寒くなりました。間もなく冬至ですから当然かもしれません。冬至と言えばナンキン・かぼちゃ、こつまなんきん。生根神社さんは地元の南京を保護してこられたのでしょうか。
神社の冬至祭りと南京を結びつけて、宣伝に努めておられるようです。昔の勝間(こつま)村であるこの地に住むものとして無関心ではいられません。今東光さんの小説『こつまなんきん』のおかげで知られるようになったことを思うと、ありがたいことです。
この冬は今までになく寒さを感じています。生命力の枯渇があるのでしょう。自覚することも必要である、と思います。やたら若ぶってもいけないし、年寄りじみてもいけない。
やはりバランスでしょうか。
本日も旧約の日課から学ばせていただきましょう。旧約の1501ページです。
マラキ3:19〜24、「マラキ」は「私の使者」を意味します。3:1に用いられています。
マラキ書は旧約聖書の最後に置かれています。覚えやすいのですが、余り読まれてはいないようです。主イエスの譬話のほうが面白いのは確かです。それでもマラキ書には有名な箇所もありますから、たまにはお目通し頂きたいものです。
たとえば、この時期であれば3章の始め、使者を送る、と語られています。これは伝統的に、洗礼者ヨハネを預言するものと考えられてきました。また、2章は全体的に祭司への警告が記されます。独善的で、実は神のことばを無視している祭司への警告です。
8節は祭司の現状批判、「道を踏みはずし、教えによって多くの人を躓かせた」。
6、7節は祭司の本来の姿、「真理の教えが彼の口にあり、その唇に偽りは見出されなかった。彼は平和と正しさのうちに、わたしと共に歩み、多くの人々を罪から立ち返らせた。祭司の唇は知識を守り、人々は彼の口から教えを求める。彼こそ万軍の主の使者である」。
そして本日の3:19以下は、「主の日」と小見出しにあります。
ここでは聖書中、他に見られない表現があり、大変有名です。それが『義の太陽』です。
その意味も不明ですが、私たちの知る「太陽」と照合するとき、明らかになる程度で充分でしょう。光と命の源、ということでしょう。
23節には、「恐るべき主の日が来る前に、預言者エリヤをあなたたちに遣わす」とあります。続く24節は、主なる神の御旨にかなう状態が記されます。「父の心を子に、子の心を父に向けさせる」とはそのようなことなのです。父と子の和解が示されます。
マラキ書の背景にあるものは、捕囚から帰還、その後の神殿再建と奉献。エズラ・ネヘミヤの時代です。ユダはペルシャの支配下に置かれ、苦難が続きます。
その中で、神は本当にイスラエルを愛し、守られるのかという疑問が湧きました。
恐るべき主の日には何が起こるか、いろいろな預言が記され、語られています。
高慢な者、悪を行なう者はすべてわらのようになる、燃え上がると言われました。神に逆らう者に対してのものでは、根も葉も残らない、とも記されます。
神の名を畏れ敬い、崇める者たちに関するものでは悔い改めの勧告、神の憐れみを受けること、義の太陽が昇ること、事前に預言者エリヤが派遣されることなどが語られました。
ある翻訳は『救いの太陽』とします。太陽そのものが『救い・救済』を顕します。
古代オリエントでは翼のある太陽・日輪という表象が知られています。イスラエルで発掘されたものにも刻まれています。救済の本質である「回復」を示すものと考えられます。
洗礼者ヨハネが先駆者である預言者エリヤである、という考え、思想がどこから来たものか、それは不明です。少なくともヨハネが所属していたとされるエッセネ派の宗団では、ごく普通に認められていたのでしょう。
これがバプテスマのヨハネ、洗礼者ヨハネを預言している、と考えられてきました。
このヨハネは祭司ザカリヤの妻エリサベツから生まれた男の子です。そのことはルカ福音書1:5以下で語られています。エリサベツは、ヨセフが婚約していた妻マリアの、親戚の女です。すでに子を産むことのない年齢に達していましたが、マリア同様、御使いガブリエルが出産することを知らせます。そしてこの二人の女性は五ヶ月を過ぎた時に会うことになります。そのことが記されるのは、39節以下になります。
