本日は、教会の暦に従えば降誕後(降誕節)第二主日です。同時に、毎年1月6日は公現日・栄光祭、エピファニーです。公に主の栄光があまねく世に表された時を意味します。世界のキリスト教会には大別して、ローマン・カソリックとプロテスタント、そして東方に展開されたグリーク・オーソドキシーの三つがあります。その中には1月6日をクリスマストして祝う教会もあります。
東から来た学者たちは、12月25日にはベツレヘムに到着していなかった、と考えられます。そこで、この1月6日こそ東方の我々のクリスマスだ、とするようです。12月25日はユダヤ人のクリスマス、1月6日は異邦人のクリスマスと分ける人もあります。
ヨーロッパの教会では、この1月6日を選んで、世界宣教のための宣教師派遣式を行う所があると聞きます。救い主の光が異邦人に明らかにされたことに基づくものです。
世間的に言えば、新しい歳の最初の日曜日です。新年礼拝ということになります。つい先頃、教会の暦はアドベントから始まります、といって教会の新しい一年を始めたはずです。その教会が、何故世の中の慣わしに従い、元旦や新年を守るのでしょうか。
教会は当然のように、教会暦が世俗の暦よりも優先する、と考えます。
しかし、それは教会の中のことです。
信仰の立場は、教会暦を優先させるのが当然、と主張するでしょう。創造主なる神が、時間を御支配なさるのだから、世俗の時間も、暦も神の教会の支配下にある、と。
世俗は教会暦があることを知らなくとも、何の支障もありません。知っておくと、欧米やキリスト教世界との商売に便利です。知っておくほうが宜しいのです。
世俗の只中にあり、世俗の時間を共有する教会は、その世俗社会に伝道する責任があると考えるなら、無関係でいることはできません。
とりわけ教会は、その福音を神の愛による罪の赦し、主キリストによる十字架の贖い、と考えるなら、世俗と断絶することは出来ないはずです。
世俗の立場は通常の暦年、太陽暦を主張するでしょう。新年には、すべてが新しくされる、これが世俗の考えです。信仰の立場は、キリストにおいてすべてが新しくされた、と主張します。
?コリント13:4以下には、このようにあります。
『愛は忍耐強い。愛は情け深い。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべての耐える。』 愛の讃歌と呼ばれます。
口語訳では『愛は寛容にして慈悲あり、愛は妬まず、愛は誇らず高ぶらず、非礼を行なわず、己の利を求めず、いきどおらず、人の悪を思わず、・・・・』とありました。
讃美歌末尾の交読文でも読むことが出来ます。
この聖書の信仰に立つなら、相手の異なる考えを排除するのではなく、それを理解しようとするのが、正しい信仰の態度である、となります。世俗と信仰、この二つの立場を融合させる所で、健康な信仰生活が、この社会の中で営まれるに違いありません。
先ず本日の旧約日課を読みましょう。1128ページです。
イザヤ書42章1〜9節、小見出しには「主の僕の召命」とあります。42:1〜4は、イザヤ書全体に四つある『僕の歌』のうち最初のものとなります。他は、49:1〜6,50:4〜9、52:13〜53:12、です。
アブラハムやヤコブ、モーセも神の僕と呼ばれました。このイザヤ書の「主の僕」はそれらと少し違います。この僕は、与えられた使命のために肉体的な痛みを受け、辱めを受け、苦しみます。そして最後に、主の僕の苦しみが人々の罪と咎を最終的に取り去り、主の僕が人々のために自分の命を犠牲にしたことに神は報いられる、と書かれています。
この「主の僕」とは一体誰でしょうか。
ヨシア王、ヒゼキヤ王、預言者エレミヤ、預言者イザヤ自身、彼らは政治的、宗教的に有力な指導者でした。
神は、将来的にイスラエル民族を用いて世界を救うことを計画しておられる、という考えから、これは苦難にあうイスラエル民族そのものである、という考えもあります。
個人、集団、さまざまな考えがあります。
時と場合によって選ばれることでしょう。それでも一つだけ忘れないようにしなければならない、と思わせられます。それが、この「主の僕」は救い主・キリストと考えられた、ということです。自らの苦しみとその命を代価に支払い、人々に命を与えるメシアこそ、この「主の僕」である、ということです。
