ようやく暑さも峠を越えたようです。朝晩の空気が爽やかになってきました。庭ですだく虫の声もしげくなリました。一昨年、戴いた鈴虫を庭に放しました。九月になってから、鈴虫の声が聞こえてきました。少しか細いかな、と感じます。あの時の子孫であれば嬉しいな、と思います。四季折々の移り変わりというのは、その只中にいるときは余り感じないことが多いのではないでしょうか。忙しくしている時には分らない、よっぽど過ぎてしまい、季節の走りではなく、酣になってから、ああもうこんなになってしまったのだ、と気付くことが多いように感じます。勿論、この鈍さは私のことです。
本日の旧約聖書日課を読みましょう。
サムエル記下18:(24〜30)31〜19:1、新共同訳の511ページです。
アブサロムはダビデの息子、「イスラエルの中でアブサロムほど、その美しさをたたえられた男はなかった。」サム下14:25、美しい妹タマルを可愛がっていたが、兄弟アムノンによって辱られ、穢されました。2年後、アブサロムはアムノンを殺し、復讐しますが、父ダビデの怒りをかうことになります。そしてアブサロムは逃亡しました。三年後、赦され、帰ってきましたが、日常の生活において王のように裁きを行なおうとします(15章参照)。そして40歳になった年の終わりにヘブロンで兵を挙げ、王になったと宣言します。ダビデは逃亡者となり、ヨルダンの向こう、マハナイムに隠れます。ここは、現今のキルベト・マハネ、とされます。しかし文脈(創世32:2)から、これをペヌエルに近い現今のテル・ヘジャジとの同定が妥当とされます。ヨルダンの東11キロ、ヤボク側の南岸から遠くない所です。
アブサロムはダビデを追います。エフライムの森で戦いがなされ、アブサロムのイスラエル軍がダビデ軍に敗れました。アブサロムも死にます。その事をダビデに知らせるために、二人が使者として派遣されます。これが日課になっている箇所です。
この使いは、ダビデにとっては良い知らせをもたらすものではありません。使者にとっても、何も報いは与えられないでしょう。昔、悪い知らせをもたらす使者は殺されるようなこともあったようです。使者のひとり、アヒマアツは一番悪いことは隠して伝えませんでした。クシュ人は(エチオピア人のことです)、すべてを隠さず、告げました。それを聞いてダビデは哀しみ嘆きます。ここには、人の親としての心が良く表れています。
さて、ここには二つの十字架があるように感じられます。クシュ人は、自分の使命を果たす、という十字架を果たしています。主君の心に反する内容であっても、伝えるように命じられた事を、隠すことなく伝えたのです。
一方、この知らせを聞いたダビデは、親として、自分の愛する息子の死を受け入れなければなりません。愛子の死は哀しいものです。確かにこれは十字架でしょう。
イエスの十字架の死は、父なる神にとって愛するひとり子の死です。父の十字架です。
ルカ福音書14:25〜35には、「弟子の条件」という小見出しがついています。
ここでは、「弟子ではありえない」という言葉が三回繰り返されています。
「自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない」。
命は、ここでは魂と訳される。結局は、その人自身を指す。
「自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、誰であれ、わたしの弟子ではありえない」。
「自分の持ち物を一切捨てなければ、あなたがたの誰一人としてわたしの弟子ではありえない」。
自分を憎まなければ弟子となることが出来ない、と聞けば、何とか憎まなければ、と思うのが私たち。そして、形だけそれらしく見せようとする。これでは、あの律法主義者、ファリサイ人たちと少しも変わらない、ということになります。主イエスがそのような事を求めるでしょうか。そのはずはありません。神から離れ、気随気儘にしている事を喜ぶ自分を憎む、と考えるべきでしょう。それが罪を憎むことです。神なしで生きることが出来ると考えることです。いくらか伝統的な考えでしょうか。
自分の十字架とは何でしょうか。クレネのシモンはイエスの十字架を担いました。これは彼だけの特権となりました。イエスの十字架は、すべての罪人の罪を贖うため、担われました。私の罪のための十字架を主イエスが担ってくださいました。十字架は、自分の赦しを獲得するために担うものではありません。他の人のために担うものです。
