聖書日課 民数記11:24〜29、?コリント12:14〜26、詩編13:2〜6、
梅雨明けから1週間、梅雨明けとか、と言われるとおり暑い日が続いています。
平和聖日、広島原爆投下の日、
大畠芳子姉妹の葬儀に出席できたことは僥倖と言えるでしょう。蒔田教会、司式は今橋朗先生、神学校の教師、主任者として長く牧会、今は担任教師。式辞を古谷正仁先生。
マルコ福音書から学びましょう。間もなく、夕礼拝で読みますので、ごく簡略に。
初めは、誰が偉いか、という12人の弟子たちの争いです。教会の最初の中核となった人たちが、その中で誰が偉いか、と言って論争した、というから驚きです。むしろ、私たちとよく似ているから驚くことはない、かも知れません。主が言われるのは、大切なことは私と私を遣わされた方を受け入れることである、ということに尽きます。
次は、イエスの名を使って悪霊を追い出しているものにどの様に対処するか、と言うことです。主は、同じ霊の働きならやめさせることはない、と言うお考えです。逆らわないもの、拒絶しないものは味方である、という考えは、エリザベス女王時代に、大英帝国の宗教寛容政策の基本となった考えのようです。同様に多民族国家であったローマ帝国が、すでに採用していたものです。
初代教会から、その中でいろいろな違いがあり、分派、分争がありました。ひとつ主を仰ぎ、一つバプテスマ、霊を受けながら、何故でしょうか。現代の問題です。
本日の旧約の日課は、民数記11:24〜29、出エジプトの民の中で起きたこと。
イスラエルの人々は、エジプトを脱出して荒野に入ると間もなく不平、不満を言うようになります。多くは、エジプトでの奴隷の生活を懐かしむものでした。あの頃は、飲む水のことや、食べるもののことで悩む必要はなかった。水も食物も豊かにあった。今は、自由はあるかもしれないが、生活の必需品が何もない状態だ。なんと酷いことか、と泣きます。
この4節に注目してください。「民に加わっていた雑多な他国人は飢えと渇きを訴え、イスラエルの人々も再び泣き言を言った」。出エジプトのイスラエル、と一口に言いますが、実は、エジプトで奴隷であった多くの他国人が一緒に出てきたのです。そしてイスラエルだけなら、我慢したかもしれないことも、他国人が飢えと渇きを訴えるとき、それにつられてしまいます。仲間になるのです。こうしたところに、時代を超えて変わることのない人間の正体が見えてきます。悪貨は良貨を駆逐する、と言う古い言葉が現実になってしまうのです。人間の真の姿は、本来良いものでもすぐに悪いものに影響され悪くなってしまう、というところにあります。イスラエルは他国人と共に、神に対し苦情を言います。点からの恵のマナばかりで、他に何もないと言います。神はこれを激しく怒ります。
モーセはこうした民の苦しみ、悩みを見て動揺します。私には、この民の不満を解消することは出来ません。そのような力はありません。私に何をしろというのですか。
そこで主は、モーセに言われます。長老に相応しいと認めるものを70人、幕屋の周りに立たせなさい、と。彼らを、モーセの重荷を分かち、担うものにしよう、ということでした。間もなく分かることですが、その重荷とは、特に預言することを指していました。
モーセは、主の命じるままに、長老たちの中から70人を集め、幕屋の周りに立たせる。主は、モーセに与えていた霊の一部を取って、彼らに与えた。彼らは預言状態になった。ただし彼らの場合、モーセと異なり、預言状態は一時的であった。いわゆる恍惚状態(エクスタシー)を指します。モーセの職能の一部を分けたことを示すものでしょう。
幕屋に残っていた者たちの中の二人、エルダド、メダド、この二人にも霊が降り、預言状態になりました。どうやら彼らも、70人のひとりとして選ばれていたようです。モーセの従者、ヌンの子ヨシュアはこれを知り、やめさせよう、と言います。モーセは、皆が預言するようになって欲しい、と切望しているのだから、やめさせる必要はない、と答えます。
名前が残されているのは、このことの重要性を指し示している、と考えてよさそうです。
神の教会は、先ず第一に、このように呼び出された者たちの群れなのです。わたしたちが勝手気ままに寄り集まったとしても、それは教会ではありません。いわんやキリストの体ではあり得ません。宗団、グループ、集まり、団体、何とでも言えますが、教会ではありません。
