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2007年4月15日

《心が燃えていた》

説教者:
牧師 持田行人
聖書:
ルカ福音書24:13〜35

歳月の過ぎることがことの外、早く感じられます。ソメイヨシノは散り急ぎ、八重咲きは今を盛りと咲いています。山吹にも白い花がつきました。少年の頃、中々お正月が来なかったものです。待ちわびている頃は、来ない。来なくても良い頃になると早く来てしまう。とかく人の世のことは、侭ならぬものです。

列王記下7:1〜16、旧約聖書もこの辺は判り易いほうでしょう。福音的な内容という点では判りにくいかもしれません。サムエル記上は、預言者サムエルからサウル王の死まで。
下巻は、ダビデが統一イスラエルの王として活躍。
列王記上は、ダビデの晩年の紛争とその死、ソロモンによる王位継承とその生涯が11章まで。死後、王国の分裂となります。北10部族はヤロブアムを王とし、南2部族はソロモンの子レハベアムを王とします。
預言者エリヤからエリシャへの交代が王上22章と王下1,2章に記されます。列王記下は25章までですが、その最後はバビロン捕囚となっています。この流れの中で列王記下7:1以下を読みます。預言者エリシャの時代です。4章初めから8:15までは、エリシャの奇跡物語です。殆んど、師匠であるエリヤの奇跡の反復になっています。両人の一体性を表現しているのかもしれません。実際は、エリヤの奇跡をエリシャにも書き加えることで、彼が獲得した政治的権力、指導力の原因を示そうとしている、と考えます。
預言者の務めは、神の言葉を伝え、広め、世を従わせることにあります。
神の言葉は、創世記の初めを読むと分かるように、神の意志・秩序を指します。
おおよそ預言者が活躍するということは、その時代がたいへん乱れていることです。

イスラエルの王はヨラム、その頃アラムと戦っていました。アラムはイスラエルの北方。現在のシリアに相当します。モアブと言う名も出てきます。これはイスラエルの東、ヨルダン川、死海の向こう側になります。ついでに、エドムはモアブの更に南です。
強力なライバルに包囲され、北王国のサマリアは陥落寸前。城の中は飢餓に見舞われ、酷い状態。ところがその只中でエリシャは預言します。
「明日の今頃、城門で上等の小麦粉1セアが1シェケル、大麦2セアが1シェケルで売られる」。1セアは7,7リットル、1シェケルは11,5グラム。
恐らくこれはアラムによる攻囲、サマリア包囲戦以前、また飢饉ではない時の、通常の市場価格でしょう。この預言は、たいへん厳しい戦況を見ている人たち、もはや最後のときが近いと考え、望みを失っている人たちに明日はこの戦争は終わっている、と告げるものです。ヨラム王の側近・侍従は、これを信じません。するとエリシャは告げます。
「それを見ても、自分で食べることは出来ない」。
ここで、重い皮膚病を患う者4人が登場します。彼らは城の中に居場所がありません。城門の所に座って、わが身の不運を嘆いています。そして、アラム軍に投降する事を決意します。悲痛な決心です。「生かしてくれるなら生きることが出来る。殺すなら死ぬまでのことだ」。ところが、夕暮れの陣営内には、誰もいません。その事情は6,7節にあります。
 
『源平盛衰記』や『平家物語』に、富士川の合戦が記されています。平惟盛率いる平家の大軍と源氏の軍が対峙します。水鳥の羽音におびえた平家が逃走し源氏の大勝利となる、という出来事です。似たようなことは、洋の東西を問わず起こるもののようです。「あると思うと、実際には何もない所にそれを見てしまう」と言うことです。逆もありましょう。

それを知らせに来たのは病人です。誰も信じようとはしません。人間の経験が、そのようなことは起こりえない、と教えてきたのです。それでも人を派遣することにしました。
 知らせの通りでした。信じられないようなことが現実になったのです。救いが起こりました。誰が救ったのでしょうか。

