2007年も残すところ一主日だけとなりました。昨日の教会学校クリスマスは、あいにくの雨の中でしたが、14名の子供とその倍以上の大人たちが集いました。久し振りにページェントも行なわれ、グリーンランドからサンタクロースがやって来て、楽しい時でした。将来この子達が、この日の何かを喜びの時として思い出すかもしれません。
ヨエル3:1、「老人は夢を見、若者は幻を見る」。
一年が過ぎ去ることは、早いものです。昨日紅顔の少年、今日白髪の老人。
少年老い易く、学成り難し、一寸の光陰軽んずべからず。
今年のメディアは、昨年までと較べて本の少しですが、変わったように感じられます。
それは、クリスマス音楽が増えた、という感じですが、如何でしょうか。
私は元々、70年ごろまでのクリスマス音楽洪水状態に慣れていました。その辺から減少に入り、かなり寂しく感じていました。今年は意外に早い時期にヘンデルの「メサイア」を耳にしました。その後も、最近になくクリスマス関連の音楽を聞くことができました。何か最近の世の中の状況と関係しているのでしょうか。考えさせられました。
最近の世相、と言えば殺伐たるものがあります。この一年を象徴する言葉・文字に選ばれたのは「偽」の一字でした。食肉偽装に始まり、選挙公約偽装。
銃砲乱射殺人、これも所持資格の偽装でしょう。目的外の使用ですから。
複数殺人、酒酔い運転による殺人、裁判における弁護側の証言偽造。
警察による不祥事、警察官の不祥事、冤罪事件。
年金を始め政治家、官僚の事件は飽きるほど。
敗戦後、無宗教を選択した日本社会は、善悪の基準なし、という社会を選び取りました。
メディアの賢い人たちは、これまでと違うものを選ばねばならない、と理解したかもしれません。無意識の選択かもしれません。大衆迎合かもしれません。
多くのものの中から、クリスマスを少し増やす方向を選び取ったように見えます。
それはクリスマスの癒し効果に着目しただけかもしれません。
それにも拘らず、クリスマスは、救い主の到来です。愛による贖いに基づく、愛と自由、和らぎと望みの始まりです。これがないと、今の世の中は良くならないよ、と考え、感じてくれたなら嬉しいことです。
本日の日課は、アドベント第四主日のものです。この後にクリスマス・25日が来ます。
本日の旧約聖書は、ゼカリヤ2:10〜13です。1481ページ、お読みしましょう。
ゼカリヤの預言は、捕囚から帰還後20年ほど経った頃。ペルシャ王ダリウス1世の時代。
紀元前522〜486年と推定されます。その頃イスラエルは神殿再建を至上の使命として捉えていました。それでも再建は進みません。ゼカリヤは神殿再建をイスラエルの民に迫ります。ハガイと同時期です。
ここでゼカリヤは八つの幻を見ました。2:10〜13は第三の幻の一部。
エルサレムの幅と長さを調べる人が現れます。測り縄は建築に用いられます。ゼカリヤの時代から考えれば、エルサレム再建のために、神殿、城壁の規模を測定しようとしているようです。するとそこに別のみ使いが現れ言います。「この町は、すでに人と家畜が満ち溢れるようになった」。「城壁のない開かれた所となる」。
せっかく再建しようとしているのに、もはやそれは無用だ、それ以上のことがなされる、というのです。一つは城壁を不要とするほど平和な所となる。二つ目は、なんと神御自らこの町の火の城壁となるからだ、と言われます。
私が城壁となりその中にあって栄光となる、と。これは後半12・13節でも繰り返されます。学者によっては、後半は前半で語られたことの理由を語るもの、とします。
帰還の民は私の瞳のようなもの、わたしはシオンに住み、自分の瞳のように守ると神は約束されます。神の深い愛です。スタディバイブルには次のように記されます。
「シオンすなわちエルサレムは自分の瞳のように大切なものと神は言う。申命32:10、詩17:8、箴言7:2参照」。シオンに住み、その聖なる住まいである神殿から語ると神は約束する。申命26:15、イザヤ63:15、エレミヤ25:30、ハバクク2:20、ゼファ1:7参照」
ゼカリヤの見た幻は、託宣とも呼ばれます。見たことをそのまま語るとき、それを聞いて人々は神からの預言として解釈します。その意味では、そのまま預言と言っても差し支えないでしょう。この幻は、帰還の遅れているバビロンにいるユダヤの人々に、神の都への帰還を促すものです。神ヤハウェは、私が守るから、と言われるのです。何故か、私はあなたがたを私の瞳に等しいものと考え、それほどに愛しているから、と言われます。
これは主の日が到来する予言です。主の日といえば裁きの時と考えられます。このアドベントの第四主日にどのような意味を持つのでしょうか。福音書は、先ほどお読みいただいたルカ福音書1:57〜66です。「洗礼者ヨハネの誕生」と小見出しがあります。
祭司ザカリヤに息子が与えられます。妻エリザベスは長い間子供に恵まれませんでした。その名はヨハネ、通常であれば、一族の中から栄誉ある名をつけるものです。ところがそのようなものは一顧だにせず、ヨハネでした。
このヨハネは、その誕生があらかじめ告知されました。1:5以下に語られました。
その生涯も予言されています。これは文字通り、これから起こることをあらかじめ示す、という預言です。14〜17節にヨハネの生涯、その使命が記されています。
「その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみと成る。多くの人もその誕生を喜ぶ。彼は主の御前に偉大な人になり、・・・・イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる。彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らうものに正しい人の分別を持たせて、準備の出来た民を主のために用意する」。
前週のヨハネ福音書第1章に基づく説教「先駆者」と重なり合います。
誕生と生涯が告知されたヨハネは、同時にもう一人の告知された人、すなわち救い主・メシアの到来を告知する者とされます。
教会暦による聖書日課は、ヘブライ10:1〜10を本日の使徒書簡として備えました。412ページです。
そこでは、律法による罪の赦し、年ごとに献げられる生贄による清めは完全なものではありません、と語られます。メシアの到来は完全な生け贄による贖いの成就を意味します。従来の家畜による犠牲は罪を取り除くことが出来ません。それは廃止されました。今や、ただ一度キリストの体が献げられたことにより、私たちの罪の清めは完成されました、と告げています。
木曜集会の席上、質問がありました。『きりストの三職とは何ですか』、お答えしました。
王、預言者、祭司。すべてのものを支配し、守り、養い、導くまことの王。世界のあり方、各人の生き方について神の御旨によって警告を発する、そして悔い改めを求める預言者。更に御自身のことを預言する預言者。いわゆる祭司は家畜を献げて不完全な年毎の贖いをするが、唯一度ご自身をお献げになり永遠の贖いを完成された大祭司。
このクリスマスの時に、ヨハネは、ご自身を捧げて永遠の贖いを全うする神の御子の到来を告げ知らせています。彼は自分のことは語りません。御子の御前でも、あなたは何方ですか、と問いかけます。確かめて、人々に告げ知らせるのです。
この告知は、新しい基準の知らせです。私たちに対して、神の愛を知らせます。同時に自分自身の罪を認めて、この愛を受け入れることを求めます。
ヨハネが告知する救い主は、金殿玉楼ではなく、家畜小屋で生まれ、飼い葉桶に横たえられました。人の罪を贖うために、最も低い所に到来することを、神は良しとされました。
このお方を迎えて主と拝するなら、その所は輝きに包まれるでしょう。この時代は変わるでしょう。
共に喜びましょう。感謝し、讃美しましょう。