持ち物に関しては、使徒言行録5:1以下の、アナニアとサッピラの出来事を読むと役立ちます。所有する、ということは、そのものに対して支配力を有することです。捨てることも持っていることも出来るのです。それができなくなっている時は、物に所有されてしまっているのです。この時代の人々にとって所有欲は、悪霊に支配されているようなものです。この悪霊と戦う時に見通しをつけなければなりません。所有欲という悪霊との戦いに勝つことが出来ないなら、早いうちに捨ててしまいなさい、と言われるのです。
アシシのフランシスは、フランシスコ会修道院の創始者です。清貧と貞潔、祈りと労働がそのモットーです。非常に人望が高く、多くの人が入会し、大きな組織になりました。そうするとその活動のために寄進された財貨も膨大なものとなりました。組織維持は、清貧の誓いに反して多くを所有することになります。
晩年のフランシスは、この矛盾に悩み、苦しんでいたそうです。組織の中には才能ある人たちが大勢いました。フランシスに対する敬愛の情が、彼の素志に反する財産所有を進めました。哀しいことです。ここには、フランシスと弟子たちが、それぞれ違う形で背負うことになった十字架が見えます。
ディサイプルス派の日本宣教は、先週もお話しましたが、アメリカの多くの人の献金によってなされました。インディアナ州に本部があり、アトランタにはオグレソープ大学があります。オリンピックのマラソンコースの脇です。聖学院は姉妹校として提携し、この構内に聖学院国際学校を作りました。幼稚園からあって、在住の日本人に喜ばれ、安心感を与えています。
主が捨てなければ弟子となることは出来ない、と言われたにも拘らず、現実は、それを知りながら弟子であるため、その使命を果たすため、所有し続けるのです。主は不可能を求められるのでしょうか。もしそうなら、あのユダヤの律法と同じではないでしょうか。
もうひとつの日課を読みましょう。新約聖書の351ページです。
ガラテヤ6:14〜18「キリストの十字架のほかに、誇りがあってはなりません」
「大切なのは、新しく創造されることです」。新しい創造が意味されています。ここで十字架と新しい創造がイコールで結ばれました。
本来、創造とはどのようなことだったでしょうか。思い出してください。
バビロン捕囚のイスラエル人たちは、その混乱した状況の中にあっても、自分たちの世界は神によって創られ、自分たちは神の被造物、神が「よし」とされたものである、と信じ、告白しました。本来的に人間は、神との良い交わりの中にいるように造られたのに、そこから堕落してしまった、と告白したのです。
新しい創造は、全く違う種類のものが、人間が、被造物が創られることではありません。全く新しく、それは本来の人間となり、神との関係に入ることを意味しています。神に「宜しい」といっていただける被造物・人間です。私たちがそれを造ることは出来ません。神の側から十字架によってそれを造ってくださいました。関係を修復してくださいました。
この作られた人間こそ弟子なのです。
私たちは弟子となる、と言います。しかしそれだけの力、清さを持っているでしょうか。
自分を憎むことが出来ない。十字架を背負うのはきらい。持ち物は増える一方。それをよろこび、さまざまなコレクションをつくり、それを誇ります。
まさに弟子となることは出来ないのです。
私たちの力ではなく、神の力が、私たちを新しい人間、弟子に創ります。
様々な十字架が考えられます。ある人は家柄とか血筋にそれを感じ取るでしょう。
他の人は、御自分の健康状況や能力だったりします。ハンセン病療養所へ行くたびに、この人たちの担わされた大きな、重い十字架を感じざるを得ませんでした。パウロも自分の容姿や視力に劣等感を抱きました。ある意味で十字架を感じたのでしょう。ダビデ物語でも十字架を感じました。クレネのシモンも十字架を担いました。誰でも同じように十字架を担うことは出来ません。
私たちが背負う十字架はそれらとは違います。人それぞれ、違います。
私たちが背負う十字架は、すべての私たちを神との新しい関係に招じ入れるものです。
新しい創造を人々に伝えること、新しい人として生きるための苦しみこそ、すべての人の十字架です。
だからこそ、この十字架を誇りとするのです。感謝しましょう。