ここに記されていることは、イスラエルの不義、不信にも拘らず、神が救いをお与えくださった、ということです。


今朝の福音書は、有名な「エマオ途上のキリスト」です。
レンブラントは、この主題で大小二種の銅版画(エッチング)を残しているようです。彼は、宿屋で食卓を囲む三人の姿を描きました。イエスの頭の後ろからは光が放射されています。レンブラントらしい光と闇の扱い、でしょうか。
フランスのルーブル美術館収蔵品の展覧会は、何回も開かれています。そのうちの一回で、これを主題とした絵画を観たことがあります。確かギュスタブ・クールベ、だったはずです。背の高い木々がそびえ、その下を抜ける道を歩む三人の男性。熱心に何事かを語り合う様子、木の葉から射し込む陽の光、その木の葉の色が素晴らしい。顔も服も緑に染まりそうな感じがしました。すっかり虜になりました。大学生になった頃だとおもいます。その後、機会があるごとにクールベを観ました。ある保育所の薄暗い階段下にかけられた小さな風景画を観た時の驚きは、今も忘れられません。
「アレッ、クールベに似ている。でもこんな田舎の、小さな保育所にあるはずがない」。
でも念のため、園長に頼んで机の上に持ってきて頂きました。額の裏には10年間のほこり。丁寧にそれを払い、静かに絵を取り出しました。本物のクールベ。フランスの画商の証明らしきものが附いていました。前園長は医師であったそうですが、長く勤められて、お辞めになる前にフランスへ旅行され、パリで土産に買ってきてくださったそうです。
そして辞任され、間もなく、亡くなられたそうです。その後、この絵は、玄関ホールに飾られるようになりました。幼児の情操教育に役立っていることでしょう。

 クールベは、歩きながらイエスと話をしている様子を描きました。光が溢れています。
レンブラントは、薄暗い室内でイエスを認識し、光を見出した様子を描きました。光と光。
二人の弟子は、急いでエルサレムへ帰ります。二人は道々語り合います。
「主が聖書を詳しく説いてくださった時、私たちの心の中で何かが燃えたではないか」。
我が心うちに燃えしにあらずや、これが文語訳です。何が私たちの心を燃やすのでしょうか。この心が感動に熱くなるのはどのような時でしょう。思い出してください、あの若き日の事を。愛の物語、愛の出来事こそ、心を打ち振るわせるものでした。主が説いてくださったことはこれです。
 
数年前から、キリスト教は追体験の宗教だ、という事を強く感じるようになりました。
出エジプトを、主の十字架を、甦りを、エマオ途上の体験を、追体験しようとするのです。
土曜日を安息日としていたのに、それを日曜日に変え、礼拝の一日としたのは、甦りを記念し、それを追体験しよう、とするものです。その礼拝の説教は、主がお語りくださったことの追体験になる事を願っています。心が燃える事を目指すのです。パン裂きと杯は、十字架の苦しみと、贖われた命の記憶であり、追体験です。

二人は、エルサレムに入り、11人と仲間たちに、事の次第を話します。
先に11人の者たちが、自分たちの経験を話します。
本当に主は復活された。直訳調にすれば「まことに主は起こされた」。受身です。
言行録2:24「しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました」。自分の力ではありません。神の力がなさったことです。そしてシモンに現れた。

二人も自分たちの体験を語ります。道すがら、心が燃える事を感じたと。またパン裂きの折、主であることが判り、そのお姿は見えなくなった事を。何も説明は出来ません。
事実起こったことでした。主は死の底から引き起こされたのです、と。

 今、私たちもこの知らせを聞きました。これを受け入れるところに信仰があります。
キリスト・イエスが私の罪の贖いとなってくださったこと、新しい命の初穂、魁となってくださったこと、これを信じ、感謝いたしましょう。
礼拝ごとに十字架と甦りを追体験することが出来ます。讃美しましょう。これを重んじようではありませんか。