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2007年12月9日

《旧約における神の言》

説教者:
牧師 持田行人
聖書:
ヨハネ5:36〜47

すっかり冬景色となりました。と言えば雪で真っ白を思う地方もあるでしょうが、ここ大阪では、殆んど雪景色は見られないようです。これは高齢者にはありがたいことです。
雪が降り積もると、節々や骨まできしんでくるように感じられるものです。ここ玉出の冬は、柿と南天の赤、蜜柑の黄金色、裸の梢そして黄菊、白菊が表すように思えます。

記憶しておられる方があるかもしれません。昨年も同じ主題がありました。
教団の教会暦に従う聖書日課は4年サイクルだそうです。それなら4年間は、同じ主題が現れなくて普通だと思います。一体どうなっているのでしょうか。

 今回、一つの違いを指摘されました。前年は「葉っぱ」のついた言葉でした。今回は「言」ゲン、一文字の言葉です。意味に違いがあるのか、今回正しくはどちらを用いるのか、問われました。普段余り考えないようなこと、それでも頭のどこかで考えていることでしょう。言、言葉、ことば、ギリシャ語のロゴスで、イエス・キリストを指します。歴史上の人物だけでなく、天地創造の理(ことわり)を意味します。「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり、沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理を顕す。奢れる者は久しからず、猛きものも終には滅びん」。

この主題は何を意味するのでしょうか。旧約の中にキリストの姿を読み取る、と考えましょうか。そうであるなら、たくさん見ることが出来ます。カール・バルトは、こんなことを言っています。
『私は、聖書の至るところから、何処からでもキリストを説教することが出来る』。
頭の良さ、学識の深さ、経験、説教への姿勢など違いがあります。誰でもが、何処からでも、とは言えないでしょう。出来ないほうが正しい箇所もあるでしょう。
それでも旧約はキリストを証ししています。少なくとも、キリスト降誕への流れを示していることは確かです。

本日の旧約日課は、列王上22:(1〜5)6〜17、だいぶ長い箇所です。説明も必要です。
読まずにお話しすることにします。北王国の王は、オムリの子アハブです。何故か、たいへん注意深く、その名を出さないようにしています。紀元前874〜853年の間統治し、歴代誌に拠れば、北王国に繁栄をもたらしています。世俗の評価と聖書の評価とは全く違います。その基準が別のものだからです。
 
彼は、長く続いたアラムとの戦争状態を解消しようと決意しました。領土などでも譲歩しました。平和が回復されたため、国は繁栄しました。戦争をしてはならないことを知っていました。戦争による繁栄は一時的なもの、偽りであることを知っていたのです。
このアハブ王のもとを南ユダの王ヨシャファトが訪ねました。迎えたアハブ王は、家来に言います。「ラモト・ギレアドは、我々のものなのに、今はアラムのものになっている」。
そしてヨシャハトにも言います。「私と共に戦い、ラモト・ギレアドを取り返しましょう」。
ラモト・ギレアドは、ヨルダン川東岸、ヤルムク川以南のギレアド地方北部の町。モーセ時代からのイスラエルの町とされる(4:13、申命4:41〜43)。アラム王ベン・ハダドがイスラエルから奪い取り(15:16〜21)、後に返還に同意した町の一つであろう(20:34)。
ヨシャハトは拒絶せず、「先ず主の御ことばを聞いてください」と求めます。
イスラエルの400人の預言者は、「出陣しなさい、神が王の手に敵を渡します」と語ります。ユダのヨシャファトは、「もっと他にいないのですか」と尋ねます。アハブは、「ミカヤがいるけど、いつも不幸ばかり預言するので、私は彼を憎んでいるのです」。
ヨシャファトはあえて呼び寄せ、ミカヤから聞こうとします。
連れて来られたミカヤは預言します。「出陣しなさい。主は敵を王の手に渡します」。400人と同じでした。彼を憎むアハズは言います。「嘘をついている。真実を話せ」。そこでミカヤはことばを継ぎます。
「イスラエルが飼うもののない羊のように散らされているのを見る」。更に
「偽りの預言によってアハブを唆し、攻め上らせて倒れさせる役割です。主が、全ての預言者たちの口に偽りの霊を置かれました。主はあなたに災いを告げておられるのです」。
この預言者ミカヤは、旧約の中にある「ミカ書」と同じ名前ですが、預言書の時代は100年ほど遡ります。同一人物ではなさそうです。
 これが22:23までの物語の概要です。この後、アハブ王は、戦場へ赴きます。そして手立てを尽くしますが戦死します(22:34)。預言のとおりになります。
 
このところでの《神の言葉》をまとめましょう。
神はその意志、計画を預言者たちによって人々に知らせられる。
時に神は、計画達成のために、偽りを語らせることもある。
主の御言葉は幸いだけではなく、災いも告げられます。
聞く者は自分の欲によって都合の良い言葉だけを受け入れ、都合の悪いものは拒絶する。
主のことばを受け入れ、悔い改めるものは救われます。

