一昨日はバザー、大勢のお客様にお喜びいただけたことと存じます。多くの皆様にご奉仕いただいた甲斐があった、と感じます。本当に有難うございました。
また昨日は東京集会があり、8名の方がご出席くださいました。玉出の皆様に宜しく、とのことでした。またいつか懐かしい玉出の礼拝をご一緒したい、と仰っておられました。お出でいただけると嬉しいですね。
帰りの新幹線の窓から富士山が見えました。暮れなずむ空、低く垂れ込める灰色の雲、一瞬、雲が巻き上げられたようになり、頂上から山裾まで見渡せました。頂上から少し下までだけ白くなっていました。冬に向かっている感じです。
本日は《王の職務》と言う主題で説教します。
だいぶ前のことになります。30年ぐらいでしょうか、教団の教師検定試験が再開された頃のことでした。その試験問題がどのようなものになるのか、埼玉の教師会メンバーが関心を持っていて報告してくれたことがあります。その一つが『キリストの三職』であったと記憶します。先輩の先生方が、訳のわからん問題だ、と言っておられました。私は、今でもそうですが、私が受けていたら不合格だな、と考えたものです。嘘ではないことをお話しておきましょう。
私は68年春卒業しました。翌年は大学紛争の火が燃え上がります。教団や各個教会にも燃え移りました。70年度から暫くの間、教師試験は実施出来なくなりました。71年度は、レポートによる試験が実施され受験しました。合格して12月に、教会で按手礼を受けました。もし暗記するような試験なら不合格だったでしょう。というわけで、今合格する先生方には敬意を表します。
さて、キリストの三職とは何を指すのでしょうか。王、祭司、預言者だと思います。本日は三つのうちの一つが主題とされたことになります。では他の二つは何時学ぶのでしょうか。少なくとも続いてはいません。今回の「王の職務」に集中しましょう。
まず旧約聖書の日課、エレミヤ23:1〜6、を読みましょう。1218ページです。
新共同訳聖書は「ユダの回復」という小見出しをつけています。回復の預言は、ここ以外にもあります。30章もその一つです。イスラエルとユダの繁栄を回復する日が来る、と告げられます。
23章では、1節から4節に、主の民を僕する羊飼いは、羊の群れを散らし、顧みることをしない、と語られます。これは国の指導者のことをさして言われています。
王をはじめとする身分の高い人々です。スタディバイブルは面白いことを書いています。
「国の指導者は羊飼いが羊を導くように、民を養い、守る責任があった。しかし逆に狼のように振る舞った。イザヤ56:11、エゼキエル34章参照」。
この羊飼いは居眠りをしているのではありません。むしろ群れをなし、羊を食い物にしようとしているのです。面白い、と言ってはならないのでしょう。しかし、現代の日本社会の状況を言い当てていて見事です。昨日、今日の新聞、テレビの記事・解説かと思うほどです。
羊を守る者は、国の民を守る者と同じイメージで見られました。
古代オリエントでは、羊飼いから王になることが随分とあったようです。羊を飼う者から選ばれイスラエルの王になったダビデ、或は王子として生まれた者が羊飼いに身をやつし、生き延び、成長し王位を継承するペルシャのキュロス。
ヤハウェは、王を立て、また退ける力あるものとして、悪い王たちを罰します。それが、ユダの国が滅ぼされた原因でした。
今や。それとは違う新しい王が立てられる、と言われます。「散らし、追い払う」牧者ではなく、本当に牧する牧者を立てる、と言われるのです。それがダビデの若枝です。この王は「治め、栄え、この国に正義と恵みの業を行い」ます。
前週お話したことですが、聖書の中では、治めるという言葉の意味が世俗とはだいぶ違います。統治とか管理ということは、その意味の半分ほどに過ぎません。愛をもって仕えるということが大事な意味です。
何処の国でも同じかと存じますが、日本では時代によって王の姿は変わって来ました。
封建時代には、領主が国主、国王のようになります。
この領土における王・領主と庶民、侍・武士の関係はどのようなものだったでしょうか。一般的に考えるのは、領主が一方的に支配する形です。ところが実際には、ある種の相互扶助の契約であった、と聞きます。国主、領主はその領民を守る限りにおいて、その権威、権力を維持することが出来ました。領主は領民を守るために戦争を指揮する、その結果が良ければ領民は平和に生活し、年貢も納めます。領主がその責任を果たさなければ領民は年貢の責任を放棄することで応えます。
この関係が変化するのは、徳川時代です。儒教を採用することで、君君たらずとも臣は臣たれ、という倫理が立てられました。大きな変化でした。戦前までその倫理は生き続けたのですから。
本題に戻りましょう。王の職務は、治め、正義と恵みの業を行う事です。
次は新約聖書です。ヨハネの黙示録1:4〜8、お読みします。
ここには、アジア州にある七つの教会へのヨハネの挨拶が記されます。その名は1:11に記されます。
