聖書日課 列王記上10:1〜13,?テモテ3:14〜16、詩編119:129〜136
教会暦に基づく説教を始めて、4ヶ月が過ぎようとしています。
たいていは、聖書と主題がすぐに理解されました。今回は、だいぶ容子が違います。
これらのみ言葉は何を告げようとしているのだろうか、よく掴めません。主題との結びつきが希薄なのでしょうか。
幾つかの聖書日課を調べてみましたが、この主題も、この組み合わせも見つかりませんでした。新しいことを試みたのかもしれません。共に考えるよい機会としたいものです。
マルコ福音書8:22〜26、ベトサイダ村で目の不自由な人を癒やされた、癒やしの奇跡。
人々は、一人の盲人を連れてきて、「触れてやっていただきたい」と願いました。
注目に値する言葉です。この人たちが求めているのは、目が見えるようになることです。
そのことに触れず、ただ触れてやってください、と言うのです。主イエスならずとも、この中に深い信頼を感じるのではないでしょうか。そのためでしょう。主は何も言わず、尋ねることもせず、目の見えない人の手を取り、村の外に連れ出します。
イスラエルでは、身体的接触は特別な意味を持っています。それは、その相手との交流です。聖書の中では、多くの場合、穢れたものとの身体的接触はその汚れを自分の上に招くことになる、と記されます。身体的障害や病気はイスラエルでは神の祝福から外れたものとされていました。汚れに属することになります。穢れた食物を食べている人も穢れています。したがって、異邦人、異教徒は、全て穢れたものです。その住んでいる土地も穢れています。異教徒の住むところ、たとえばサマリヤなどは、信心深いユダヤ人は出来るだけ通らないようにします。こうした背景の中で、手を取って連れて行かれる、触れられルのです。私たちは、ここでイザヤ書53章あたりの言葉を思い出すでしょう。
3節から、「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ 多くの痛みを負い、病を知っている。
彼はわたしたちに顔を隠し わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。
4節 彼が担ったのはわたしたちの病、 彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに
わたしたちは思っていた
神の手にかかり、打たれたから 彼は苦しんでいるのだ、と。」
そして5節の最後。「彼の受けた傷によって、わたしたちは癒された。」
主イエスにとって、この眼が見えない人を癒すということは、その汚れを担うことに他なりませんでした。ベトサイダの人々は、自分たちが何を求めたか知っているはずです。
主イエスは、積極的にお引き受けになりました。
三浦綾子さんは、「人のお世話をするときは徹底的にしなければなりません」と書かれました。
このような背景の中で主は、この人を村の外へ連れ出し、そこで触れられました。その目に唾をつけ、両手をその人に置いて尋ねられました。「何が見えるか」、この時見えるようになって「人が、木のように見えます。歩いているようです」との答えがありました。
恐らく、人々が追いかけてきたのでしょう。まだぼんやりしている容子です。
そこでもう一度、両手を目の上に当てられます。
すると、何でもはっきり見えるようになりました。
見えるようになったばかり、というのに一つ一つの事物を分別できるのです。違いがわかるのは大変なことです。ここには、明らかに神の力が働いています。
この人にとって、神からの真理は、聖霊の力であり、その力によって始められた新しい生活でした。不自由さが取り除かれ、自由が回復されました。
癒やされたこの人は、「村に入ってはいけない」とイエスに言われました。なぜ?
この村で、彼は不自由になっていました。今、彼は自由を回復させられました。不自由の中に帰ってはならないのです。自由を得させるのは真理です。
ヨハネ福音書8:32「真理はあなたたちを自由にする」。真理は自由を得させるのです。
わたしたちに自由を得させた真理は、十字架の主イエス・キリストです。主ご自身言われます。ヨハネ14:6「わたしは道であり、真理であり、命である」。
列王記上10:1〜13、ソロモン王の時代、シェバの女王が彼の名声を聞き、難問を以って彼を試そうとしてやって来ました。その結果、シェバの女王は、このように語ります。
9節、「あなたをイスラエルの王位につけることをお望みになったあなたの神、主は讃えられますように。主はとこしえにイスラエルを愛し,あなたを王とし、公正と正義を行なわせられるからです。」
ソロモンの知恵とその事績、その冨は聞きしに勝るものであり、信じがたいほどのものであることを知りました。それらは、まさにあなたの神がお与えになったものに違いありません。まことの知恵は、神から来るものである、とこの異国の女王は告白しました。
イスラエルの神を讃美した女王は、望むものを全て与えられ、故国へ帰って行きました。
ソロモンは、自分の知恵も力も財宝も全て神からのものであることを、シェバの女王に証しすることが出来ました。シェバの女王もそのことを素直に認めました。神の力を受け入れたのです。財宝からも力からも、名声からも自由になっていました。
神からの真理が何をするか、わかってきました。何か欠けているように感じられます。
その点を埋めてくれるのが、本日の新約日課です。
?テモテ3:14〜16、「神の家とは、真理の柱であり、土台である生ける神の教会です。」
「キリストは肉において現れ、 霊において義とされ、 天使たちに見られ、
異邦人の間で宣べ伝えられ、 世界中で信じられ、 栄光のうちに挙げられた。」
これはキリスト讃歌です。信仰告白と言っても良いでしょう。
救い主が世に現れた。神によって承認され、世界中に宣べ伝えられている。
真理である主イエスが知られ、宣べ伝えられ、受け入れられる。信じられる。
教会は何によって、キリスト教会とされるのでしょうか。「礼拝によって教会は立ちもし、倒れもする」と言われてきました。この礼拝は、その中で福音が語られ、証しされ、主の受難と復活が追体験されるものです。神からの真理の言葉によって、教会は教会となります。
そのことを教えるのは、神の言葉全体です。
本日の詩編は、119:129〜136です。この詩編には大きな特徴があります。
大変長い、ということ。
ヘブライ語のアルファベット歌であること。
各段落は、律法、掟、戒め、道など神の言葉、教えを指す文字を含みます。
本来、律法の大切さを覚えさせるために編まれたものでしょう。
130節「御言葉が開かれると光が射し出で 無知な者にも理解を与えます。」
135節「御顔の光をあなたの僕の上に輝かせてください。 あなたの掟を教えてください。」
136節「私の目は涙を流しています。 人々があなたの律法を守らないからです。」
そして160節、口語訳は「み言葉の全体は真理です」とありました。
神からの真理は、主イエスご自身であり、私たちに自由を得させるものです。
パウロの言葉を以って終わりましょう。ガラテヤ5:13.
「兄弟たち、あなた方は、自由を得るために召しだされたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。」