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2007年2月25日

《荒れ野の誘惑》

説教者:
牧師 持田行人
聖書:
ルカ福音書4:1〜13

  先週の水曜日が「灰の水曜日」。この日から日曜日を除いた40日間を主イエスの御受難を偲ぶ期間、克己と抑制の期間とされます。何故40日なのでしょうか?
先ず頭に浮かぶのは、主イエスの荒野の誘惑です。30歳になって主は公生涯に入られます。
その最初の出来事が荒野の誘惑でした。悪魔によって、荒野を40日間に渡って引き回され、三回の試みをお受けになられました。この40日間を、御受難を偲び、克己する時としたのでしょう。
 もう一つ考えられるのは、出エジプトのイスラエルにちなむ40日、40年です。
エジプトを脱出したイスラエルは、40日の旅の後、エリコの町を望むところまで来ました。
物見に出された者たちは、この町の人々に恐れをなし、報告します。あの町にはかないそうもありません、と。主なる神の命じることと反対の事を選び取ることでした。
 その結果、神は今後荒れ野をさまよい暮らさねばならない、とされます。それが40年間の放浪でした。40日間で到着できたのに、更に40年間放浪することになりました。
これにどのような意味があるのでしょうか。
第1は、懲罰です。神の命令に従わなかったイスラエルに対して、神は怒りました。
第2は、イスラエルを訓練することです。神を主と崇め、神の民となるように訓練されました。人間は嫌な存在です。訓練されて、もう大丈夫だろう、と見極めたようでもそれを裏切るのです。繰り返し、繰り返し裏切り、目先の利益に熱中してしまいます。自分にとって都合の良い事を選び取ってゆくのです。不都合があれば、切り捨ててしまいます。そして何らの心配もしません。モーセは律法を授けられるとき、シナイ山に40日40夜とどまりました(出エジプト24:18)。民を指導する準備・訓練でした。
第3は、救いの恵みです。列王記上19:8には、預言者エリヤがアハブの迫害から救い出された様子が記されます。「四十日四十夜歩き続け、遂に神の山ホレブについた」。

キリストの試練を想う四旬節は、神に背く民である事を自覚するとき、神の救いの恵みを思う40日間、そして神の民となる訓練の40日間、これがレントです。
そのためでしょうか、第1主日に学ぶのは「荒れ野の誘惑」です。
ルカ福音書では、第3章にバプテスマの記事があります。21,22節です。
バプテスマを受け、祈っていると聖霊が鳩のような形でイエスの上に降ってきた、とあります。この聖霊に満たされた状態でサタンの試みに遭われます。この福音書の記者は、非常に聖霊を大事にしています。主イエスも、試みに遭われる時、御自分の力だけで対抗することは困難でした。神の力である聖霊の助けが必要でした。人を生かす神の力が聖霊です。その聖霊がイエスを連れ回し、悪魔の試みを受けるようにされたのです。

 第1の試みは、パンに関わるものです。
人間の欲望のうち最も強いものが食欲です。誰でも空腹には勝てません。
昭和20年代の初め頃、敗戦国日本はたいへんな状況でした。戦時中から続く食糧難。配給されるものだけでは必要な栄養を摂取することが出来ませんでした。物々交換や、闇ルートで食糧を手に入れました。それらは不法行為、法律を破ることでした。それを承知の上で、大多数の人は闇で食糧を手に入れました。法律を破る事を良しとしなかった裁判官は上のため栄養失調となり、死亡しました。同じ次代、多くの母親は、子どもに食べさせるために自分の食を減らしました。
「彼は空腹を憶えた、飢えた」、簡潔な表現です。その根底には、飢えの苦しみがあります。その中でイエスは答えられました。
「人はパンだけで生きるものではない」。申命記8:3の言葉です。これを読むことは簡単です。しかし、これを言うこと、理解することは困難なことです。飢餓の恐ろしさを知る者にとっては、とりわけ困難です。悪魔は経済的メシア像を示しています。
主イエスは、聖書の言葉をもって対抗・拒絶されました。申命記では、次の言葉が続きます。
「人は主の口から出るすべての言葉によって生きる事をあなたに知らせるためであった」。

 第2の試みは、悪魔を拝することでした。
全世界が一望のうちに示され、その栄華と権勢がお前のものになる、と言われました。
難しいことではない。ただわたしの前でひれ伏せばよいのだ、と言います。日本人としては簡単なことと感じないでしょうか。私たちは簡単にひれ伏してきました。他所の御宅に参上した時、正座し、ひれ伏してご挨拶したものです。30年以上前になるでしょうか、旧いお宅を訪問したとき、嫁に行ったお嬢さん方が居られてご挨拶してくださいました。その父親が厳しく仰ったことがあります。
「あなた方は、座敷で正座している方に、立ったままでご挨拶するように学びましたか」。
私より年長のお嬢様方でした。やり直しました。
ところがこのような習慣は西洋人にとっては異様なことなのです。明治期日本にやってきた西洋の人は、平伏する挨拶を見て戸惑った、と書き残しています。あのような身分関係を表す挨拶は、とても耐えられない、と。ひれ伏すことは服従することです。
 主イエスは、悪魔に対し、御言葉をもって拒否を伝えます。申命記6:13です。
相手が違うよ、と言って宜しいでしょうか。
「あなたの神、主を畏れ、主にのみ仕え、その御名によって誓いなさい」。
権力的メシア像に対する拒絶です。

第3の試みは、実に神を試みることでした。
悪魔は賢い存在です。創世記3章に蛇が登場し、アダムとエヴァを誘惑します。
そこには、このように記されます。
「主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった」。
この賢さはずるがしこさである、と言われます。試みるものは、試みられるものよりはるかに賢いことが多いのです。
 主イエスの試みで悪魔の賢さは、神の言葉を用いて誘惑することになって現れます。
詩編91:11「主はあなたのために、御使いに命じて
     あなたの道の何処においても守らせてくださる」。
それに対しても、主は御言葉をもって対抗されます。
御言葉こそ、いつでも、何処でも、最高の攻撃の武器、防御の武器になります。
 エフェソの信徒への手紙6章は、悪魔の策略に対抗する神の武具を書き記します。その17節「そして霊の剣、すなわち神の言葉をも取りなさい」。

 そうです。主は、あらゆる時に御言葉をもって勝利されました。悪魔は、どれ程賢くとも、御言葉の前では勝利することが出来ません。

旧約の日課は申命記6章14節、「他の神々、周辺諸国民の神々の後に従ってはならない」。
唯一の神を拝し、それ以外のどのような力にも従ってはなりません、ということです。

私たちも様々な形で試みを経験します。目の前に誘惑が現れます。何故でしょうか。
神は誘惑を排除なさることがお出来になるはずです。それにも拘らず、私たちを誘惑に曝されます。神の聖霊が私たちを連れて行かれることもあります。そのことが明らかにされているのです。意地悪ではありません。
 私たちが、試練に打ち勝って、神の民として成長する事を求めておられるのです。その力を持っている、与えられているのです。誘惑に負けるとき、それは私たちのうちにある欲望が負けさせるのです。御言葉を置き去りにして、自分の力で勝ちたい、と思う心があります。悪魔が付け入る隙になります。

 使徒パウロは、ローマ書10:8以下で「神がイエスを死者の中から復活させられた」と信じ、口に言い表すものはすべて救われる、と書きました。
この言葉こそ信仰の言葉なのです。霊の剣になる御言葉です。主は私たちの罪の贖いを成し遂げてくださいました。
さきがけとして復活されました。
復活などないぞ、という悪魔の囁きに対抗する神の力ある言葉です。
ここに希望があります。