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2006年12月17日

《先駆者》

説教者:
牧師 持田行人
聖書:
ルカ福音書1:5〜15

 アドヴェント・クランツのローソクも、3本目に灯が点されました。4本目に灯がともると、次はクリスマス。12月25日を迎えます。教会はこの期間を浮かれ騒ぐ事ではなく、心の奥深くから喜び迎えるように、心備えをするように整えてきました。
一方では、主の到来は突然のことだから、目を覚まして、その日、その時を迎えようとするものです。
他方、この時は神のご計画の中で、長い間準備されてきたものです。神のご計画の時が満ちて、この人の世に惹き起こされた恵みの出来事なのです。

 そのことを聖書的に裏付けているのが、救い主に先立って到来する先駆者の存在です。
ルカ福音書1:5以下は、祭司ザカリアとその妻エリサベトに示された不思議なことです。
ユダヤのヘロデ大王の時代に、ザカリアという名の祭司がいました。妻エリサベトは、アロン家の血筋の娘でした。二人は、神の前に正しい人、掟と定めを全て守り、非の打ちどころがなく、誰からも祝福されていました。それなのに、彼らには子どもが生まれませんでした。
祭司は聖なる者とされ、清く、神の祝福を受けている、と考えられていました。
子どもは、神の祝福のしるし、いないのはどこかで罪を犯しているなどと考えられました。
冷たい視線や、陰口も受けました。悲しい日々でした。彼らには何も非はありません。
望みを持ち続け、長い年月が過ぎ去り、もはやこれまで、と諦めた頃のことです。
 
ザカリアは、その務めに関わるくじを引いたところ、「主の聖所に入って香をたくことに」なりました。祭司は大勢おります。年に一度程度しか神殿で働く機会は与えられません。
そのとき、誰がどの務めをするか、くじ引きです。晴れがましい仕事や、裏方のようなこともあります。聖所に入れる、これは胸ときめかすような仕事です。ザカリアは、自分の様な者にこの栄えある仕事が与えられるとは、と驚いたことでしょう。そればかりでなく、この務めを立派に果たそう、と張り切って心のうちに誓っていたに違いありません。
その日、ザカリアは香をたいていました。大勢の民衆は外に立ち、待っています。香をたく壇の右に御使いが顕れました。驚くべきこと、恐ろしく感じられることです。御使いは告げました。「恐れることはない」と。
そして、妻エリサベトが男の子を産むこと、ヨハネと名付けなさい。その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。更に多くの人もその誕生を喜び、彼は主のみ前に偉大な人となる、と告げられました。
 ザカリアは驚きました。すでに老齢であり、人間的に考えれば不可能事だからです。
そのようなことは、起こるはずがありません。これがザカリアの胸中の思いです。

御使いはご自分の名を明かします。ガブリエル、スタディバイブルはこのように説明します。「ガブリエル  この天使はダニエル書で、ダニエルに幻を理解する知恵を与える使者として、聖書では初めて登場する(ダニ8:15,9:21)。」

御使いのことばを、人間の経験や知恵・知識によって信じることが出来なかったザカリアは、「このことが起こるまで、口が利けなくなり、話すことが出来なく」なります。最も誇らしいこと、伝えたいことを話すことが出来ない。ザカリアは随分苦しかったことでしょう。神殿の外にいた民衆は、無言のザカリアを迎え、聖所で幻を見たことを悟ります。しかし、残念ながらその内容は知ることが出来ません。
 
 この出来事の背後に、アブラハムとサラの物語の影響を見ます。創世記18章と21章。
その上、サムエル記上1章、エルカナとハンナの物語も影響しているものと考えます。
イサク、サムエルの誕生物語はよく似ています。
こうした幾つかの出来事は、クリスマス物語への道筋を作っているのです。
神の長いご計画の時間があることを、わたしたちに告げているのです。偶然のことではありません。あなたがたの生まれる前から、もっともっとずーっと前から、神が計画なさったことだ、と告げられているのです。

本日の旧約の日課はゼファニア書です。恐らくあまり読まれることのないところでしょう。日課の利点は、そのようなところにも触れることが出来ることにもあります。
スタディバイブルに書いてあることを、幾つかご紹介しましょう。

ゼファニア3:14〜18、ヘブライ語で「主は守る」という意味の名を持つゼファニアは、
四代前の先祖まで記されている唯一の預言者である。彼の活動は、ユダの王ヨシアの治世(前640−609)の初期と推定される。ナホム、エレミアと同時代。
ゼファニアの主要な預言は二つある。
一つは「主の日は近い」ということである。ユダの民は、苦しみの中にあっても神を求め、礼拝するようにと人々に訴えた。そうするならば、恐ろしい滅びの罰を免れることが出来る(2:3~15)。
二つ目は、不正を行なわず、喜び叫ぶ新しい民を神が興すというものである。神は新しい民に勝利を与え、神の愛で民を新たにする。戦いに破れ、捕囚となっていた民はユダに帰らされる。彼らはもう一度エルサレムで神を礼拝するようになり、他の国々は彼らに対する神の祝福を見るようになる(3:13〜17)。

3:14 シオン・・・エルサレム。シオンはエルサレムの丘のこと。詩文ではエルサレムとその住民、あるいはユダの民全体を指して使われることもある。エルサレムはユダ王国の首都。
3:17 喜び楽しみ。神はエルサレムに対して憤り、民を罰したが(1章)、今やエルサレムを愛し喜ぶ。

この日課は、福音書と同じように、神の救いの計画が長い時間の中で進んでいることを示しています。

新約聖書の日課は?テサロニケ5:12〜24です。これは13あるパウロの手紙のひとつ、最初に書かれたものと考えられています。スタディバイブルの説明です。
?テサロニケ5:12〜24、まだ教会が組織化されない頃の信徒たちの集まりへの勧告であるが、特に16〜22節は成立過程にある教会への勧告文書の一部だったと考えられる。
5:19霊の火を消してはいけません。 ?コリント12〜14にある聖霊の賜物を参照。
5:21 全てを吟味して、キリスト者だけが神からの幻や特別な言葉を与えられているのではないことをパウロは知っていた。キリスト者にとって、彼らが聞いた全てのことは、パウロが教えたことと一致するかを確かめ、吟味することが重要であった。
文脈からすると「良きもの」が吟味の基準であった。
 5:23平和 これは、心の平安や争いからの解放以上のものである。それは、幸福の感覚を持つことや信徒の間の不一致を正すことも含んでいる。
    霊も魂も体も 霊(プニュウマ)は神へ向けられた生命の根源。魂(プシュケー)は生まれながらの生命。体(ソーマ)は肉体と理解できる。

 ここでは、救いの完成を待ち望むものは、如何に生活するか教えようとします。
と言うよりも、すでに救い主が来られた今、終わりのときに向かってどのように進むか、記され、語られている、と言うべきでしょう。これによって、またも、待降節の二重の意味が強調されます。嬰児イエスの降誕と、甦りのイエスの来臨です。救いの始まりの時と、救いの完成の時、と言っても良いでしょう。
 
 始まりと完成の間を生きる者、それが私たちです。
救いの計画は、救われる者に関わる計画です。救いの恵みが明らかにされることであり、
私たち一人びとりに深く関わることです。ここに福音、よき音信の響きを聞きます。

 感謝して祈りましょう