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2006年8月20日

《家族》

説教者:
牧師 持田行人
聖書:
マルコ福音書10:13〜16

マルコ福音書10章は、幼児教育に関係する者たちの間では有名なところ。
主イエスによる幼児への祝福場面です。入園式や祝福式など、何回も読んで頂きました。
その割には、この言葉に基づいて、お話しするということは少なかったように記憶します。
主イエスのお側に、子どもたちを連れてこようとする親たちがいました。弟子たちがそれを叱ります。深遠な真理を学ぼうとしている時、その所に子どもたちとは、何たることか。
これが弟子たちの考えであり、今日の私たちの考えでもあるのです。ごく普通の考えです。しかし、主イエスのお考えは、何時でも私たちの意表をつきます。
 「神の国はこのような者たちのものです」。
このすぐ前の部分、9:34が告げています。弟子たちは「誰が一番偉いか」と論じていました。主がご自身の受難の死と復活を預言された直後に、神の国で主の右と左に座るのは誰だろうか、と論じていたのです。
 それに対しては、真理の知識をどれほど獲得したかの問題ではありません、と答えられます。そうではなくて、どれ程神の御支配を受け入れているか、ということです、と応えておられるのです。マルコは、子どもを美化することを、注意深く避けているようです。
水っ洟をたらし、泥に汚れた子どもを考えた方がよさそうです。その母親たちにしても同じでしょう。1860年ごろ、幕末維新の日本を旅行した外国人たち、豊かな都市部では清潔で教養豊か、文化も高い、と書きました。一方、貧しい人たちの姿は不潔であった、と書きました。とすれば、聖書時代、ローマ帝国とヘロデ大王の支配下にあったこの地方の庶民の生活が豊かとは考えにくいのではないでしょうか。
 それは、神の祝福から遠く離れた姿と考えられていた可能性があります。そのような人々、子どもたちを拒もうとする弟子たち、当然のことです。しかし、主にあっては、それが超えられるのです。主は、この子どもたちを祝福されました。

 子どもを、理想化することは許されない。しかし、理解することが求められています。
主は言われました。「この子どもたちは、神を我が主として受け入れている。その故に神の国の民として受け入れられているのです。地上でどれ程多くのものを、知識や功徳を積んでいようと、この子らより以上に受け入れられることはありません」と。
 誰が一番偉いか、と論じ合っていた弟子たちにとって衝撃的なことでした。恐らく、この時には、主のお言葉は理解できなかったに違いありません。
主は、それらに関わりなしに、この子らを祝福されます。
命の主であるゆえの祝福です。

 エフェソ書5:21〜6:4、これが本日の新約の日課です。
福音書は、幼児の祝福でした。こちらはもっと範囲が広いように感じられます。妻と夫の関係が教えられています。結婚式のとき、夫婦の勤めに関する聖書の教え、として読まれる箇所です。妻は夫に仕えなさい。夫は妻を自分自身のように愛しなさい、と言われます。最近は、夫、妻と言う言葉もめっきり減りました。配偶者、お相手、パートナー、などと呼ばれるようです。主人や旦那様、家内、愚妻、女房、うちのかみさん、山の神、などと言うよりはいいでしょう。
 ここでは呼び方の問題ではなく、実質的なあり方が問われています。いかに愛し合うか、ということが問題になっています。愛し、敬い合うことです。そのためには、愛と敬意の対象であるように、自身努力をしなければなりません。自分を高め、深める努力です。

 私たちは、自分というものを、多少は知っています。嫌な存在だ、どうしようもない、というようにも知っています。自虐的かもしれませんが、それが本当の姿なのです。
何らの希望がない状態です。決して希望的・楽観的に考えることは出来ません。しかし、この私をイエス様は愛してくださった。
愛された者だけが愛を知ることが出来ます。
園長として、牧師として、大勢の人と話をしてきました。その中で、意外と大勢の方が、愛し方が解らない、と言われました。親がいなくて、施設で育ったから。親が不仲で。
いずれも、親が私を構ってもくれなかった、と言うのです。
 夫婦の仲が悪く、自分たちのことだけで精一杯、という時、確かに、子どもたちは忘れられていることでしょう。愛されていると感じることは無理でしょう。

6章は、親子の関係です。愛し合う夫婦の間から、問題は、子どもとの関係に移ります。
最初に言われるのは、子どもたち、両親に従いなさい、ということです。これを聞くと安心する親が多いでしょう。でも・・・、です。現実は厳しいのです。子どもは親を見ています。アンナ親に従えるものか、と言われます。尊敬できるものか、と言います。
「牧師さん、よく子どもたちを教えてくださいよ」、と言われても無理です。
「お父さん、お母さん、しっかりしてください。子どもをしっかり愛してください」としか言えません。それから、言いましょう。「イエス様は、お父さん、お母さんを愛しておられる、と。そして君を」と。

 次に言われるのは、親たるものよ、子どもを怒らせるな、ということです。
そのとおりです。親業に大事なことは、なんでしょう。忍耐です。学校の教師と同じです。
もっと深く忍耐します。愛し続けます。投げ出したいところで、耐えるのです。学校は、自宅謹慎や、退学と言う処分をします。親にはありません。共に苦しむことが、自分への処分です。感情に任せて叱ってはならないのです。

家族の城が家庭です。詩人は、これを神からの賜物として讃美しています。
夫婦は社会を構成する最小の一単位である、と言われます。社会的存在です。
教会は神の家族と考えられます。父なる神は、この家族を愛し通されます。
イザヤ書54章が語るように、しばしのとき、離れ、捨て去ったように見えても、決して見捨てず、帰ってこられます。それほどに愛してくださっています。
家族は、互いに祈りあうものであって、互いに傷付け合うものではないはずです。
しかし、今、家族が傷付け合っている。
教会も同じことになってはいないでしょうか。

キ保連に関係している頃、セクハラ教育の必要性を感じ、信頼する牧師・園長に話したが、全く無視されました。不必要である、ということでしょう。
幼稚園、園長、牧師、教師、親たち。これは全く一つの家族のようなもの。
そこではセクハラなど起こるはずがない、というのは論理的、合理的と言えましょう。
家族の中にセクハラなど起こるはずはありません。
しかし、本当にそうでしょうか。
家庭の中で、父親の言葉が、態度がセクハラになります。こんなことを言われました。
「家の中で裸のような格好で歩かないで下さい。年頃の娘がいるのですから」。
園内で、どの教師は可愛くて、あの教師は可愛くない、などという発言をすれば、セクハラになります。たとえそれが親愛の情からであっても。

誰でも結婚は出来る。しかし誰でも夫婦になれるものではない。家族も同じことです。
神が与えられた家族を守り、家族になり続けるためには、一つの主を仰ぐ信仰が必要です。 
私たちは、愛の表現をよく考え、自制し、コントロールしなければなりません。
それを怠るなら、家族がばらばらになります。家庭崩壊になります。
ご家庭も、この教会も、神が主となられる家族です。
共に一つ主を仰いで形成してまいりましょう。