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2007年7月15日

《キリストの心》

説教者:
牧師 持田行人
聖書:
ルカ福音書7:36〜50

台風4号が列島南岸を通過中です。大阪直撃、と予測され、心配しましたがそれました。しかし、西の各地で土砂崩れなど多くの被害をもたらしています。かつて、私たちの国では、「治山治水」が政治・まつりごとの核心でした。気象に対応して被害を防ぐようにすること、市民生活を守ることこそ大事なことでした。今は自分たちの利益を守る政治・行政になってしまいました。その人たちと一般市民が同列にあれば、自分の利益を守ることが、市民を守ることになります。ところが、自分たちは特別に安全な所に納まっているのですから困りものです。市民の苦しみは判らないのです。セミの哀しみも分らないでしょう。
 今年は7月の第一主日の朝、セミの抜け殻を見つけました。会堂玄関の上にセミがとまっていました。以来、毎日のように抜け殻は見てきました。でも静かです。鳴き声が聞こえません。昨日は、柿の木の下に、セミの羽が落ちていました。小鳥に食べられてしまったのでしょう。土の中からようやく出てきて、鳴く間もなく、死んで行く。哀れだなーと感じます。

先ず旧約の日課サムエル記上24:8〜18を読みましょう。
油注がれイスラエル初代の王となったサウル、主なる神の忌避するところとなり、王位はエッサイの子ダビデに与えられることになった。まだイスラエルの民は知らない。
そうした時、サウルに仕えていたダビデはサウルの勘気に触れ、逃亡者となる。
やって来たのはエン・ゲディ、ここは死海の近くにあるオアシス、「子ヤギの泉」の名の通り、ヤギなどの野生の動物が集まる泉がある。冬も暖かく、水が豊富で、熱帯性の植物が多く育つ。香料用のバルサムが有名である。
サウルの上着の端(スタディバイブルより)
上着は持ち主の権威を現した。ダビデはサウルやヨナタンから上着を与えられている(17:38,39、18:4)。また預言者エリヤの権威は外套を通じてエリシャに継承された(王上19:19、王下2:13,14)。ここでダビデは、上着の端を見せて殺すことも出来たと示しながら、王を尊ぶ故にそうしなかったと言っています。

 このところは、最近木曜会で読んだばかりです。そのときにも感じたことですが、まるで歌舞伎か文楽でも見るような感じだ、ということです。文楽でも歌舞伎でもそこでは、人間世界の決まりごとと、その中で苦しむ弱い人間たちの心の動きが描かれます。聖書はそこで神の正義を示そうとします。すなわち、何が神の心に受け入れられることか、その点を中心に据えるのです。サウル王に対するダビデの義理立て、とも見えることも、実は神が真に尊ばれるために何をするか、という問題なのです。
 今サウルを殺すことも可能だ。
しかし彼は、どのような状態にあろうともひとたび神に選ばれ、油注がれ王とせられた人である。それを殺すというのは、神の民のなすべきことではない、と考え行動しました。
神のご計画を第一とする信仰と申せましょう。
 ダビデは、このことの結果をどの様に考えたか、それは分りません。しかしイスラエルの歴史家は、神中心の行き方がもたらす神の恵みを見つめていたことでしょう。ここで神に油注がれたサウルを尊重することで、ダビデは弱肉強食、下剋上というような多くの王国を見舞った惨状から逃れることが出来たのです。
神のご計画を第一とする生き方には、神の恵みがもたらされます。

ついで、先ほどお読みいただいた福音書を学びましょう。
ルカ7:36〜50、この7章には、多くの奇跡が記されています。ルカ福音書特有の「罪深い女の赦し」がここに置かれているのは、これも実に奇跡である、との主張ではないでしょうか。罪が赦される事は奇跡なのです。

