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2007年10月21日

《天国の市民権》

説教者:
牧師 持田行人
聖書:
ルカ福音書19:11〜27

聖霊降臨節第22主日、讃美歌88,228,502、
聖書日課 士師記7:1〜8,19〜23、ヘブライ11:32〜12:2、詩編78:1〜8、

本日の主題は、正確には《天国に市民権をもつ者》となっていました。教会の門前にある大きな看板に書かれているものがそれです。私は、長い説教題はつけないようにしています。好みにあわない、位の簡単な理由です。

本日の、旧約の日課は士師記7:1〜8,19〜23となっています。よく読まれるところ、好まれている所です。国際ギデオン協会の名の起こりとして知られています。ギデオンの精兵300人とその勝利の物語です。ミデアン人たちとの戦争が起こりました。イスラエルの指導者はギデオンです。またの名は、エルバアルです。彼のもとに多くの兵士が集まりました。主は言われます。多過ぎる。その力で勝ったと考えるだろうから、帰らせなさい。二万二千人が帰り一万人が残ったとされます。咽喉の渇いた兵士を水際に連れてゆき、水を飲ませます。犬のように顔を伏せ、水に口を付けて飲んだ者は除かれました。方膝をつけ、片手で水を汲み、顔の前へ持ってきた者たちが勇士とされました。渇いていても、敵の襲来に対して注意を怠らない者たち、これがギデオンの精兵300人となります。
精兵である必要もなかったでしょう。弱虫たちが戦いに勝った、となれば神の勝利が際立つのにと感じます。
 このことが、「天国に市民権をもつ者」とどの様に関わるのでしょうか。
18・20節「主のために、ギデオンのために剣を」と繰り返されます。誰のためのせいであるか、何を主としているかが問題となるのでしょう。

市民権とは一体どのようなものでしょうか。考えてみましょう。
その町に住み、一定の保護を受け、義務を果たすものが市民。そのために条件がある。
自由の民であること、義務を果たす力を持つこと、普通は軍役と納税です。
ローマの歴史と法の中では、植民都市と呼ばれるものが存在しました。これは今回の市民権と深く関わっているので、特にお話しさせてください。だいぶ前に読んだものです。記憶違いがあったらお許しください。ガリア戦記、年代記、皇帝列伝。

ローマを支えたものはいろいろありますが、軍事組織はその最大のものでしょう。基本的には、市民が志願兵となり軍を組織しました。貴族はその軍団の指揮を執りました。ところが、ローマが勢力を拡張するに従い、国土を守るためには自国の外で戦うべきだ、と考えるようになりました。従来は他国が攻めてきた時に軍団を組織していたのです。新しい考えに基づくと、市民を長い間軍に縛り付けることになります。殆んど常備軍のようになってしまいます。志願して国を守ろうとした市民たちは、畑や商売、取引が出来なくなってしまいます。悲鳴を上げました。そして自分の身代わりに奴隷を差し出すようになりました。市民権をもたない者たちによる戦争、ということになりました。奴隷たちにとってローマが負ければ自分たちは自由になれる、と考えるかもしれません。ローマの軍事力は低下しました。不敗を誇ったローマ軍団がしばしば敗れるようになりました。
そこでローマの賢い皇帝は、市民権をもたない軍団兵に報償を与えます。兵役を勤め上げれば、市民権と金と土地を与え、自由の民として暮らせるようにすることを約束しました。兵役は20年以上で、確か30年満期? その間を生き延びるだけでも大変なことだろうな、と感じた記憶があります。

聖書には、フィリピの信徒への手紙があります。フィリピは、元来金鉱の町として知られていました。その後マケドニアのアレキサンダー大王の父親フィリッポス?世が、前358年これを拡張し、自身の名を付けました。一年間で34トンの金を産出したと言います。
やがて、ローマが勢力を拡張するにつれ、この町も前168年、属領となりました。
内乱時代、前42年には、この近くの平原で、アントニウスとオクタヴィアヌス(後のアウグスティヌス皇帝)がブルトウス(ブルータス)とカッシウスの軍を破ります。前31年アウグスティヌスは、この町を拡張し、ローマの植民都市として、イタリアの諸都市に準じる権利を与えました。こうしてピリピは退役する軍団兵たちの町となりました。満期除隊の兵士、これが本来のベテランズです。彼らには小さな農地と家、市民の権利を与えられ、自由な市民として生きることを認められました。そして彼らには免税特権も付与されました。(屯田兵)

