本日で、教会暦に基づく聖書日課での説教は一年を終えることになります。当初一年間を予定しました。しかし、教団の暦は2年を一サイクルとしていますので、折角始めたことだから、もう一年間続けることにしました。与えられた聖書の箇所と定められた主題ではフラストレーションがたまる思いもあります。一方、全国の諸協会と同じ所を読み、学びつつある、という受け取り方もできるわけです。恵みと望みを分かち合うことが出来るように努力いたします。お付き合いください。受難節第五主日の主題は、《十字架の勝利》です。聖書の箇所は、年によって変わります。ある年は、マルコ10:32〜45、三度目の受難予告と、ヤコブとヨハネが栄光を求める記事になっています。旧約はヨブ31:33〜37です。
次年度、同じ主題の下、どのような聖書の言葉が与えられるのか、楽しもうではありませんか。
さて本日の最初は哀歌です。よく「エレミヤの哀歌」と呼ばれます。七十人訳聖書がそのように呼びました。エレミヤが書いたものではありませんが、その環境、思想、言語が共通している、と言われます。哀歌とは、嘆きの歌、哀しみ悼む歌です。何を哀悼するのか、というのが一つの問題です。
その答えは、神の都エルサレムとその神殿が、穢され、破壊された事を嘆くものです。そして、それが神の憐れみによって新たにされる、という希望が語られます。そのためにこの書は、受難週の礼拝で朗読されることが多いようです。哀歌の背景には、イスラエルのバビロン捕囚があります。
分裂後のユダ王国は、BC597年、バビロニア帝国の支配に反旗を翻しました。前年598年、王位についていたゼデキヤは、586年、遂にバビロンへ連れ去られます。多くの指導者、軍人、祭司、職人が一緒でした。狙いは、ユダの軍事指導者、軍需品の生産者を断つことでした。神殿の備品は奪われ、バビロンへ戦利品として運ばれました。神殿は破壊されました。列王記下25章に記されています。哀歌は、この状況の中で、エルサレムを、神殿を悼む悲しみの歌です。
歴代誌下35:25には、エレミヤの哀歌について書かれていますが、これはエルサレムの都についてではなく、ヨシヤ王の死を哀しむものです。
第1章は、2,4章と同じくエルサレムを失った悲しみが歌われます。
かつては多くの人々が群れ集い、栄えたこの町、この都、今は誰も顧みようとしない。
主が懲らしめるために、敵の跳梁跋扈を許し、苦しみを与えさせた。
エルサレムの破壊は偶然の賜物ではないのだ。イスラエルの深い罪に対する神の罰だ。
その故に、荒廃に任せ、病み衰えさせる。
哀歌のこの段階では、神は顧みられないでしょう。人は、敵の暴虐に目を留めてください、とは言うが、自らの罪を深く悔いるところまで進んでいないのです。
受難節に何故読まれるのか、理解できるようになります。他者の罪ばかり取り上げ、指弾するが、自分のことには目を瞑り、視線をそらす私たちの姿が明らかになるためです。自分は正しいと言い張り、むしろ神に責任をなすりつけようとしている私たちを見出すためです。受難節、レントに相応しい態度は、神の前で、徹底的に自分の罪を告白することです。それは聖晩餐のとき、なされているはずのことでもあります。
罪を認める、というのは、難しいことです。辛いことです。そうしたわたしたちに与えられるのは、ヘブライ人への手紙5:1〜10です。新共同訳に従えば4:14から始まります。
405ページをお開きください。
日課は5章からですが、小見出しは4:14から『偉大な大祭司イエス』としています。
この所に記されているイエスの姿は、実に慰めに満ちたものです。わたしたちは、自分の罪を認めがたいものである、とお話しました。ところが主イエスは、そうした私の姿、その心の奥深くまで理解しておられる、同時に体験してくださっている、というのです。
