前週は《命のパン》、荒野でイスラエルが神から与えられたマナと甦りのイエス・キリスト。
本日はその続き、「私が命のパンである」というイエスの言葉を含み、《神の子の自由》が主題になります。神の子とは誰でしょうか。わたしたちは、イエスこそ神の子である、と承知しています。信じています。同時に私たち一人一人も神の子とされています。さてここでは、どちらが意味されているのでしょうか。ご一緒に学びましょう。
わたしたちは、お米を主食としています。それが伝統です。
戦後日本は、子どもたちの栄養補給のため、給食を行ないました。
国内の農業生産、市場が回復していなかったこともあるだろう。アメリカからの小麦や乳製品を主体とするパン給食でした。食生活が一変してしまうことになりました。その子どものスタイルだけではなく、成長後、新しく形成される家庭の食生活はそのスタイルでなされるようになります。継続的に食生活が変化し、食の文化は再構成される必要性を生じました。アメリカにとっては、生産過剰になった農業産品の市場が確立されることになりました。まるで、昔の植民地政策と同じです。敗戦国でした。
何か余分な事をお話しているようですが、このところでは、何故パンなのですか?という質問が出てきます。主の祈りでも同じです。「吾らの日用の糧を境も与えたまえ」、ギリシャ語で、トン アルトン ヘモン トン エピウーシオン ドス ヘミン セーメロン。
アルトンはパンを指します。そうすると、お米を主食とする国民は、祈ることが出来ないではないか、となります。
そこで、主の祈りは、日本語を少し変えて「糧」としました。パンよりは良いでしょう。
パンという言葉は、主要な食料を意味していました。主食です。この言葉は、私たちを驚かせるものをもっています。普通は、主要な食、と理解します。読み方によっては、漢文式ですと「食を主とする」となります。食の奴隷となっている。テレビのグルメ番組、ある種の料理番組などは、食が主で、人の生活は背景にもなっていないか、と見えます。
「人は食べるために生きるのではない、そうではなくて生きるために食べるのである。」
Wir leben nicht umzu essenn,sonndern essen umzu leben. Sokrates
旧約聖書では、このような食の奴隷の姿は、殆んど見られません。
そこにいるのは、生きるために必死で働く奴隷の姿です。本日の旧約に出てくるのは、そのような奴隷の状態にいたイスラエルの人々です。奴隷には主人がいます。奴隷は主人のもの、所有するものです。主人の命じるところを忠実に遂行しなければなりません。言われた事をどの様に理解し、判断するか、などということは問題になりません。言われた事をそのとおり実行することが大事です。
申命記7:6〜11をお読みしましょう。ここに書かれていることは何でしょうか。
神は奴隷のイスラエルを選び、エジプトから引き出し、ご自身の宝の民とされた。それは、彼らが何か素晴らしいものを持っていたからではない。彼らが何も持たないゆえ、貧弱であったからである。
イスラエルをエジプトから引き出された方こそ、真の神であり、主と仰ぐべき方である。
子の神を愛し、その戒めと掟を守るものには、千代にわたって契約を守り、慈しみを注がれる。
イスラエルは、エジプトのファラオの奴隷であることから解放されました。しかしヤハウェの掟と戒めに無条件で従うよう求められています。ファラオの奴隷から解放されて、ヤハウェの奴隷とされたのでしょうか。この問いに対しては、どちらの奴隷であるほうが良いか、という反問が備えられます。勿論同じ奴隷であるならば、愛に満ちたヤハウェの奴隷のほうがよいに決まっている、という答えになります。
「宝の民」という言葉は、出エジプト19:5から考えれば宜しいでしょう。
「全ての諸民族の中から(選ばれて)わたしにとって宝となる。」
悲惨な奴隷が、神の慈しみにより宝とせられる。奴隷が屑だ、とは考えられません。しかし、決して宝とも考えられません。それなのにその奴隷の民を、神は宝として、見てくださっているのです。
このあたりの事を、パウロはガラテヤ書の中で語っています。新約日課を読みましょう
ガラテヤ3:23〜4:7です。
奴隷ではなく、神の子である。アブラハムの子孫、つまり相続人です。
御子の霊を、「アッバ、父よ」と呼ぶ霊を心の内に送ってくださったのです。
これを読むと、私たちがファラオではなく、罪の奴隷になっていたことが出発点である、とわかります。キリストの十字架は、私たちを罪の手から買い戻してくださいました。これが贖う、という言葉の意味です。
そして甦りの主の霊は、「アッバ、父よ」と呼ばせてくださる力がある、と言われます。
アッバ ホ パテール、アラム語とそのギリシャ語訳です。お父ちゃん、というような砕けた、親しみある言葉だといわれます。神との新しい関係は、親しく呼び合うことが出来るようなものです。
当 時の日常語アラム語が、そのまま残されているのは、数少なく、それはたいてい、非常に重要な言葉、印象が強かったため残された、と教えられた事を思い出します。
アッバは、ロマ8:15に用いられています。そして大事なことは、主イエスご自身、マルコ14:36で用いておられることです。ゲツセマネの祈りの中です。
「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願う事ではなく、御心に適うことが行なわれますように。」
この印象が強いために、パウロもそのまま用いているのでしょう。
罪の奴隷のままでは、お父さんと呼びかけることは出来ませんでした。今や交わりは、回復されました。奴隷と主人でもありません。父と子です。相続人の関係です。ここでは子は、父の心を、意志を、計画を全て知っているものとされます。
わたしたちは、神のご計画を知っているでしょうか。
初めに読まれたヨハネ15:12〜17をもう一度見ましょう。
神の子イエス・キリストの言葉が記されています。ヨハネ6:34〜40とあわせると良く判ります。主イエスは、世の人々を愛された。それによって私たちは愛を知った。
主イエスには使命があり、そのために遣わされた。それは御心を行なうため、御心は、与えられた人を皆、終わりの日に復活させることです。
6:40「私の父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」
確かに神の御子として、イエスは、神の御心をすべてご存知でした。そして今、わたしたちにその知る所をお伝えくださっておられます。
主は言われます。私が天から下ってきたのは、自分の意志を行うためではなく、わたしを遣わされた方の御意志を行うためです、と。これが主イエスの自己理解です。あのゲツセマネの祈りにも顕れています。神の子は自由です。その自由を、父なる神に仕えることに用いました。私たちも自由を与えられています。罪から自由になりました。この自由をどのようなことに用いるのでしょうか。ガラテヤ4:13、
「兄弟たち、あなた方は、自由を得るために召されたのです。ただ、この自由を、に区に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。」
パウロのこの言葉の元になるものが、ヨハネ15章です。互いに愛し合いなさい。
私たちの自由は、このためなのです。
いつもこの言葉を覚えて行きたいものです。