1節から見て見ましょう。この僕は、神により「私の僕」と言われます。絶対的な権限と権威を予期させます。世俗の王や権力者のように。
ところが彼は「声を巷に響かせない」。「傷付いた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すことなく・・・島々は彼の教えを待ち望む」。弱い、力ない人々のことです。
主の僕は世俗の王侯、貴族、政治屋とは、全く違う姿です。姿勢・態度です。
そのことは6節以下にも明らかです。これが「主の僕」の役割です。
「主である私は、恵みをもってあなたを呼び、あなたの手を取った。・・・
見ることの出来ない目を開き、捕らわれ人をその枷から、
闇に住む人をその牢獄から救い出すために。」
ユダヤの多くの人々、貧しく、力弱い人々は、この詩の中に、この預言の中に自分たちの救いを見出し、生きる望みを託しました。来るべき救い主を待ち望みました。
ヨハネ1:29〜34、恐らくヨハネはいつものようにバプテスマを授けるため、ヨルダン川の畔へ来たのでしょう。そこへ御子イエスがやってくるのを目にします。そして言います。「見よ、世の罪を取り除く神の子羊だ。」実に確信に満ちた言葉です。
この「神の子羊」は、イザヤ書53:4〜12に基づくと考えられています。
スタディバイブルは次のように記します。
「洗礼者ヨハネはイエスをたとえて、散らばった神の民を一つに回復するために屠り場に黙々と引かれてゆく犠牲の子羊のようだと言った。子羊はまた、過越し祭で祭司に屠られる子羊も意味する。過越し祭は、エジプトで奴隷だったイスラエルの民を神が解放したことを覚えて祝われた。使徒パウロは、『私たちの過越しの子羊』としてのイエスに言及する。」
(?コリント5:7)
「神の子羊」、アニュス デイ、ビゼーが作曲した組曲の『アルルの女』の中に同じ題の音楽があります。大変美しく、心に慰めをもたらす曲です。フランスでは昔から、心身に差支えがある人を大切にしたようです。村の中にそのような人がいると、それは我々すべての者たちの身代わりになってくれているのだ、と理解し、皆でその人を守り養う、とのことです。ビゼーの曲もそのような人を、その関係を音楽にしたものです。
主イエスもヨハネからバプテスマを受けます。その時の様子を、福音書記者が、ヨハネの言葉を引用しながら書きとめ、私たちに示します。前回までに申し上げたように、このヨハネとイエスは親戚関係にあります。互いに知っています。しかしヨハネは、31節と33節で「私はこの方のことを知らなかった」と言います。知っているはずなのに、知らなかった、というのは何故でしょうか。血筋や関係は知っている。しかし、その使命、召命、その本質については知らなかった、ということではないでしょうか。
自分自身についても知っているようで知らないものです。ヨハネもそうです。ヨルダン川でバプテスマを授けることになる、とは知っていても、私の後から偉大な方が来る、私はその前駆者である、ここまで知っていてもそれが、マリヤの子イエスである、とは知らなかったのです。イエスが神の僕、救い主、世人の罪の贖い主であることは、徹底的に隠された秘密でした。神の奥義です。
そして、ヨハネは大事なことを証言します。
「この方の上に霊が下った。この方こそ聖霊のバプテスマを授ける方である」と。
ヨハネは水で穢れを洗いました。それは次のことへの準備行為でした。
次のこと、それこそ聖霊のバプテスマです。聖霊とは、人を神の前で生かす神の力です。
この力抜きでは、誰も「イエスは神からの救い主」と告白出来ません。あなたも、私も聖霊を受けています。
この信仰を抱く者がクリスティアンと呼ばれます。キリストのもの、キリストに倣う者という意味です。『イミタティオ クリスティ』と名付けられた古典的な書物があります。
日本語訳は『キリストに倣いて』、昔は『キリストのまねび』とされたこともあるそうです。
キリスト・イエスの何を学び、倣い、まねるのでしょうか。キリストの愛です。
愛は排除、拒絶ではありません。理解し、受け入れようとすることです。立場の違いを乗り越え、支配する者ではなく、仕える者となることを学びましょう。
私たちは、聖霊によって導かれ、支えられ、罪赦された罪人として、讃美しつつ歩むことが許されています。
感謝しましょう。