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2007年8月26日

《正しい服従》

説教者:
牧師 持田行人
聖書:
ルカ福音書14:1〜6

  聖霊降臨節第14主日、讃美歌9、164,286、交読文34(十戒)
  聖書日課 出エジプト23:10〜13、ローマ14:1〜9、詩編92:2〜16、

処暑を過ぎて、気のせいか過ごしやすくなりました。厳しい残暑は、9月半ばまで続きそうだ、ということですが、同でしょうか。体が慣れてしまえば大丈夫です。1997年の夏は、10月になっても半袖を着ていたほど、残暑が続きました。

この暑さの中、走ったり、投げたり、跳んだりする人たちが大阪に集まっています。凄い人たちです。事故がない様に願います。私たちも暑さに負けず、旧約から読みましょう。
新共同訳で132ページです。

出エジプト記23:10〜13、安息年と安息日の定めが記されています。安息年というのは、大地に七年目ごとの休みを与えなさい、という定めです。その休みの間は、土地をもたない貧しい民が自由にその畑から取って食べることが出来ました。農地に休耕年を与え、地力を回復させる。同時に貧しい人を助ける。
安息日は、七日目ごとにすべての仕事をやめて、すべての人が休息を取り、家畜も奴隷も寄留の者も元気を回復する定めです。これは、神が創造の仕事を完成された日を記念するものです。(創世2:2,3)20:9〜11、31:14,15、34:21、レビ23:3、申命5:13,14参照。

 旧約の時代のイスラエルは、神の律法に対して大変忠実に生きようとしました。文字通りに守ろうとして、学者先生の解釈をお願いしました。安息日を守りなさい。はい、分りました。でもどの様にしたら、守ったことになるのか判りません。どうぞ教えてください。
 そこで学者先生は考えました。だんだんと積み上げられ、新約聖書の時代には膨大なものになっていたようです。それを文字通りに守ろうとして、勉強したのがファリサイ派の人たち、あるいはファリサイ人です。どのようなものがあったか。
安息日は働いてはならない。どこまでが「働き」になるか、細かく決めるから、それを守りなさい。家を出て歩く場合は何歩まで。食事の準備をしてはなりません。一日は日没から始まりますので、その前に一日分の準備をすることになります。
病人がいる場合、その進行を防ぐことは許されますが、治してはいけません。
 これらのことは、前週の説教でお話しました。18年間、癒やされる事を求め続けた女の癒やしを思い出してください。(ルカ福音書13:2〜17《信仰の証し》)

 イスラエルの人たちは、神の掟、律法に大変従順でした。それを神の意志である、として守りました。でも、どこかおかしい所があります。本来、大地や人間を、元気付ける事を求めている律法が、人間・律法学者の解釈によって、押さえつけるものに変わってはいないでしょうか。その事を明確に示したのが、主イエスです。

今朝、最初にお読みいただいたルカ福音書14:1〜6、を御覧ください。
安息日に、ファリサイ派の有力者の家に入られた。大勢の人たちがいたようです。彼らは、イエスとはどんな人だろう、と様子を伺っています。そこに水腫を患っている人、病人がいました。そこで主は、律法学者やファリサイ派の人たちに質問されます。安息日に病気を癒やすことは許されているか、いないか、と。当然、公式的には許されていません。しかし、誰も答えませんでした。彼らは公式のもつ問題を承知していたのです。
勿論主イエスは、この病人を癒やされました。そして皆に言われます。「人間の場合、病気を治してはならない、などと言いながら、あなたがたは自分の息子や牛の問題であれば、大胆に掟を破るでしょう」。彼らの沈黙は承認です。

 こうした主イエスの考えを更に進めようとするのが、使徒たちです。
ローマ書14:1〜9、を読みましょう。新共同訳の293ページです。「兄弟を裁いてはならない」、という小見出しがついています。
ところが13章を見ると、そこに「支配者への従順」という小見出しがあります。私たちに与えられている《正しい服従》という主題とどの様に関わるのでしょうか。

 20代の頃、『異常心理学講座』全10巻 という書物の一部を読んだことがあります。人間心理を考えようとする時、正常な心理とはどういうものか分らない、分りにくい、なかなか説明できない、となります。そこで学者先生が考えました。
「正常」が分らなくても、何が「異常」であるかは判るだろう。これは異常である、というものを研究し、そこから正常とはどういうものか、見つけることが出来るだろう。
話が逸れました。実は、「正しい服従」があるならば、正しくない、「悪い服従」もあるはずだ、と申し上げたかったのです。本論に戻ります。

ここで語られているのは、ユダヤ人が守るべき食物規定遵守に関わることです。ユダヤの律法には、食べ物に関する規定があります。反芻しない動物、蹄の分かれていない動物、鱗のない魚は食べてはならない、とされます。
ここには問題があります。神様は、お創りになったものすべてを、よろしいといって祝福されたではないか(創世1章)、何故穢れているから食べてはならない、とするのか。

長い間、ひそかに問題視されていたのでしょう。主イエスの登場によって安息日規定が見直されると、弟子たちの教会では、神が創られたもの、神が清められたものを穢れているなどと言ってはならない、とされました(言行録11:1〜18)。特定の規定や慣習に従うことで神に義と認められるのではなく、神はすべての人をその食習慣に関わらず、受け入れてくださっているのです。
これは食物にとどまりません。大きな展開が用意されていました。人間そのものに関わることが明らかになります。それまで異邦人と呼ばれ、ユダヤ教の中に受け入れられなかった人たちが、キリストの教会に受け入れられるようになったのです。
人は自分を基準にして他の人を裁きます。自分が食べない穢れたものを食べているから、あの人は悪い。自分がした良い事を彼はしていないから駄目だ。
このような裁きをやめるように、パウロは書いています。すでに赦され、共に生きるように勧めています。受け入れられているからです。?コリント10:25以下は、食物規定に関するものです。そこでパウロはこのように書きます。31節
「だから、あなた方は食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を表すためにしなさい」。

ローマ14:8で、パウロはこのように語ります。彼の信仰の言葉です
「わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても死ぬにしても、私たちは主のものです。」
「主のため、主のもの」、これは主の栄光を表すことだ、と理解できます。

正しい服従は、律法の字句を忠実に守ることではありません。あるいは、人の立てた思想や学説、解釈を絶対視することでもありません。もし私たちの実績などが赦しの条件になったら、それを満たすことの出来る人はいません。
無条件、無前提で、罪の赦しが与えられるところに福音があります。律法をお与えくださった神の御意志を知り、その恵みの意志、救いのご計画を受け入れることが信仰です。感謝しましょう。