エフェソ、スミルナ、ペルガモン、ティアティラ、サルディス、フィラデルフィア、ラオディキア。現在のトルコ、ローマ帝国のアジア州にある古い町々です。
七と言う数字は、聖なる数とされます。その数それ自体以外では割り切れない数です。一、三、五、七、十一などです。完全数と呼ばれることもあります。聖書の中では、それを実数として用いる場合と、大変多いという意味で用いる場合があります。ここでは実数と考えます。イスラエルの神殿には七枝の燭台がありました。ソロモンの時代に作られ、ローマ帝国時代に、戦利品として運び出され、以来行方不明のようです。そのときの状況がレリーフに残っていますので、実際の形が分ります。現在のエルサレムでは、国会に当たる「クネセト」が置かれた丘に、この燭台が建てられています。
ここには、「復活した方、地上の王たちの支配者、イエス・キリストから恵みと平和があなたがたにあるように」と記されます。甦りのイエス・キリストは、私たちの主であり、同時に王中の王なのです。The King Of Kings、この王は世俗の王と違って、恵みと平和をもたらす方です。ここに王の職務があります。甦りは、厳密には、父にして創造主なる神により甦らされた事です。甦りのイエス・キリストは、自分の意志や力で甦ったのではなく、したがって自力で王位に登ったのではありません。神の力によって王とされたのです。
そればかりではなく、6節では私たちも王とされたと記されます。私たちは僕です、と思っていると、なんと王とされているではありませんか。神の力により、キリストと共に、王であり僕なのです。本日の福音書は、神の力が不思議な形で顕れたことを示します。
福音書はヨハネ18:33〜40、ピラトの審問の場面としてよく知られる所です。
ローマの総督ピラトは、ユダヤの地でも余り喜ばれていませんでした。当たり前のことです。独立心が強く、その地を統治するには困難が伴う、と言われるユダヤ人たちです。歓迎されるはずがありません。その上、ローマの総督の地位を獲得するためには、猟官運動をしなければなりません。優れた功績や家柄、後ろ盾があれば別ですが、ピラトの名はどこにも見えません。ただイエスを処刑した男としてだけ名が残ります。高官たちへの贈り物など費えがかさみます。それでも総督になれば、10年の任期中に充分な収入がありました。当然の収入もあるでしょう。そのほかにも取り分を増やす方法はいくらもありました。皇帝自らそれを実践しています。皇帝個人の金蔵が空になると、富裕な商人、貴族に罪を着せ、処罰します。自死を命じることもありました。その前に命を立つことを選ぶ貴族もいました。
そのようにして彼らの財産を自分の倉に納めました。ピラトが豊かな家柄や能力の人であった、ということも聞こえてきません。一生懸命稼ごうとしていたに違いありません。
その結果、この頃には、ユダヤの人々との軋轢が高まり、彼らによってローマの皇帝に訴えられる、というところまで来ていました。それなのに人々は、大祭司のところからピラトの官邸へイエスを連れて行きました。総督本来の官邸はカイサリアにあります。エルサレムに滞在中は、神殿の西北すなわち裏側にあるアントニア要塞に住みました。そこに大勢が押しかけたことになります。
その理由は、イエスを死刑にするためでした。帝国は属州各民族の宗教については自由・自治を許していました。しかしその中には死刑は入っていません。宗教的な理由で死刑にすることは出来ません。帝国に対する反逆のような重大犯罪だけが死刑とされ、それは総督の専決事項でした。一人の人を殺すためなら誰とでも、手を結ぼうとする人間の姿が現れます。恐ろしいことです。自分にとって都合の悪い人間を抹殺するためなら、悪魔とでも手を結ぼうとするのです。
ピラトは質問します。「お前はユダヤ人の王なのか」と。これが訴因です。ローマ皇帝が支配者なのに、この男イエスは、自分こそ王だと自称している、これは反逆だ、というわけです。イエスは「私の国はこの世には属していない」と答えられます。ピラトは「やはり王なのか」と応じ、イエスは否定も肯定もなさらず、「私が王だとはあなたが言っていること。私は真理について証をするために来た」と言われます。
結局ピラトは、イエスの内になんの罪も見出すことが出来ませんでした。無罪の宣告をします。19:4、6でも再度無罪を告げます。それなのに何故イエスは十字架に付けられるのでしょうか。ローマの法に基づいて、王を自称する反逆者とされました。十字架の上には札が掛けられ、そこにはユダヤ人の王と書かれました。
神の計画により王とされた主イエス、その職務は真理について証しすることです。
イエスを見るとき、何が真で、何が偽りであるか分ります。この人生で何が大事なのか判ってきます。一切の基準になるのです。この王は、すべての人に仕える僕であり、またすべてのものから自由な、すべてを支配し、管理する王なのです。
まことの王であるキリスト・イエスは、私たち全ての者の命に仕えてくださるお方です。また、私たちも共に王とされていることを忘れず、王の職務を担う者でありたいものです。感謝して讃美いたしましょう。