元々、この日は東方教会で降誕日として守られていました。
祝祭日の交換が行われ、西方教会の降誕日12月25日を受け入れ、1月6日は公現日として守るようになりました。英語ではエピファニー。訳して、顕現祭、栄光祭です。
公に現れる、とはどのような意味でしょうか。
ひとつは、嬰児イエスがベツレヘムの飼い葉おけで、東から来た学者たちにその栄光を顕された、というものです。
もうひとつは、主イエスがヨルダン川のほとりで、ヨハネから洗礼をお受けになり、公生涯にはいられた時です。
日本基督教団の教会暦と聖書日課は、前主日を「博士たちの礼拝」にあて、本日を「洗礼」にあてることで、必要な学びが出来るようにしたのでしょう。
聖書は、当時のイスラエル民衆の動向を記します。「民衆はメシアを待ち望んでいた」、「ヨハネがメシアではないかと心中考えていた」。メシアの到来を待望するより外に考えようがないほどに、当時の状況が苛酷なものであった、と判ります。その頃、ユダヤはヘロデ大王の死後、四つに分けられ、それぞれの領主がいました。3章初めの「領主」はこうした事情に基づきます。その上にローマ帝国が君臨し、皇帝の代理者たる総督が権力を振るっています。ユダヤの神は、その憐れみ深い本質とは違って、律法と祭司たちの厳しい要求を通して民衆の生活に関わり、それを耐え難い苦しいものにしていました。いつの時代でも同じことが起こります。幾重にも取り立てられる税金、働くことを許さない掟、異教徒の支配。物心両面の重圧となります。
中国には『苛政は虎よりも猛し』という言葉があります。
ある一家が虎のすむ地域にすむようになった。彼らは厳しい税の取立てを逃れてこの地にやってきた。虎に食い殺されるかもしれないが、あの取立てよりましだ。
今、夕張市の政治・行政が問題になっています。大勢の市民が、ここでは生活が成り立たない。他所へ行きたいけど、そのための資金すら持っていない。
これは夕張だけの問題ではありません。日本全国何処へ行っても同じような問題にぶつかるでしょう。長年にわたる自民党政治の付けがやってきました。アメリカの軍事費を負担する政治・外交的配慮。補完する自衛隊装備。いつの間にか立派な潜水艦部隊が出来ている。装備・弾薬の備蓄。国防というが、現在の水準でどれだけの期間戦えますか。1週間か、10日間。1ヶ月は無理です。アメリカが助けに来る。無駄なことはしません。
その間にどれ程の人間が死ぬことでしょうか。
今、戦争をするための準備をしています。護るに値する国にすることが第一です。戦争準備をするこの国には未練はない、という人が大勢います。残念なことに大部分の国が同じことをしています。逃れて行く所がありません。消極的だけど、次の世代はもっと苦しむことになるから、それを造らないことにしよう、という抵抗を考えるのです。
少子化の問題の根っこは非常に深いのです。この国は、次の世代を残すのに値するか否か、問われるのです。
世界が混乱すると、秩序をもたらすものが出現するように期待されます。
家が貧しくなると親孝行な子どもが出ることを期待するようなものです。
国家・社会が窮乏すると、国を救う英雄の出現を求めます。英雄待望論です。
現代日本は、すでに、そうしたものが現れることを諦めてしまったのかもしれません。諦めるほど長いこと、酷い政治状況が続いて来たとも考えます。
それでもユダヤの民は幸せでした。その歴史の中で、繰り返し、その国を、その民を救う者、メシア、油注がれた者が現れましたから。
ヤコブの息子ヨセフ、出エジプトのモーセ、士師のギデオン、サムソン、預言者サムエル、サウル、ダビデ。預言者エリヤ、エリシャ。マカベヤ家の人々。
そしてイザヤ、エレミヤが預言しました。その預言は、それを聞いた人々がまだ生きているうちに成就しました。メシア預言は遠い先のことかもしれないが、固く信じられていました。そして紀元30年ごろの苛酷な状況の中で人々は、あのメシア預言が成就するのは今、に違いないと信じていたのです。
