本日の主題は《信仰の証し》、水曜日の聖書研究でも、先週偶々「証し」と言う言葉が出て来ました。聖書日課には何もない。さてどうなりますか、初めてみましょう。
本日の聖書はルカ福音書13章、初めの部分です。おかしな書き方をしてくれている、と感じます。1〜9は括弧の中に括られています。読んでも読まなくてもいいよ、と言われているように感じるのは私だけでしょうか。
小見出しを見ると、その下に括弧がなくて、他の聖書の箇所が記されていません。これは、他の福音書には同じような記事がない事を示しています。ルカ福音書に特有の記事、物語、たとえ話ですよ、ということです。ご一緒に読みましょう。
13:1〜5は導入部になります。いろいろな災害、災難に出会い死んで行く人がいます。
阪神淡路や中越の地震、先ごろの能登、中越沖、ペルーの地震、多くの方が亡くなりました。交通事故や犯罪の被害者、原因不明の難病に苦しむ人たち。熱中症で亡くなった方たちもいます。この人たちは、他の者たちより罪深かったのでしょうか。主は言われます。 決してそうではありません。罪の点では皆変わりはありません。悔い改めなければ、あなた方も滅びますよ、と言われます。
ではあの災難にあった人々だけが悔い改めなかったのでしょうか。他の人たちは悔い改めたのでしょうか。その問いに答えようとするのが6節以下の譬です。
ぶどう園に植えられたイチジクの木が実をつけません。もう三年になります。そこでご主人は、場所ふさぎになるだけだから切り倒せ、と命じられました。園丁は優しい人でした。このイチジクのために弁護し、お世話するから、来年の実りの時まで待ってくれ、と言いました。この後どうなったかは語られませんでした。知りたいでしょう。私も、どうなったか心配です。駄目な時、代わりに何を植えるのか、それも関心があります。何故お話してくださらないのでしょうか。理由があるに違いありません。考えましょう。
恐らく、その後の状態には変化がない、事を示していると考えられます。実のならないイチジクは、多くの罪人、悔い改めないイスラエル、頑なな伝統主義者を指しているでしょう。神との関係で執り成しをする役割は、本来祭司のものです。その彼らが実りを結んでいない、とされるのです。なかなかのことです。すぐに彼らが悔い改めれば宜しいのですが、これは難しいことです。今年も待ってください、と続いているのです。継続する故に、ここで話が終わっているのではありませんか。これは、神の恵みの物語です。