この三つの場面はどこか遠くのお伽噺でしょうか。昔話、神話、伝説に過ぎないのでしょうか。私には、これはまさに私の内的な経験談のように思えます。
 私たちの生存のための必要を、すべて神が備えて下さる、と言って働こうとしないのは論外です。出来ることをすべて行ない、働き、その後のことは神に信頼するのです。神が与えたもうものによって生きて行く。力も、繁栄も、すべて神のものです。

 誘惑の正体は何でしょうか。さまざまな誘惑があります。私の経験では、私たちの欲を満たすお手伝いをしましょう、と言って現れてきます。欲望充足に協力するのが誘惑。それだから、詐欺や詐欺まがいのものがなくならないのです。私たちの欲望、欲求がなくならないからです。私の両親の見るところでは、私はもの知らずで、騙されやすい人間のようです。「世の中、旨い話しなど転がっていないのだからね。旨い話があれば、自分が独占して放さないのだよ」と教えてくれました。
 随分電話がかかってきました。今でもかかります。「絶対儲かります」。それに対し「キリスト教の牧師です」、と言えばすぐ退散します。中には分らない人もいますが。
結局私たちは自分の腹を神としようとしています。パウロは、ローマ16:18、フィリピ3:19でそのことを指摘します。パウロも誘惑と無関係ではなかったから、そのように書くことが出来たのでしょう。
こうした誘惑と出エジプト記、「メリバの水」の出来事は繋がっています。
主イエスを試みる悪魔の提供するものは一つのことです。

三回の誘惑が教えることは、私たちを神から引き離そう、とする試みがある、ということです。自分の力を誇示することもそうです。自分の力は完全であり、すべてのことに対応できる、という考えもあります。なんでも手に入れることが出来る、というように考える人もあります。国家がそのような考えになっていることもありましょう。
そうした所から、戦争が惹き起こされます。
傲慢になっていますから、謙遜が必要です。
 神の使いを自分の目的のために利用すること、あり得ない事の様に思えるでしょう。
出来るだけ具体的に求めなさい、という教えは如何なのでしょうか。求めに応じて、誰かがそれに答えることになります。答える人は神の使いです。
 悪魔を拝むことなどしません、と言えるでしょうか。目的のためなら手段を選ばない世界です。上から下まで、蛭のようにもっと、もっと、と叫んでいませんか。
誘惑に勝つためには、御言葉と祈りによらなければなりません。

 主イエスは、なぜこのような試みを受けられたのでしょうか。受けなければならなかったのでしょうか。主は罪を他にしてすべてのことにおいて、完全に人間のひとりとして経験されるのです。それによりすべての人間と同じになられるのです。そして救うことが出来るのです。このことはヘブライ人への手紙4:14〜16に記されています。405ページです。「私たちの弱さに同情できない方ではなく」という言葉は、慰めに満ちています。

 私たちは、試練や誘惑がなくなることを求め、願うのではなく、それらに耐え、乗り越える賢さと勇気と力、そして謙遜さを与えられるよう、求めようではありませんか。

金曜日夜、10時からNHKテレビでプレミアム・テン。ひとりの韓国人テノール歌手の物語を放映していました。ドイツでオペラ歌手として活躍しているベー・チェンチョルさんが、喉頭がんの手術を受けるが、筋肉が切断され、声が出なくなってしまう。そこからの再起の物語です。
手術後、ひと月も経たずに舞台へ復帰できるはずなのに、リハビリをしてもかすれ声しか出ない。そんな状況の時に、旧知の日本人音楽プロデューサーが日本の発声手術の専門家に診てもらうことを提案する。京都大学名誉教授です。ベーさんは承知して手術を受けます。次第に回復に向かいますが舞台へは復帰できません。ドイツの劇場は専属契約を更改してくれました。期待されています。プロデユーサーは次の提案をします。
日本の舞台で歌いましょうよ。
歌いたい、でも聞いていただくほどの声が戻っていない。

べーさんの声楽家としての歩みは、教会の聖歌隊で始まりました。美声と能力を認められ、ドイツでトレーニングを受けました。
苦悩の中で、ドイツの韓国人教会の礼拝で会衆として讃美歌を歌っています。そしてある日、牧師に申し出て会衆を前に歌います。?編讃美歌161番、『輝く日を仰ぐ時』でした。

そして日本へ来ます。まだ舞台に立つ声ではない、と自覚しています。それでもトレーニングはしているのでしょう。ベーさんがかつて共演したフィオレンツア・コッソットが『ルチア』を歌うのでその舞台の助言をして欲しい、という依頼でした。その日、皆が帰った後で、ベーさんを支援する人たちが集まるから、そこで歌いなさいと求められました。
ベーさんは、礼拝で歌い、力を得たのでしょう。求めに応えました。支援してくれる皆に感謝するために歌いましょう、と言います。そして歌ったのは、マロットが作曲した『主の祈り』でした。合唱したことがあるのですぐ判りました。ゴスペルシンガー、マハリア・ジャクソンは、有名なニューポートのジャズ・フェスティバルでこの曲を歌いました。
NHKは、出来るだけ宗教的な面には触れないようにしたかったのでしょう。しかしこの物語はそれこそが重要な部分です。不平・不満の声はありませんでした。礼拝で力を得たこと、支援者への感謝と神様に対する感謝を歌ったこと、このことは強調されなければなりません。

自分の想いとは違う苦しい状況の中でなお神に従い、感謝と讃美を捧げる。この姿に、荒れ野の誘惑に勝利する信仰を見出します。私たちも同じ信仰に入れられました。
感謝の祈りを捧げましょう。