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2007年8月5日

《隣 人》

説教者:
牧師 持田行人
聖書:
ルカ福音書10:25〜42

大阪に参りましてから、セミと言えばクマゼミのことでした。関東ではアブラゼミ、ミンミンゼミ、カナカナと鳴く蜩(ヒグラシ)、ツクツク法師、などでした。先週の初め、玄関前に茶色のセミの片はねが落ちていました。木曜日には、初めて茶色の羽のセミを拾いました。多分アブラゼミ。前日午後遅く、確かに鳴いていました。クマゼミの透き通った羽に較べると濃い茶色は不細工かもしれません。夏より秋向きかなとも思います。でもクマの合唱の中に一筋の鳴きは、懐かしく感じられました。昨夕も二箇所で鳴いていました。

これまで、旧約聖書の律法を随分読ませられてきました。掟、戒め、命令、という類の言葉は、大切だと思うと同時に逃げ出したくなるような何ものかが存在します。戒めなどは、自分を形作り、守るために必要だ、と思いながら、ある種の型にはめ込まれてしまう、と感じるようです。社会一般の思惑に従い、その型枠に入ってしまえば、かえつて自由になるようにも感じます。しかし、自分の中のどこかにそれを良しとしないもの、凄く意地っ張りで、頑ななものがあるようです。これではとても、会社勤めも学校の教員生活も出来そうにない、と感じます。そもそも『法』とは何か、という問いを抱かされたことがあります。今でも持っています。束縛するものではなく、市民の自由と人権を守るためのもの、と若い日に考えました。本日の旧約日課は、この律法の一部です。
出エジプト22:20〜26、「人道的律法」と小見出しが付けられました。初めて自分で読んだ時、随分人道的な律法だなあ、と感じた事を思い出します。

スタディバイブルによって、字句の説明を致しましょう。
寄留者、イスラエルの民は自らがエジプトの地で奴隷であった事を常に忘れず、同国人でないものに公平と正義を持って接しなければならない。また、生活の保障を持たない寡婦や孤児に対しても同様である。23:9、レビ19:33,34、申命24:17,18、
孤児、父親がいない子供。
利子、当時、硬貨や貨幣の代わりに金や銀の塊が使われた。金や銀を借りた場合には、その重さに加えて利子が要求された。レビ25:35〜38、申命15:7〜11、23:20,21。
詩編では正しい人はお金を貸すとき利子を取らないとされる(詩15:5)。

 ここから問題が生まれます。有力者の元に客となっている者、貧しく身寄りもない旅人、同じようであって、その待遇は異なります。孤児にしても同じです。利子にも問題があります。借りたい人は、利息を払ってでも借りたい。持っている人は何とかして貸付、利益を上げたい。そこで、困っている人のために便法を考えましょう、となったようです。
好意や、善意のためと言って律法の定めが覆されてしまうのです。

ルカ10:25〜21、グッド・サマリタン、善きサマリア人の物語。大変良く知られた譬話です。スタディバイブルは、こんな事を書いています。

律法、旧約聖書(ユダヤ教正典)の最初のモーセ五書(創、出、レビ、民、申命)。
永遠の命、イエスの時代までに、多くのユダヤ人は死後の生を信じ、待ち望むようになっていた。しかし、サドカイ派のように、律法には明確には述べられていない事を理由に、永遠の命の概念を受け入れない者たちもいた。イエスはイエスを信じる者すべてに永遠の命が与えられると述べている。
エルサレムへからエリコへ下って、エリコは海抜マイナス244m、エルサレムの北東およそ26kmに位置する。エルサレムは海抜762mであるため、エリコへの道は長い下り坂であった。水平・直線距離でおよそ20km。
祭司・・・律法学者、祭司はモーセの兄弟アロンの子孫に属する(民18:20〜32)、律法により、死体や怪我人の血に触れると汚れる事を、祭司は恐れていた。汚れれば、再び神殿での任務に戻るためには清めの儀式を経なければならない。レビ人は神殿で祭司たちを補佐していたが、同じように汚れる事を恐れた。
サマリア人、サマリア地方出身の者たち。サマリアはエルサレムの北部の地域。イエスの時代、ユダヤ人とサマリア人はお互いに不信感を抱いていた。サマリア人はゲリジム山に神殿を持っていて、祭司もおり、また、律法に基づいた独自の律法の解釈をしていた。
油とブドウ酒 は、イエスの時代、薬でもあった。オリーブ油は癒やしの儀式に用いられた(ヤコブ5:14)。