 ここでは、無理にキリストの姿を探すのではなく、神のご計画は必ず成就することを知るべきです。

本日の福音書は、最初にお読みいただいたヨハネ5:36〜47です。
これはしばしば読まれます。特に、記憶されるのは39節でしょう。
「あなたたちは聖書の中に命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証をするものだ。それなのに、あなたたちは、命を得るために私のところへ来ようとしない」。
 主イエスの言葉ですから、ここで言う「聖書」とは、旧約聖書です。律法、預言、諸書(文学)から出来上がっています。その当時研究されていたことが良く知られているのは律法です。トーラーと呼ばれていました。これを漏れなく実行すれば救われる、命を獲得できる、と考えられていました。
 それに対して、聖書は救い主の到来を語るもの、証しするものと主は言われました。
この救い主は、御自分の命を賭けて羊を守り、養い、ご自身の命を与えて羊を生かす者です。これが羊の大牧者イエスの姿です。羊を食い物にする偽の羊飼いではありません。
 旧約聖書は、この羊飼いとしての救い主の到来、言の受肉を予言します。どのような姿であるか、証しします。偽者への警戒も語ります。いずれも神の言葉です。

本日の新約聖書、使徒書は、?ペトロ1:19〜2:3です。437ページとなります。
2章始めの小見出しが衝撃的です。「偽教師についての警告」とあります。先ほどは偽預言者400人とミカヤに、はじめ偽りを語らせることが記されていました。そのことを思い起こします。そのほかにも多くの偽預言者がいて、民が神に従わないように指導しました。王上18:1〜39、エレミヤ14:13〜16その他。
何はともあれ読んでみましょう。1:19以下はなかなか美しい詩的表現で、預言の言葉の重要さを語っています。ここで「聖書」というのは旧約を指します。
21節、「預言は、決して人間の意志に基づいて語られたのではなく、人々が聖霊に導かれて神からのことばを語ったものだからです」。その故でしょうか、「聖書の預言は何一つ、自分勝手に解釈すべきではないということです」。

 ディサイプルスの伝統の一つ、根本にあるのが、聖書は各人が読み、考え、解釈できる、とするものがあります。更に新約聖書主義があります。現在の玉出教会では、旧約聖書をよく読みます。各人の考えをかなり良くお話になっておられます。教会によってはそれを嫌う向きもあるかと存じます。牧師の考え、聖書解釈、教義学で充分とします。
丁度幼稚園で、父母の会を作らせないところがあることと似ています。園長が、統率する自信がないケースもあります。勝手なことを始めるから作らせない、と言います。違う考えが広がるのは困るから作らせない、とも言います。いずれも園長がワンマン経営をしたい、ということでしょう。そういう園を良しとする親たちもいます。しかしある時期を過ぎると、もっと幼児教育を考えたい、子どものことを一緒に考えたい、という気持ちになります。二番目のお子さんの幼稚園はもっと研究して選びます。

教会の牧師は、神によりたてられた牧師、教会から招かれた教師、という意識が強すぎると、自分自身を絶対化するのではないかと存じます。それはなくてはならないが、それだけではありません。招かれ、たてられたものも人間です。その解釈、言葉に間違いがないはずがないのです。そうならないように研鑽を積みます。それでも、神ならぬ身のよし、絶対ということはありません。間違いはあります。聖書研究会では、先日もありました。
その節はどうぞお許しください。だから、各人が自分の考えを語ることが許されるのです。語る中身は絶対間違いなし、であれば誰も語れません。

 聖書主義の背景には、逐語霊感説があります。バーバルインスピレーション。
この主張では、聖書は解釈を許さないものになります。ディサイプルスが始められた時代は大部分がこの考えでした。現代のような研究は考えられません。
創世記は、そのまま天地創造の次第。主イエスの生涯はそのまま疑い一つなし。
私たちは、先ほどの列王記上22章のように、神がどのような意図で語らせたのか、問いかけ、耳を傾け、答えを聞こうとします。

 聖書に戻りましょう。偽預言者がいると語られます。時代が変わると偽教師です。どのような人物か、記されます。
偽教師は、滅びをもたらす異端を持ち込む者です。それは贖い主を拒否します。私たちは革命的キリスト教などの名で、罪の贖いを否定する者たちがいることを聞きました。充分な注意が必要です。多くの人と自分自身から救いの喜びを奪い取り、剥ぎ取って行くので、多くの人の滅びになります。
偽教師は淫らな楽しみ事にふけっているようです。周囲のものも巻き込まれ、避けるべきこととも考えなくなります。そのため、真理の道が侮られ、謗られるようになります。
いつの間にやら、ごく当たり前のことになってしまうこともあります。少し範囲を広げると、「玩物喪志、玩人喪徳」(書経)に行き当たります。物や人をもてあそぶ、という意味です。書物に淫する、という言葉もありました。
偽教師は欲深く、嘘偽りで、あなたがたを食い物にします。これは預言者サムエルも警告しています。偽の羊飼い、自分のために羊を食い物にする羊飼いと全く同じです。自分の利益を求める羊飼いは偽者です。

私たちは新約だけではなく、旧約にも神の言葉が語られていることを知り、その言葉に照らして、私たちの救いの道を守らねばなりません。神の言葉が66巻に渉って、漲り溢れていると思うと、豊かな心になります。
感謝しましょう。