集会のご案内
所在地・交通
教会のあゆみ
牧師紹介
教会カレンダー
教会暦・行事
説教ライブラリー
フォト
リンク集
玉出教会 説教ライブラリ [一覧へ戻る]

2007年3月18日

《主の変容》

説教者:
牧師 持田行人
聖書:
ルカ福音書9:28〜36

本日は、先ず旧約の日課を読みましょう。出エジプト34:29〜35です。
シナイの山で十戒の刻まれた石の板二枚を受けたモーセは山を降りてきます。その顔の肌は光を放っていました。モーセの内側から出てくるものではありません。彼が持っている光とは考えられません。それは神の栄光の輝きであり、それを反射しているのです。
余りにも強い光なので、覆いを掛けます。その光に人々が曝されないためです。同時に、光が次第に衰えて行くのを見せないためであろう、とも言われます。

栄光(カーボード)は、重い(カーベード)という言葉に由来し、主の栄光は目に見えない神の輝かしい臨在と尊厳を指し示す。

新約の福音書日課は、ルカ9:28〜36。これは、第一回の受難予告から8日ほど経った時のこと。古代の数え方では基点を翌日ではなく当日に置くので、現代なら7日目となります。マルコ9:2では6日後とあり、ルカはそれを変えたものと考えられます。

変貌山の記事として知られています。弟子の中から、三人が連れられて行きました。
ペトロ、ヨハネ、ヤコブの三人です。この三人の名は、イエスの重大事件の折には、いつも見られます。会堂司ヤイロの家に入り、その娘の癒し、蘇りを目撃したのもこの三人です(ルカ8:51)。最初の頃の弟子だからでしょうか。
しかし、その時選ばれ、招かれ、弟子とされたのは二組の兄弟、四人だったはずです。ゼベダイの子ヤコブとヨハネ、シモンとその兄弟アンデレでした。マルコ1章16節以下にあります。このアンデレは何処へ消えてしまったのでしょうか。共観福音書では、弟子とされたことしか記されません。第四福音書では重要な働きをしています。
 
ヨハネ1:35以下では、アンデレはヨハネに従う者で、ヨハネの言葉に従ってイエスに従い、自分の兄弟シモンに『メシアに出会った』と告げ、イエスの所へ連れて行きます。
またヨハネ6:8にも名前が出てきます。主イエスが5000人に食べ物を与える際、その基になるパンと魚を持っている少年を見つけて、報告したのがアンデレでした。
 彼はイエスの甦りの後、遠くスキタイまでも伝道した、と伝えられます。最期は、ギリシャのパトラスでX型十字架に掛けられ、殉教の死を遂げます。遺体はコンスタンティノープルに運ばれ、葬られました。現代まで、コンスタンティノープルとスコットランドの守護聖人とされています。

山上の変容、それはイエスの顔の様子が変わり、その服が真っ白になったということです。父なる神の栄光の輝きを反映したのです。
先ず、この山は何処にあったのか、という疑問があります。その名が書き残されなかったのは、名前や所が判っても意味はない、ということでしょう。好奇心かもしれません。私たちは、この心に湧いた質問に答えが出ないと、いらついたり、先に進めなくなったりします。簡単に答えを出しておきましょう。シナイ山、ホレブ山は否定されます。タボル山説がありました。当時ローマ軍の要塞があったことが判明し、これも否定されています。
今では、ヘルモン山という説が有力です。これはシモン・ペトロが信仰告白をしたピリポ・カイザリアの北2,4キロにあります。出来事の流れにも沿ってくるようです。高い山です。
頂上とは考えません。

様子が変わっただけではありません。ふたりの人モーセとエリヤ、この二人と語り合いました。この二人について、スタディ版は次のように記します。 
「モーセはイスラエルの歴史の中で非常に重要な人物。神はエジプトでの隷属状態からイスラエルの民を導き出すためにモーセを選んだ(出3:14)。シナイ山で神と出会った後、モーセの顔は光り輝いていた(出34:29,30)。イエスのように、モーセとエリヤは、神の民に新しい生き方を教える指導者として選ばれた」。エリヤについては何もありません。
エリヤは、列王記上に登場する偉大な預言者です。預言者の代表です。そしてモーセは、律法の代表と考えられています。彼らは何を話したのでしょうか。

31節には、「二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた」とあります。ここには注意を惹かれる言葉が用いられています。
最期、という言葉です。ギリシャ語聖書ではエクソダスという語です。
ご存知でしょうか。昔『栄光への脱出』というポール・ニューマン主演の映画がありました。第二次大戦後、1947年のイスラエル建国の物語でした。1960年の作品、アカデミー音楽賞受賞。その原題は、エクソダスです。英語聖書の目次を見ると、同じエクソダスがあります。旧約聖書の二番目、出エジプト記がそれです。ギリシャ語訳聖書でも同じです。エクソダスは、脱出、旅立ちを意味する言葉です。これを用いて、イエスの十字架の死を表現しています。
イエスはエルサレムで、脱出を果たそうとしておられるので、モーセとエリヤはその事を話し合っていたのです。十字架の死を経て、復活の栄光へ向かって旅立たれるのです。それはまさしく『栄光への脱出』に他なりません。旧約で示された神のご計画を、イエスが果たそうとされているのです。

一方、弟子たちを見ると、彼らは随分眠かったがそれをこらえた、と記されます。
言語の意味では、眠らずに起きている、の意味と、はっきりと醒める、の両義があります。
どちらの訳も可能ですが、眠気をこらえた、と訳すと、夢中忘我の出来事のようにもなります。むしろ、はっきり目醒めた時に、はっきり見た、と考えたほうがよさそうです。
お師匠さんであるイエスが、偉大な二人の指導者と一緒にいる、話をしている、弟子たちは何が何だか判らないが、これは大事なことだ、と感じます。

ペトロは無我夢中で言います。「先生、仮小屋を三つ建てましょう」と。
 これは、自分の体験を固定化しようという人間心理によるものです。主イエスご自身は何もお答えになりません。しかし、雲の中から声が聞こえます。
「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」。マタイ3:17で、バプテスマを受けたイエスに聞こえた声、その言葉とよく似ています。詩編2:7にある言葉です。王の即位の式に用いられてきました。ということは、イエスこそ王として即位されるにふさわしい、という事の確認がなされたのです。
 
日課から離れますが、興味深いところを読んでみましょう。?ペトロ1:16以下です。
437ページです。
ペトロが書いたものではない、とされるが、ペトロの報告を基にしたものに違いない、と感じます。主イエスとご一緒した体験が語られています。
「わたしたちは、聖なる山にイエスといたとき、天から響いてきたこの声を聞いたのです」。

 響いてきた神の声は、十字架で最期を遂げるイエスこそ、神の愛するひとり子、選ばれた王である事を承認しています。モーセとエリヤが話していた事を神が確認しています。
主イエスの変容、変貌山の出来事は、主イエスの十字架が、神の栄光を受けることである、と確証し、宣言する意味を持っています。受難の出来事によってこそ、イエスは主キリスト、救いの主となられるのです。