「誰がこの強盗に襲われた人の隣人になったと思うか」と主イエスは質問されます。隣人は、あれだ、これだと言うようなものではありません。あの人、この人といって限定する類のものでもありません。そこに居る、ここに居ると言えるものでもありません。ユダヤ人もサマリア人も、互いに触れることも、触れられることもイヤなのです。嫌悪して来ました。それがこのように関わることになってしまいました。掟破りです。

主イエスの譬の中でもルカ福音書特有のものであり、傑作とされています。
何故マタイにはないのでしょうか。マタイは、祭司、レビ人、律法学者に対して批判的です。彼らの言行不一致を責めます。その点からすれば、これはマタイ的な感じがします。それにも拘らず採用されていないのは、これがそれほど律法学者、祭司に対して批判的ではないと考えられ、受け止められていたのではないでしょうか。
「誰が、この怪我をした人の隣人になったか」。「あなたも行って同じようにしなさい」。
これだけなら、同じようにしない人たちへの断罪の物語になってしまうのです。
これは、マタイ福音書の姿勢です。

そもそもこの譬が語られた発端は、「永遠の命を受けるために何をしたら良いか」という問でした。何が出来た、出来る、だから何かを与えると言うのは「ギブ・アンド・テーク」でしかありません。そこには福音は存在しない、と考えます。

 主イエスは譬を用いて、福音の、もっともっと深い内容をお話になったのではないでしょうか。それまで人々が、聴いた事もないような驚くべき事を、喜びの知らせを。
すなわち、隣人になりなさい、ということだけならば、旧約律法がすでに教えています。しかしその抜け道を探し、言い伝えを作り、有名無実にしてきました。表面的には掟を守り、裏では掟を破り涼しい顔をしてきました。存外、その事を気に病んでいたかもしれません。

 そこで主は言われます。
あなた方が、何かをすることで「永遠の命」を得ることが出来るなら、それは隣人となる道です。しかし、それはすでに崩壊した、というのが皆さんの現状でしょう。この譬は創造主なる神が、このあなた方を、このように愛してくださっていることの表れなのです。あなたがたの破れを主なる紙はすべてご存知です。その故に愛してくださるのです。

使徒書の日課はローマ12:9〜21、キリスト教生活の規範と小見出しにあります。
愛の実質化、それが、キリスト教生活の規範です、となります。
何かを否定するだけでは、物事は進みません。
肯定的に、積極的に考え、実行することが必要です。
愛される愛を越えて、愛する愛、積極的な愛が求められます。
律法を本当の意味で守ることが出来なかった人間に、新しく要求しているのでしょうか。
ここで語られているのは、自分がどれ程愛されたかを知っている人の生活です。

最終的には、自分を神の座に立たせないことが重要です。人は誰でも、自分が偶然であっても何かをすることが出来ると、それを基準に出来なかった他の人を裁くようになります。出来る、出来ないで人を裁いてはなりません。皆、神の前では「五十歩、百歩」です。
赦された罪人なのですから。
本日は教団の定めた「平和聖日」です。平和は隣人となることから始まる、という考えだと理解します。しかし、それすら出来ないのが現実です。アジアの諸国と、近隣の人々と、家庭内の者と困難を抱えています。共に、神に愛されている者として一緒に神の前に立つ、ひれ伏す思いが必要なのです。       祈りましょう。