教会は、神の霊が与えられています。この霊の命ずるままに語り、讃美し、動くのが教会です。本当の意味で、神が主になるところです。
モーセは、すべての人が預言者になることを切望している、と語りました。現代の教会にとって、何か意味があるのでしょうか。預言者とは何か、考えましょう。何か、不思議なことを予見する、あるいは、先んじて知る人のような感じがあります。これは日本人の言語感覚です。聖書の中では、常に、神から命じられ、神の言葉を語る人です。モーセは壮大な夢を抱きました。後の預言者ヨエルの預言を先取りしているように感じられます。ヨエルは、3章でこのように預言しました。
「その後 わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。
あなたたちの息子や娘は預言し
老人は夢を見、若者は幻を見る」。
特別な人ではありません。わたしたちの中のあなた、君、なのです。皆が神の言葉を語るようになる。訓練を受けているかどうかまでは語られていません。それは関係ないのです。皆が語ることが出来るようになるのです。他の事ではなく、ただ神の言葉を語ることを喜びとするようになるのです。現代のわたしたちは如何でしょうか。わたしたちの関心は何処に向けられているでしょうか。余りにも多くの事柄に分けられてしまい、神のことは、二の次、三の次になってはいないでしょうか。
さて次に、新約の日課を読みましょう。
?コリント12:14〜26、パウロによる、有名な「からだの譬え」の部分です。この手紙は、教会の分裂騒ぎと生活の乱れを心配したパウロが書きました。しかし教会の中のことだけ、とは考えられません。教会と、外の関係についても考える必要があろう、と感じます。
12章は、霊の賜物について記されます。一つの霊を受けているが、その働きは多様である、ということです。10節の前後に語られています。
これに続いて、教会の中での様々な仕事、役割が、具体的に記されています。鍵になるのは、「体」と言う言葉です。ギリシャ語のソーマ。
ソーマ、体、?人間の体、人体、身体、肉体、(生死に関わらず用いる);人間を構成する物質的・可視的部分、時にプニューマと、時にプシュケーと対照される。
?(?の霊的意味の適用として)、キリストの体としての教会;頭であるキリストの意志を(目に見える生きた活動として)この地上に行って行く彼の「からだ」、また体の各部分が体全体として一つの有機体を形成する点も指摘される。次のように用いられています。
ロマ12:5「私たちも数は多いが、キリストに結ばれて一つの体を形作っており、各自は互いに部分なのです」。
?コリント10:17「パンは一つだから、わたしたちは大勢でもひとつの体です」。
エフェソ4:4、11、
16「キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです」、
コロサイ1:18「御子はその体である教会の頭です」。
3:15「この平和に与らせるために、あなた方は招かれて一つの体とされたのです」。
一つでありながらの多様性、多様であるゆえの一致、相違(違い)が語られています。さらに、違いがわかること、理解すること、違うからこそ共鳴することの大切さが響いてきます。
『クララの明治日記』クララ・ホイットニー著(講談社刊)
その中で時々、明治期日本の音楽に言及しています。
異文化体験をしている歳若き女性、少女としては、日本文化の違いをよく理解し、高く評価しています。
その中で、音楽については大変評価が低い、「全く酷いもので、ご勘弁いただきたい」という意味のことを書いています。琴が多く、三味線と歌もありました。
ところが、日が経つにつれ変化が生じます。「伝統が違うのだ。日本人にとっては、西洋の音楽も負けず劣らず酷いものではないか。突然絶叫したり、泣くようになったり」と書くようになります。それほど多くの日数を要しませんでした。一年ほどでしょうか。
若く、柔軟であるゆえの成長のように思えます。
素晴らしい成長、違いを理解し、相手の立場に身を置くことが出来るようになりました。
やがて勝海舟の長男 梅太郎と結婚することになります。
キリストの体も成長します。
必要なことは、もっと大きな賜物を受けるように努めることです(31節)、とパウロは書いています。そのようにして、神の民は、困難の中にあっても揺るぐことなく、神をたたえることが出来ます。詩編13:2〜6はそのことを謳います。