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2007年3月4日

《悪と戦うキリスト》

説教者:
牧師 持田行人
聖書:
ルカ福音書11:14〜26

 もう3月になりました。朝8時、玄関のうちに立ちました。外から小鳥の鳴き声が聞こえました。あれ、鶯かな?きっと牧師館の庭に入るだろう、と考え、窓際に立ちました。
案の定、塀を越えて飛んできました。石灯籠の上、下、バラ、アジサイ、山吹、椿、下のほうをせわしく動きながら小さな鳥が飛び回りました。一度だけ、ホーホケキョ。
なかなか鶯の姿を見ることは出来ません。人の怖さを知らないのかもしれない、などと考えていました。それにしてもこいつは春から縁起が良いワイ、というところでしょうか。

本日の旧約聖書の日課は、創世記6:11〜22です。これは「ノアの洪水物語」の初めの部分です。「箱舟物語」と呼ぶことが多いのですが、今回に限り、あえて「洪水物語」をとります。《箱舟を造りなさい》と題して2005年7月24日に説教しています。

スタディバイブルの解説部分には、次のことだけが記されています。
「ノアが使った木の種類は確かではない。ここで箱舟に当たるヘブライ語は箱を意味し、赤ん坊のモーセを救うために、隠して川に流された籠と同じ言葉である(出2:3〜5)。ノアの箱舟は、現代のサッカー・フィールドの、約1,5倍の長さである。」

「1アンマは約45cm。通常ひじから中指の先端までの長さ。」
長さ300アンマ、幅50アンマ、高さ30アンマ。それぞれ135メートル、22,5メートル、
13,5メートルとなります。
舟のことはもっともっと話したくなります。でも今日は封印します。

本日、この創世記を読む時、私たちはその全体ではなく、主題「悪との戦い」に焦点を絞らなければなりません。そこで注目するのは、11節以下です。13節までお読みします。
「すべて彼ら(肉なるもの)のゆえに不法が地に満ちている。見よ、私は地もろとも彼らを滅ぼす」。 これは同じ章の5節を受けています。
「主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって、地上に人を造った事を後悔し、心を痛められた」。
 神に創られ、命の息を吹き入れられて生きる者となった人間がなんと言うことでしょうか。神が御覧になって「たいへん宜しい」と言われたのにこのような状態です。
「その心に思い計ることはすべて悪しきこと」。そんな馬鹿な、と言いたいところです。
人は良い事をしているつもりで、悪い事をしてしまいます。悪いこととは何でしょうか。

ルカ福音書に進みましょう。「ベルゼブル論争」の箇所です。それより前の部分、
9:46〜48には「いちばん偉い者」という小見出しがつけられています。
弟子たちが、仲間のうちで誰がいちばん偉いか、議論したことが描かれています。
これもひとつのベルゼブル論争、内輪の争いであろう、と考えます。

スタディバイブルの解説部分には、このようなことがありました。
「ベルゼブルはカナンの神の名で、バアルの君、力の主を意味する称号に由来する。ヘブライ人はその名を「蝿の主」と言う意味のベルゼバブと呼んで皮肉った(マタイ9:34参照)。悪魔(サタン)は神と神の民に敵対する勢力の指導者。」

イエスが悪霊に憑かれた人を癒やされている。それを見たイスラエルの人々は、イザヤ書35章の預言が成就された、と感じて喜びます。「メシアが到来した」と。
しかし違う考えの人々も居ます。ファリサイ派の人たちです。
その一方、彼らも悪霊つきを癒やしていたようです。19節で主イエスが質問されます。
「あなたたちの仲間は何の力で追い出すのか」。
あるいは、しるしを求める人たちもあったようです。目の前で行なわれた不思議なことのために、更にしるしを求める。一体何を考えているのでしょうか。

 目の前で起こっている事を認めることが出来ない、という時、そこには何かご都合の悪いことがあるに違いありません。アメリカの前副大統領が『不都合な真実』と言う本を出版し、映画にもなりました。何か、オスカーを受けたようです。読んでいませんので、内容については何も言えません。それでも、この題名はとても良いと感じます。世界の現状に対する人間の現状を明らかに示しています。
 
