聖書日課 エレミヤ23:23〜32、ガラテヤ5:2〜11、詩編52:3〜9、
今主日の週報に、この日の聖書日課を載せていただきました。ご覧頂き、関心ある方は、お帰りの後、再確認していただきたい、と願います。
旧約の日課から読むことにします。
エレミヤは、偽りを預言する預言者たちの存在を告発し、警告します。神は彼らを遣わしていないし、何も命じてはいない。彼らは偽預言者です。
彼らは、偽りの夢を預言する者たち。彼らは、それを解き明かして、偽りと気まぐれをもってわが民を迷わせています。(エレミヤ5:31,6:14)
「彼らは、わが民の破滅を手軽に治療して
平和がないのに、『平和、平和』と言う。」
そして、厳しく語られます。7:16
「あなたはこの民のために祈ってはならない。彼らのために嘆きと祈りの声を上げて私を煩わすな。私はあなたに耳を傾けない」。礼拝の拒絶です。とりなしの拒絶です。
同時に、聞こうとしない民に語ります。「これは、その神、主の言葉に聞き従わず、懲らしめを受け入れず、その口から真実が失われ、断たれている民だ。」28節。有罪宣告です。
言葉は良いもの。とりわけ神の言葉は。しかし、それは真実を告げ、真理を指し示している限り、のことです。救う力を持たない空しいことばに依り頼むのは無駄なこと。
新約の日課はガラテヤ5:2〜11です。新共同訳ではここに、「キリスト者の自由」という小見出しがつけられています。
この手紙は、異邦人の大使徒と呼ばれた伝道者パウロによって書かれています。彼は自分の血筋を誇り、律法を忠実に守ることを頼みとしていた人物です(フィリピ3:5〜7)。それが、キリスト・イエスの福音を知るや、律法主義に反対するものに変わり、ユダヤ人からの猛攻撃を受けるものになりました。
私などは、安息日や、食物規定についてユダヤ人が何かを主張しても、それは彼らの勝手、
彼らが守ればよいこと、わたしには関わりございません、と言いそうになります。ところが、パウロは違います。キリストの救いを無にするようなことは、たとえ小さなことでも全体を損なうものになるから退けるべきです、と論じます。
そこで用いているのが「パン種」のたとえです。?コリント5:6〜8「あなた方が誇っているのは、よろしくない。あなた方は、少しのパン種が粉のかたまり全体をふくらませることを知らないのか」。パン種とは何か、よく解ります。
このパン種については、主イエスが福音書の中で論じておられます。マタイでは15章で4000人へのパンの奇跡を行なわれ、それに続く16章で「パン種を警戒しなさい」、と教えておられます。それは今日の福音書、マルコの8章と同じです。パン種とは、マタイの主イエスに依れば、ファリサイとサドカイのパン種、すなわちその教えのことです。
マルコは、ファリサイとヘロデのパン種としています。マタイもマルコも同じ弟子。それなのに主が語られたことの記憶が違います。この違いは意味のないものなのでしょうか。何か、二人の人格的な違いに基づくような大きな意味があるでしょうか。
マタイは、ユダヤ人、徴税人。律法に依れば異邦人同様に見られ、罪人の仲間扱いされていた人物です。彼の中には、律法に対する敵愾心のようなものがあったでしょう。律法主義に対する警戒心が強かったことは間違いありません。そのことが、ファリサイとサドカイのパン種を用心しなさい、という記憶となったのでしょう。
それに対してマルコは、実際は紀元後70年代、異邦人出身のキリスト者であり、彼をマルコと呼ぶのは便宜的に伝説上の名を用いた、とされます。
ふたりは、それぞれの心配事を抱え、様々な経験の中から注意すべきものの姿を見ていたのです。言葉によって連想するものがあったのです。
パン種は、自分自身は小さいけれども他のものの中に入って、それを大きく変えてしまう大きな力を持つものです。しかも、そうした力があることは、見ただけでは分かりません。理解されにくいのです。酵母菌全体に言えることでしょう。
良い方向に変わることもあります。悪い方向に変わることもあります。主イエスも伝道者パウロも,パン種に気を付けなさい,と言います。良い働きをする酵母菌に申し訳ないように感じます。しかし安全とは考えられないのです。人間の弱さと頑なさを考えるなら、用心するのが当然です。その上、たった今奇跡を見たのに何も変わっていないのです。解ったなら、何かが変わるはずです。理解することに遅いのです。これが私たちです。主イエスは、心配してくださっています。
現代の私たちの下には、どのようなパン種があるでしょうか。何が福音を非福音・福音ならざるものに変えてしまうのでしょうか。
ファリサイ的なものは、何でしょうか。これは大きく、二つ上げるべきでしょう。
一つは律法主義です。これは自分の行いは完全で安心できる、と言う考えです。行為義認に繋がります。時には、言い伝えや常識にも心配りをします。表面的には敬虔で麗しさの極みのようです。しかし、自分を中心にして世界は回っている、様なところが顔を見せます。
もう一つは知識偏重主義です。ファリサイの人たちは、たいそう勉強しました。
たくさんの知識を身につけました。律法を研究し、様々な学説に通暁しました。どのような質問にも答えることが出来ました。立派なことです。しかし、この蓄えた知識を基準にして他者を裁くようになります。別には何かけるわけではないけれど、救われるために、神の民と成るためには、控えめに見てもこれだけの知識がなければ無理でしょう、と言うようになってきます。
ヘロデのパン種とは何でしょうか。
ヘロデを名乗る人物は大勢居ります。ヘロデ大王、彼はイドマヤ人の将軍。ハスモン王家の王女と結婚してユダヤの王となりました。王位の簒奪者と考えられています。自分の王位を脅かすものと見ると、それが家族であっても殺してしまいました。ガリラヤの領主ヘロデ・アンティパス、使徒言行録12章のヘロデ・アグリッパも登場します。この家の者たちは、ローマの皇帝と仲良くすることで自分の地位を得ました。その後も同じ方法で王位を確保しようとしました。彼らは権力主義者です。策略を講じてでも権力を手に入れようとします。これは福音に相応しくありません。民衆を押さえつけます。
マタイが告げる、サドカイのパン種も考えておきましょう。
サドカイは、当時の貴族階級です。貴族とは、王位にある者を守り、その指揮のもと政治を行なう役割を担う者たちです。権力の照り返しのような権威を持とうとします。
エレミヤ書が告げているものは何でしょうか。
非常に明確です。虚偽の言葉です。それも神についての嘘です。
自分は神の言葉を聞いた、これが神の言葉だ、と言うが、その実、神は何も語っておられない。自分に都合の良い言葉を語っているに過ぎない。悪しきパン種です。
最後に詩編52編を読みましょう。この詩人は、欺く舌を好む人々を告発します。彼にとってこれこそ悪しきパン種です。他のものを神から遠く、引き離すものです。滅びに至らせるものです。反対に神を力と頼むものは祝福されます。
福音から遠く引き離すようなパン種に気を付けなさい。自分の弱さ、頑固さ、愚かさを知りなさい。主キリストは、そのようなあなたに福音を委ねられたのです。それをもっと多くの人に伝えようではありませんか。こんな私を神が信頼して、お委ね下さったことを感謝しましょう。