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2007年12月2日

《主の来臨の希望》

説教者:
牧師 持田行人
聖書:
ヨハネ7:25〜31

降誕前節、この呼び名は、他の基督教会も受け入れているわけではありません。
日本基督教団の一部の教会は喜んで賛同し、受け入れているでしょう。しかし大部分の教会は、こう考えます。「教会には長い伝統があり、よく考えられた暦を持っている。どうしてことさらに目新しいものを持ち出し、皆が共有してきたものを破壊するのか。充分な理由があるのか」と。
私たちは、多くの教会と共有している待降節を用いて参りましょう。

待降節は神の御子イエスの誕生をお待ちする時、
同時に甦らされた主イエスの来臨をお待ちすることを覚えるときです。

旧訳の日課を読みましょう。イザヤ52:1〜10、1148ページです。
この預言者は、まだ歳若く、また詩人としての才能にも恵まれた人のようです。ここでは、イスラエルをその歴史の起こりから語り始めています。
「エジプトにくだり」と言うのは、創世記46:1〜4にあることです。族長ヤコブの一家が飢饉のためエジプトに下り、そこでファラオの庇護を得て、羊飼いとして生活を始めたことを指しています。やがて王朝の交代などがあり、ヤコブの一族、その末裔は奴隷の身分に落とされていました。この民を神ヤハウェは、モーセを指導者としてエジプトから導き出し、約束の地カナンへと導きいれます(出エジプト1〜15章)。統一王国となり、繁栄します。ダビデ王の息子ソロモンが死ぬと、その王国は南北に分裂します。
 
そしてこの人々はカナンの地でも有力な民族となります。エジプト脱出からおよそ1000年を経て、イスラエルは捕囚を経験します。先ず北王国がアッシリアにより滅ぼされます。
エルサレムを守る南王国ユダもバビロニアによって滅ぼされ、指導者たちを初め数万の人々が捕虜としてバビロンへ連れて行かれます。そのことを背景にこの52章は語られています。エルサレムが、神殿が廃墟となった。今、良い知らせを使者がもたらしている。
すでにエルサレムは、無割礼の者たちによって、穢されました。しかし主は言われます。再びそのようなことは起こらない、と。エルサレムの最も高い所がシオンの丘です。そこは人々の信仰の中心となっています。その聖なる場所が穢されました。そこに王が帰って来る、神が帰って来る、と8節で言われます。清められた所とは記されません。穢された、穢れたところに帰ってこられるのです。
 クリスマスの物語でよくご承知のように、嬰児は家畜小屋にお生まれになります。それは、このところで預言されたことでした。
 イスラエルの王は王位についてからも、毎年、即位の式を行なったようです。新年の祝いの礼拝を即位の礼拝としたのでしょうか、そのための詩編が残されています。
本日は詩編の日課にも目を通しましょう。詩編47:2〜10です(880ページ)。
 9節などからヤハウェの即位の祭りを想定する人が多いようです。

ヤハウェの即位とは、イスラエルの神は、その民に王を与えますが、依然として神自らがこの国の王であることを宣言します。そのための即位のようです。ある種の契約式です。
「具体的な即位式の祭りに由来するらしいが、これらの詩の主題はかなり一般的な万国民へのヤハウェの支配そのものであって、具体的な即位式の祭りに直接するものではない様に思われる。」
「この詩では終末的なヤハウェの支配はそれほど強く出ていないように思われる。ヤハウェの支配は現在と将来のこととして歌われている」。(以上、関根正雄『詩編注解』)。

 ここに現れる主は、その民を贖われる主です。贖うとは、一人の人の命を、代価を払って買い戻すことです。クリスマスのイエスは神の子であり、自らの命を以って、神の民の命を、すべての罪人の命を、買い戻されました。
即位される王は、支配し、治める方です。同時に愛をもって仕える方です。

新約・使徒書の日課はローマ11:13〜24、290ページです。
この手紙を書いたのは、異邦人の使徒と自他共に認めるパウロです。ここでもそのことを13節で語ります。彼はキリストによる救いを、ユダヤ人に限定しようとするユダヤ民族主義や律法主義に対して、戦ってきました。それでも同じ同胞であるユダヤ人に対して愛情を失ったわけでもないし、彼らを諦めたわけでもありません。そうしたことをオリーブの接木ということに喩えます。
 オリーブの木のことは知りませんが、柿やぶどうの木の接木は見たことがあります。
父が、実際にやって、見せてくれました。渋柿に甘柿の枝を接ぎます。根元から一メートルぐらいの所で幹を切ります。その先端に縦に切れ目を入れ、裂くようにします。その裂け目に継ぐ枝をはさむように入れて、土を塗り。しっかり新聞紙や布などを使って包みます。同じようなことをオリーブの木でやっていたのでしょう。イスラエルではオリーブの栽培が行なわれ、品質改良が行なわれてきました。たくさん実がなるもの、油が取れるものが求められてきました。普通なら、野生のオリーブを台木にして、優れた品質の枝を接ぐのでしょう。ここではそれが逆転しています。そのために理解しにくいものを感じます。

 優れたオリーブの木が栽培されています。ところがその本質どおりの働きがありません。そこで野生のオリーブを接木します。
「異邦人は、野生の木から切り取られ、栽培されたオリーブに接ぎ木された枝のようである、とパウロは言います。異邦人の新しい枝は、すべての神の民を象徴して、神が栽培したオリーブの木であるイスラエルの民に接木されている」。
これはスタディバイブルの説明です。普通の接木とは様子が違います。台木は、神への信仰を持っていること、接木はその性質を受け継ぐようです。切り取られた枝も、不信仰から脱出すれば、また元の木に接木されます。
 このように異邦人も救われるが、そこで安心していてはなりません、と言います。不信仰になれば、また切り取られます。

 この譬は何を語るのでしょうか。また本日の主題にはどの様に結びつくのでしょうか。
接木からは、同じ一つの根によって養われる、ということを大事なことと考えます。神という根から養分を得ながら、不信仰の実を結ぶなら、何時でも、誰でも切り取られましょうということです。
 主の来臨と言うことは、私たちに切り取られる時を予想させます。しかしその時は、同時に接木される時なのです。ここに希望が生まれます。

本日の福音書は、ヨハネ7:25〜31、です。
エルサレムの人々の中には、イエスをメシアではないか、といぶかる者たちがいました。
「メシアだと思えるのだが私たちはあの方がナザレから来たことを知っている。本当のメシアが来る時には、誰も何処から来たかを知らないはずなのに。それに議員たちはおかしい。あの方を殺そうとして狙っている、と言うが、あれほど公然と教え、奇跡を行ない続けている。議員たちは真実を知って、隠しているのではないか。」

 そのような疑惑に対して主は言われます。
「私は、自分の意志でここへ来たわけでもありません。私を派遣された方がおられます。
私はその方を知っていますが、あなたがたは知りません。」議員も含めて誰も知りません。
と言うことは、人々が知っているイエスの出身地は、本質的なものではない、ということです。派遣元は何処だろうか。神です。誰も知らない神、といえるでしょう。ただ御子イエスだけが知っておられる父なる神です。
もし私たちが、この神を知っている、と言えば、このような答えが帰ってくるでしょう。
「あなたがたが知っているというような神は存在しません。あなたがたが、知らない、存在しないと言うような神が居られるのです。」これはある旧約学者が言われた言葉です。

 私たちが考えても見なかった救い主を、贖い主を、王を神は私たちのもとに送ってこられます。それがクリスマスの時です。その時を、準備してお迎えしましょう。