聖霊降臨節第3主日、子どもの日・花の日、
讃美歌11,169,290、交読文22(詩95編)
聖書日課 サムエル下7:4〜16、使徒2:37〜47、詩編133:1〜3、
70年の安保闘争は教会に癒やしがたい傷を負わせました。
社会的には団塊の世代がそのさなかにいました。
その頃まで教会は、伝道を考えるのが当然のことでした。
この時を境に、教会が数の事を口にするのは罪悪であるかのように言われました。
教会も、社会も、その方向性を見失いました。現代に至るまで漂流中です。
一冊の本が出版局からでました。同志社香里高校の宗教主任、教務教師富田正樹の書いた『信じる気持ちーー初めてのキリスト教』です。書店員から、よく売られている、と聴きました。購入してみることにしました。
その後、教団議長の名で、この本の出版差し止め要請が、出版局宛に出されている事を知りました。いつの時代でも禁書になると売れるものです。議長と局長は神学校の同級生です。どちらも牧師の二世です。
最近では遠藤周作の『沈黙』がそうです。教皇庁は意思表示をしなかったようですが、保守的な神父、司祭は信徒がこれを読む事を禁じました。そうした指導にも拘らず、よく読まれました。ローマ教会も決して一枚岩ではありません。元々寄せ集めの日本キリスト教団は、もっと多様な考えを持った集団です。
この本『信じる気持ち』は、初めての人がよく抱くキリスト教、聖書に対する質問に答えようとするものです。疑問を持つのが当たり前、ということと、それに合理的に回答しようとしています。
奇跡は合理化したら信仰の対象ではなくなってしまいます。その点で、この書は余りいただけません。しかし出版差し止めを要請するほどのものでしょうか。少し神経質になりすぎのように感じますし、思想・信条の自由、言論・出版の自由に対して冷水を浴びせる効果がありそうです。宗教団体はしばしば最も保守的になります。考えには多様性があります。恐らく出版局名で出版すれば、教団の信仰の立場を誤解される、と考えたのでしょう。しかし出版局は、宗教法人たる教団の出版事業であって、その必要を満たし、「かつ広くキリスト教出版事業に協力する」、と規定されています。
キリスト教出版とは何か、という問いもあります。キリスト教保育、キリスト教学校、と同様に考えておきましょう。キリスト教の信仰に立つ、という意味です。自由を狭く解釈する時、自縄自縛になります。様々な立場を認める、と今まで言ってきたのです。拒絶ではなく、広く協力し、論議なさっては如何なものか、と感じます。私も、もっと勉強しましょう。
いろいろな考えがある、その中でひとつの教団、一個の教会である、というのはどういうことでしょうか。ひとりの主を拝するとは、一体どういうことでしょうか。
使徒言行録2:37〜47
46節には、信じた者たちは「日毎に一致して神殿参りに熱心であり」と記されています。
またこの一団は、神を讃美し、すべての民から好意を獲得していました。
初めの教会は、この点で一致していたのです。時間と共に様々な疑問や、考えの違いが出てきました。それを超えるために信条が生み出されました。古ローマ信条や使徒信条です。
それ以前の教会は、何を信じていたのでしょうか。この使徒言行録が編集された時代には、すでにかなり内容のある信仰箇条があったようです。36節はそうした信条でしょう。
「だからイスラエルの全家は、はっきりと知っておくが良い。神は、この方を主ともキリストともされた、あなたたちが十字架につけた、このイエスを」。
それ以前、パウロやペトロの時代にも、キリスト讃歌のような形のものがありました。フィリピ書2章などが有名です。それらの大本はマタイ16:16でしょう。
玉出教会は、ディサイプル教会の伝統を受け継いできました。主日毎の聖晩餐執行、浸礼、新約聖書・無信条を重んじる。そして万人祭司、個人の自由、会衆主義などがその伝統です。実は、人の考え、人間の主義・主張を重んじる所から教派に分裂した、という反省を持っていますので、会衆主義と言う言い方は矛盾します。余り用いたくありません。
信条に関しても、無信条主義と言うこともありますが、むしろ特定の信条、告白を基準にして、それ以外の信仰を排除することはしない、ということです。そこで「無信条を重んじる」と申しました。このときの信条は、マタイ16:16「あなたこそ生ける神の子キリストです」というペトロの信仰告白です。
最もシンプルな信仰告白で一致することで、初代の教会は満足しました。共に礼拝を捧げました。それ以外のことは問題としませんでした。
サムエル記下7:4〜16、ここには預言者ナタンの言葉が記されています。
イスラエルの王として揺るぎない権力を手中に納めたダビデが、ヤハウェの神殿を建てようと考えたことに対するものです。
ダビデは考えました。すでに自分のための王宮は建てた。いよいよ神殿を建てよう。
全能の神ヤハウェは、ダビデとその子孫への恵みを約束します。しかし神殿の建築は、ダビデから出る子供がそれを実現する、と言われます。そしてソロモンの神殿となります。
神殿については、何故地上に神の住居が必要なのか、という疑問があります。それについては、すでに多くの時代の多くの人が答えようとしました。
マカバイの時代、次のように考えていたことが第二マカベヤ書に書かれています。
「神は全能であり、地上にどのような住居も必要とされないが、恵みをもってイスラエルを選び、その内に宮を建てる事を許された」。
王宮という自分の棲家を建てる事を許される人がいます。彼は神の宮、神殿を建てることは許されませんでした。神殿を建てる事を許された人は王宮を建てることは出来ませんでした。
ダビデは武人・軍人であり、多くの人を殺しているために、神殿を建てる許しがなかった、と説く方がおられます。だから礼拝堂の建築も罪人には許されないのだ、と続きます。
ダビデは悔い改めた罪人として知られています。主はダビデを受け入れ、最後まで王として支えられました。
ここにあるのは、使命の多様性です。
神が悔い改めた者を受け入れることは、最初に読まれたルカ福音書に記されます。
ルカ福音書14:15〜24 盛大な宴会のたとえ
同じ章の12節以下では、宴会への招待の仕方をお話になっておられます。
お返しをすることの出来ないような人たちを招きなさい、と。これを聞いた人たちは、その宴席を神の国のものと理解したようです。そのことは15節から知られます。
「神の国で食事をする人は、何と幸いなことでしょう」。
それに応えるように、主はひとつの譬を話されます。
大勢を招いて、準備を整え宴会が開かれます。ところが招かれた人は、理由を付けてお断りします。怒った主人は、町や広場から、貧しい人、からだの不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人を連れてこさせます。これは14:13にもあります。当時の社会の「失格者」に相当します。後二者は神殿に入ってはならぬ者たちとされていました。こうした人々が家一杯になるほど連れてこられます。そして、すでに招かれていたのに拒絶した者は、どのような言い訳も許されず、神の国の食卓に与ることは出来ません。
告白の多様性、使命の多様性は許されています。大本での一致が必要です。しかし神の国の食卓に招かれている時、それを拒絶すると、もはや機会はなくなります。食卓は、交わりです。すべての人が招かれています。招きに応えるのは信仰です。
信仰の告白における一致と、多様な生活が生み出す豊かな交わりが与えられています。
今私たちは、この幸いな神の国の食卓を先取りして聖晩餐に与ることが許されます。 感謝しましょう。