主はお答えになります。
ひとつは、内輪もめしていたら家でも国でも、成り立たないでしょう、ということです。
悪霊の頭が配下の悪霊を駆逐するようなことはしないもの、出来ないことです、と言われます。次は、「あなたたちの仲間」の問題です。主が悪霊の頭により頼んでいるなら、それによって力ある業が行われている事をどの様に考えるのか。お仲間も同じ力悪霊の頭によっていることになりますよ。
更に、今ここに「神の国が到来しています」と宣言されました。群集の声を主は認められました。権威あり、とされている人々の声ではなく。
 そして言われます。23節、「私に味方しないものは私に敵対し、私と一緒に集めないものは散らしている」。キリスト・メシアの到来に際し、人は誰でも旗幟を鮮明にしなければなりません。世間的にはシンパと言うことも成り立つでしょう。しかし神の側からは判然と分けられる、ということです。敵でないものは味方、味方でなければ敵。
本物と偽者が厳しく分けられます。そこで?ヨハネ4:1〜6をよみましょう。
「偽りの霊と真理の」霊を見分けると題されています。
「吟味しなさい」、?コリント12:10?、コリント13:5、?テサロニケ5:21などが記憶に残ります。ここでは「神から出た霊であるか否か確かめなさい」と言われます。
偽預言者が大勢世に出て来ているから、しっかり確かめる必要があるのです。

偽預言者という言葉が非常に良く出てくるのはエレミヤ書です。
彼らは、偽りの預言をする者です(5:31)。また、欺くものです(6:13)。
ヤハウェによらずバアルによって預言します(2:8)。平和がないのに「平和、平和」と言います(8:11)。民の破滅を手軽に癒やします(6:14)。

真の預言者は、ヤハウェによって語る者、民の破滅、その傷を明確に指摘し、困難な道を示す。すなわち、真の神ヤハウェに立ち返る道を勧めます。

預言者は、イスラエルの民を導く者ですから、その意味で彼らは牧者・羊飼いです。するとエゼキエル書34章の牧者の姿を見ることが求められます。その2節を読みましょう。
「災いだ、自分自身を養うイスラエルの牧者たちは。牧者は群れを養うべきではないか。
お前たちは乳を飲み、羊毛を身にまとい、肥えた動物を屠るが、群れを養おうとはしない」。
自らは豊かな生活を楽しみながら、その民の苦しみには心を貸そうとしない。
これこそ、悪霊の働き、神に敵対することです。

30数年前、私が結婚するときに父が私に言った言葉を思い出します。
「結婚のプレゼントに車を買ってやろう。どんな車でも好みがあれば言いなさい。ただし外車はやめなさい」。そして当時発売されたばかりの「トヨタカローラさんまる」を買ってくれました。新車に乗るのは初めてでした。そして最後です。その後は乗り換える時期が来ると、たいていどなたかが牧師の仕事にお使いください、と言われて、提供してくださいました。今もそうです。アウディは外車ですが、暫くお預かりしているだけです。ノンクリスチャンの父には、牧師が信徒よりも良い車に乗ると言うことは論外のでした。ところが肝心の牧師の側にその感覚が欠けてしまうことがあるかもしれません。そのとき、自分のために羊を食い物にすることが始まっているかもしれません。これも偽預言者の姿。

 さて結論です。何故、主イエスは悪霊を追い払おうとされるのでしょうか。悪霊はどのような働きをするでしょうか。口が利けない、目が見えない、手足を不自由にする。すべて悪霊の働きとされました。そしてその結果、神を呪うようにします。このことは、ヨブ記1〜3章の間で明らかです。そればかりではなく、神から引き離されてしまいます。礼拝に共に集うことが出来なくなります。汚れた者、罪人と一緒にされてしまいます。
悪霊の働きをもう一つ。人間が、自分の欲する事を第一とするようになることです。
神のみ名を拝するよりも、創造の秩序に従うよりも、自分の快感を求めることです。
自分を神とすることに通じます。
 
悪霊を追い払う結果、そこに現れるのは、神を讃美する者たちです。律法学者やファリサイの人々は、この喜ぶべき事を拒絶しようとしました。自分たちの権威を護るためです。
不都合な真実だったのでしょう。
 
主イエスは悪霊を追い払い、この人々を礼拝者の群れに連れ戻したことになります。
悪霊の支配からご自身の命によって買い戻されたのです。罪人を悪の諸力から買い戻すこと、それが贖罪です。だからこそ、群衆は神の救い主が到来したと信じたのです。

私たちは、この世界内で、神の御業をたくさん見つけることが出来ます。讃美します。それを「違う、間違っている」と言う人たちも居ます。そうしたとき、信仰をもって、神の業、と宣言することが求められています。そのために必要な知恵と力も与えられています。感謝しましょう。