こういうわけで、主イエスとバプテスマのヨハネとは親戚の者として生まれ、育ちます。ザカリヤとエリサベツの家はユダにあったようです。ベツレヘムもその一部になります。マリアとイエスはガリラヤのナザレに住みました。二つの家は地理的には遠く隔てられていて、一緒に育てられた、とは考えられません。
私が青年時代に見た物では、共に遊んでいる幼年期のイエスとヨハネの絵がありました。ルネッサンス期の作品だったように記憶します。大変愛らしい姿でした。ラファエロかムリリョでしょうか。画家の感覚が、この二人を仲良く遊ばせたのでしょう。
ヨハネ福音書1:19〜28では、成人後のヨハネが、ヨルダン川の畔に現れ、人々に罪の悔い改めと赦しを宣べ伝えました。らくだの毛衣を身にまとい、革の帯を腰に締め、いなごと野蜜を食べていた、とあります。エリヤとよく似ています(王下1:8)。
このような生活は、貧困生活よりも、何らかの戒律に基づく修養、修行生活であろうと考えられます。それがエッセネ派の宗団です。死海の西岸クムランの地に、共同生活の施設を造り大勢で生活していたようです。その生活跡から発見されたのが有名な『死海写本』です。
1946年から47年にかけての冬のこと、クムランの谷で二人の従兄弟と羊を放牧していたベドウィン(遊牧民)、ジュマ・ムハマッドは群れから離れた羊を探して崖を上った。途中小さな開口部を見つけた。中は暗く何も見えないので石を投げた。土器の割れる音がした。二日後、三人はまたここを訪れ、布に包まれた巻物を見つけた。彼らが期待した宝物はなかったが、七つの巻物を持ってベツレヘムに近いキャンプに帰った。
1947年11月、ヘブライ大学エリエゼル・スケーニク教授はアルメニア人の古物商人から初期のヘブライ語で書かれた写本の断片を見せられた。調べると紀元前1世紀のもので、従来知られていたヘブライ語写本より1000年も古いことが分った。
これがすべての発端である。後、クムラン谷の11の洞窟から、生活用品と共に大量の文書が発見される。2000年前、共同生活していた人々があったこと、彼らはローマ軍による破壊(60〜70年)を恐れて、聖書その他のものを土器に入れて洞窟に隠したものと考えられている。これがヨハネの所属したエッセネ派の クムランの宗団と考えられています。
ヨハネのもとに来た祭司やレビ人は質問します。あなたはどなたですか。
ヨハネは答えます。「私はメシアではない」。それではエリヤですか。預言者ですか。
いずれも違う、という答え。一体誰だというのですか。そこで答えました。23節です。
このイザヤは紀元前740〜701年ごろの人。これはスタディバイブルの説明文です。ところが、ここに引用されているのはイザヤ書40:3です。これは第二イザヤで、およそ150年ほど後の時代の人です。ヨハネは、メシア到来に先駆けし、その先触れをして、その道筋を整える者だ、と答えます。このことは、ヨハネ3:22以下でも語られます。ローマの時代、高官たちには先駆けの警士を付けることになっていました。その地位の象徴です。
教会学校で同じ箇所の説教をしました。同じように生まれ、同じように育った者が、まるで違う役を果たすことになります。ここには、私たちの人生における役割の違いが語られているのです。神により決められた働きであって、それぞれがそのままで評価されます。
ヨハネは、自分の弟のようなイエスのために先触れを勤めます。それを役不足、とは言いません。「喜びに満たされている」と語ります(3:29)。
私たちは、このヨハネの先触れを聞き、メシアの到来に備えねばなりません。それは自分の罪を悔い改めることです。誇るべきものは一つもない罪人を救うために主はお出でくださる。ただそのことを感謝して、主をお待ちしましょう。