ローマ帝国は、その支配を受け入れ、ローマ化した程度に応じて市民権を与えました。
フィリピの場合、その町に移住・植民したベテランズ・退役兵たちは町の総人口の半分ほどに達しました。政治、軍事、経済、文化などあらゆる面でローマの支配を受け入れることでローマ都市となります。これが市民権です。当時の世界では特権を得ることでもありました。第一級の市民であると言うことだけでも特権でしょう。言行録には、皇帝に上訴する権利があったと記されています。(言行録22:25〜29、千人隊長とパウロの市民権。25:10〜12上訴)。
市民権は上から認められる必要がありました。

ルカ福音書19:11〜27、ムナの譬とされますが、マタイ福音書では「タラントの譬」として親しまれてきました。マタイでは、主人は僕に5タラント、2タラント、1タラントを与え、旅に出ます。タラントはほぼ6000デナリ・ドラクマに相当します。中間のことは大体同じでしょう。最後は、役に立たない者を外の闇に投げ捨てよ、と命じます。
 
ルカ福音書に戻ります。主は、エリコで徴税人の頭、ザアカイと出会いました。
「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」。「今日あなたの家に救いが来た」。と言われました。その割には、泊まったか、否かは記されていません。省略されているのでしょう。
それに続いて、ムナの譬が語られます。
「王国の支配権を受けて戻るために遠くに旅立つ人」とあります。この背景には、ヘロデ大王の子アルケラオス(紀元前4〜後6年、ローマより民族指導者・エトナルケースに任じられてユダヤ・サマリヤ統治)とエルサレム市民たちとの確執があるといわれます。旅立ちに当たり、彼は10人の僕に言います。「この10ムナで商売をしておくように」。

1ムナは、100デナリオン(ローマの銀貨)、ないし100ドラクマ(現在でもギリシャの貨幣単位)。1ドラクマが労働者の一日の平均収入であれば、その100倍に相当します。一人一人が充分な資金を委ねられたのでしょう。(ユダヤの貨幣はシェケル)
その留守の間に、彼の町の市民たちは使者を送り、伝えました。「私たちは、彼が私たちの支配者になることを望みません」と。それにも拘らず、彼は王となって帰ってきます。
そして先ず、僕を呼び、精算します。市民たちとの対決が先だと思うのですが、何故でしょうね。資金の必要があったようには思えません。どうやら僕たちの忠誠度を見ようとしたようです。主人の委託にどの様に答えたかを知ろうとしました。僕を呼びます。
 第一の僕は、1ムナが10ムナになりました、と報告します。十の町を治めるものとされます。第二の僕は、5ムナになりました。五つの町を治めることになります。
第三の僕、彼は一ムナを手ぬぐいに包んでしまっておきました。これは第一の者に与えられます。

そして最後もマタイと違います。この主人が支配者となることを望まなかった者たちへの報復が語られます。「彼らを引き出し、私の面前で切り殺せ」と。

小事に忠なる者は大事にも忠である。持てる者は更に与えられ、持たざる者は持てる物をも取り去られるであろう。などの教訓・警告を読むことが出来ます。それは本題ではありません。遠くへ出かけて帰ってこないように考えられる支配者、主に対して如何に忠実であるか、が問われています。現代世界は「神は死んだ」と言います。そして自分の利得、欲望を満たすことに現を抜かしています。その結果が僅かな金のための殺し、憂さばらしのための見知らぬ人の殺しなどになっています。自己中心、利己主義です。
目には見えない主なる神に対してどれだけ忠実でしょうか。その支配を何処まで受け入れているでしょうか。

さて、新約の書簡です。ヘブライ人への手紙11:32〜12:2、ここは信仰者の模範例を列挙し、その最後に主による鍛錬・訓練を重んじるよう教えています。
市民権は約束されているが、まだ完全には入手されていない。それまでには訓練の時がある、と語られているようです。とりわけ「罪と戦って、血を流すまでに抵抗したことがない」と記されていることに注意を向けたい。
罪は神の支配を拒絶すること。他のものを、他の諸力を主と崇めることです。

私たちが、安易に様々な力を崇め、従っていることが指摘されます。これがルカ19章の譬との連結点、そして全体を結合するポイントになります。
 
天国に市民権をもつ者とは、神の支配を全的に受け入れているものです。
私たちは、神の支配を受け入れた、と言いながらしばしば他の力に屈服し、従っています。
市民権を認めていただくように節制し、自らを鍛錬しましょう。罪に対する戦い、それは神に従うようになる戦いですが、決して安楽なものではありません。血を流すほどに抵抗することが求められます。しかし諦めてはなりません。最後の勝利は、キリスト・イエスが十字架の上で獲得してくださいました。勝利は我等のものです。