このような人々に、ヨハネは告げました。預言されたメシア・キリストは私ではない。
そもそもヨハネは、ルカ福音書15〜25で祭司ザカリヤとその妻エリサベトに、予告されて生まれてきた子どもでした。年老いたアブラハムとサラの夫婦に与えられた子どもイサクと事情が似ています。そして1:36はマリヤに対して告げています。「あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。・・・もう6ヶ月になっている」。
み子イエスより6ヶ月年長の親類の子どもがヨハネです。
ヨハネの働きは、ルカやその他の福音書でも、僅かばかりしか記されていません。彼には弟子がいた、と記されています(ヨハネ1:35)。多くの支持者もいたようです。どのような働きかは判らないまでも、彼が有力な人物であったことは間違いありません。
民衆のメシア期待に対して、ヨハネは否定することしか出来ませんでした。狡賢い人、権力亡者であれば、黙っているかもしれません。ヨハネは義につく人です。間違っていることに対して沈黙しようとは考えませんでした。事柄の真実を告げました。
私は水でバプテスマを授けた。それは悔い改めのバプテスマです。
私は先駆者、行列に先立って走り、到来を告げ、相応しい備えをするように告げる者。
間もなく到来する方は、較べることが出来ないほど優れた方である。
その方は、聖霊と火でバプテスマを授ける。
18節を見ると、「ヨハネは、ほかにもさまざまな勧めをなして、民衆に福音を告げ知らせた」とあります。どのようなことを告げ知らせたか、判りません。それでも、ここに記されたことが、ヨハネの告げた福音、良い知らせ、の核心部分であることはわかります。
ヨハネは、先駆者として、到来する方を告げ知らせました。その方は聖霊と火でバプテスマを授ける方です。しかしここでは、ヨハネからバプテスマを受けます。イエスの受洗。
話が逸れますが、じゅせん、という言葉についてお話します。先ず元の言葉、バプテスマについて。これは浸す。という意味を持ちます。一部分ではなく、その全体をどっぷり浸すこと、これがバプテスマです。形はわかりません。水の中に歩み入らせる、立ったままを倒し、横たえる。水の中に立たせ、上から満遍なく水潅ぐ。これはバプテスマを受ける「じゅせん」です。授ける「じゅせん」があります。これを混同しないようにしましょう。聖霊と火によるバプテスマは、直訳すれば、聖霊と火に浸す、ということになります。
イエスのおられるところでは、すべての人の心にある思いが顕れ、ある者は麦の殻と看做され、消えることのない火で焼き払われるでしょう。またある者は、豊かに結実したものとして穀物蔵に納められるでしょう。これがヨハネの福音です。
混乱した時代でした。評価も一定せず、神の視点ではなく人間的な視点から判断されました。どれだけ賄賂を持ってくるか、どれ程熱心であるか、自分の利益になるか否か、そのような基準で評価され、力のないものは無視されるような時代でした。
愛と公平という神の正義が基準となり、正しく評価される、これはヨハネが先駆者として、予告したことです。愛と公平と義に飢え渇いていたその時代の人々にとって、これは良い知らせでした。福音でした。
イエスは、ヨハネからバプテスマを受けるに当たって「今は受けさせて欲しい」と言われました。一時しのぎの言葉ではありません。そうすることが、神の御旨に適うことですから、と言われたのです。やがて判るご計画があります。全き人の子としてお生まれになった方が、聖霊を受けて、やがて神から棄てられる神の愛するひとり子とせられたのです。
言行録10:38は告げます。「ナザレのイエス、神は、聖霊と力によってこの方を油注がれた者となさいました」。油注がれた者、メシアであり、キリスト。世の罪を救う者です。
これが最初の教会の信仰告白です。宣教内容です。感謝して受け継ぎ、伝えて行きたいものです。