私たちが神の前に進み出るとすれば、それはどうしても裁きを受けるときとなります。しかし、この主イエスが居られるゆえに、裁きの座は、そのまま恵みの座になってしまう不思議さがあります。裁き即赦し、ということが起こるからです。ここに福音があります。
この大祭司イエスの特徴は、5章を始めヘブライ書に詳しく語られています。
一般の祭司、大祭司は毎年、生け贄の家畜を捧げて、繰り返し、繰り返し民の罪の許しを嘆願します。それに対して、御子イエスは、唯一度、ご自身を生け贄としてお捧げになり、永遠の救いを完成なさいました。これがすべての人のための福音です。私の罪の重荷を、私に代わって担ってくださった方が居られる。良い知らせです。自分の罪を認めることがないと、これは良い知らせにはなりません。認める前に、主はすでに身代わりとなってくださいました。
この流れの中でルカ福音書20:9〜19を読むとどうなるでしょうか。同じ記事がマルコ福音書12:1〜12にあります。昨年10月22日の夕礼拝で、これを説教しています。
内容は記憶していません。印刷してみました。同じことはとてもお話しできません。
同じように説教していてもその文脈が違うからです。
今朝の文脈の中で読むと、悪い僕たちは、自分の罪を認めようとしない人間たちとなります。自分の欲望を正当化し、何も悪いことはしていない、規則にのっとって処理しているだけだ、と言っているようなものです。自分の働き分を自分のものにして何が悪いのか。
ここから出て行ったのだから、帰ってこなければ良いのだ、と言わんばかりです。
相続人が死ねば財産は我々のもの、この息子を殺してしまえ。凄まじいたとえ話をされたものです。このような事件が人々の口に上っていたのではないか、と想像してしまいます。主人は彼らを滅ぼし、ぶどう園は他の者に与えられます。
この譬は、律法学者や祭司長たちに向けて語られました。彼らこそこの農夫なのです。彼らは、委ねられた神の国を自分のものにしようとしました。律法や祭儀を利用して、自分の利益を図り、民衆を苦しめました。彼らは、言われた内容は理解しました。しかしそれによって変わることはありませんでした。御子イエスを十字架につけて殺す彼らは滅ぼされます。ぶどう園は、罪人、徴税人、異邦人に与えられます。
ある人々は、イエスは権力抗争に敗れた敗北者である、と言います。
敗北の徴である十字架が、何故、勝利となるのでしょうか?
多くの人の人生行路を照らす光となり、道しるべとなるのは何故でしょうか?
ドイツの哲学者ニーチェは、キリスト教は弱者・敗者の復讐の宗教だ、と語りました。
敗北したイエスが救い主となる事を指したものに違いありません。二―チェはイエスを理解はしたが、知ることはありませんでした。聖書は読んでも、イエスの福音と出会うことはなかったのです。
また、1970年代、ドイツの民衆は「神は死んだ、と言ったニーチェは死んだ」と、壁に落書きしました。ドイツの教会は長く低迷していると言われます。信仰を失い、無神論化したといわれます。しかしそのドイツ人が、です。
キリストの福音には大きな逆説が潜んでいます。
棄てられた者が高く挙げられ、侮られ、鞭打たれた者が敬われ丁重に葬られました。
罪人の一人とされ、刑死した者が神の子とされ、最も力弱い者と見られた人が他の誰にもない大きな力を発揮して、すべての罪人を救う者となりました。人間の力がイエスを十字架につけました。それは同時に神の救いの計画でした。その故に神の力が勝利するのです。
福音はこの逆説、負けるが勝ち、の中にこそあるのです。
自分の罪を直視し、御前で告白しましょう。知ることは変わることです。
哀歌はその3:22、23に記します。「我らの猶滅びざるは、ヤハウェの慈しみにより、その憐れみの尽きざるによるなり。こは朝毎に新たなリ」。あの頑固なイスラエルもようやく罪を認め、悔い改め、神の恵みを讃美しました。神の恵みを讃美し、感謝を捧げましょう。