食事の作法は民族や時代によって変化します。古代ユダヤ人がどのような作法を持っていたか、よく知りません。それでも主イエスの時代は、当時の世界帝国ギリシャ・ローマの慣わしを受け入れ、横になって食事をしていたことが知られています。日常というよりは、特別な機会、宴会、饗宴というような機会でしょう。左脇を下に横たわり、右手を使って食事を摂ります。主イエスもこの時このようにしておられたようです。後ろから近寄った女性が、主のみ足に香油を塗りました。
高貴な客人を招いた場合などは、その頭に香油を注ぎ、足を洗って差し上げるのが主人側の務めでした。しかし、この場合、主イエスに対してそのようなことは何もなされていません。それほどの客とは考えられていなかったのでしょう。しかしこの女性にとっては事情が異なりました。彼女は、この町で「罪深い女」として知られていました。ある学者は指摘します。「彼女は有名人、この町の大半の男をお得意様としているのだから」と。
知られてはいても、この席に正式に招かれるようなことはありません。どの様にしてか入り込みました。ただイエスに仕えるためです。
涙で足をぬらし、髪の毛でそれをぬぐい、足に接吻して油を塗りました。
「香油の入った石膏の壷」、これは単なる石膏ではありません。エジプトの遺跡からたくさん出土しているアラバスター、雪花石膏のことです。加工しやすく、柔らかで美しいす。

ファリサイ派の人も、この女性を知っています。この人の名はシモン、イエスに対し好意的なファリサイ派の人は少なくありません。ルカは11:37,13:31,14:1などでその姿を描いています。同時に、イエスを預言者と考えており、そうであれば、この女が穢れていることが判るはず、と期待しています。イスラエルの律法は、穢れは他のものに感染する、と規定します。穢れた女に触れられる事は避けなければなりません。
 ファリサイ人シモンは、この女性がイエスに触れないようにすることも出来たはずです。
このあたりがファリサイ人たる由縁でしょうか。穢れた罪人とは一切の交渉をせず、自分の清さを保とうとします。

そしてファリサイ人は言います。この女は罪深いもの、イエスが預言者ならそのことが判るはずだ、と。そこで、主は、ファリサイ人シモンに一つの譬を話されます。
ある金貸しが二人の人に金を貸しました。一人は500デナリオン、もう一人は50デナリオン、借りました。1デナリオンは、労働者一日分の賃金に相当します。30デナリオンあれば、健康な男子の奴隷を一人買えました。二人には、到底返済できません。そこで金貸しは二人の借金を帳消しにしてやりました。
これを話されて、イエスは質問されました。「彼らのうちどちらが多く愛するだろうか」。
ファリサイ人シモンは答えます。「多く帳消しにしてもらったほうです」。

 ここでは少しばかり難しい文法上の、そして翻訳上の問題があります。それを省略して、本日の主題に即して、結論を申し上げることにします。

この女性は、罪の女とされました。そのことに対し、この女は何も言いません。ただ涙ながらにイエスの足を洗い、油を注ぎました。この人は、自分にはイエスに触れる何の資格もない事を承知しています。同時に、それが許されている事を知っていました。彼女はイエスを愛しました。あふれる涙で足をぬぐいました。この愛は、神の愛の顕れです。
この行為によって何かが与えられる事を求めているのではありません。ですからイエスは、この女に「あなたの信仰があなたを救った」、とおっしゃるのです。この信仰という文字、言葉をある人は「信」と訳そうとします。あるいは「信頼」。すでに愛され、赦され、救われていることへの信頼です。

 ファリサイや私たちの考えは、何か良い事をすれば赦され、救われるだろう、というものです。主イエスは言われます。この女は何もしないのに赦された事を理解し、信頼し、感謝をもってイエスに仕えたのだ、と。キリスト・イエスの心が私たちに呼びかけています。この女に学べ、と。

 そして、父なる神は、罪人の罪を赦す事を実現されました。それこそがキリストの心です。罪人を指弾するよりは、その赦されている事を共に喜びたいものです。
ピリピ書2:5(文語訳)汝らキリストの心を心とせよ。
感謝しましょう。