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2006年6月25日

《悪霊追放》

説教者:
牧師 持田行人
聖書:
マルコ福音書5:1〜20

聖書日課 サムエル記上16:14〜23、使徒16:16〜24、詩篇32:1〜7、

 今朝の日課は、マルコ福音書5:1〜20です。主イエスの病に対する奇跡物語です。
 先ずこのゲラサという地名のことをお話しましょう。これは、デカポリス地方にある、商業で繁栄したヘレニズム的一大都市の名です。イスラエル人から見ると、異教的な穢れた町、となります。食べるものにしても、共通するものもありますが、禁じられている豚を好みます。安息日規定は、もちろん守りません。敬虔なユダヤ人は、この町の近くへ寄ることも避けたそうです。
このゲラサの地方で「レギオン」という名の悪霊を追い出されます。レギオンは、ローマでは、軍事用語で、歩兵の集団、一個軍団を指します。およそ5〜6000人。ですから、この悪霊は、たくさんいる、と言うだけではなく、統率が取れていて、一つの意図の下、組織的に活動している恐るべき存在、となります。
このレギオンがイエスを認めて恐怖を抱き、この男から追い出すなら、豚の中に入らせてください、と頼みます。豚は、砂漠の遊牧民には無縁の動物です。宗教的にも汚れたものとされていました。これを求める者は、穢れた異邦の民です。これを飼い、提供する者たちは、穢れた者たち以上に穢れた者たちとなります。ユダヤ人であれば裏切り者、堕落した者たちと見られたことでしょう。

主イエスは、レギオンの求めの通りに、豚の群れ、2,000頭ほどに入らせます。群れは湖へ雪崩込み、死んでしまいました。これを見た人々は、町の人たちに伝えました。恐らく豚飼いが、その責任を果たしたのでしょう。持ち主たちは、これを知り、この正気になった男を見て、何を考えたでしょうか。自分たちの財産の喪失とイエスの不思議な力に対して恐れを抱きました。そして、ここから立ち去ることを求めます。
彼らには、ひとりの悪霊に憑かれた男が、人格を回復した、ということは全く目に入りません。喜ぶべきことを認めることが出来ません。喜べません。金権主義、財物優先主義、これは時代を超えてはびこり、決して無くならず、更に強大且つ巧妙になっています。
ここにもうひとつの悪霊が存在しています。追放されるべき悪霊が、此処にもいます。

それに対する、周辺の人々の反応は、イエスにこのあたりから出て行って欲しい、と言うものでした。此処にも悪霊が存在します。
イエスはそうした中へ、この男を帰らせます。そして、何が起こったのか、皆に知らせなさい、と教えました。イエスは、このような病を引き受けます。癒やして、救いとなります。私たちは、その恵みに与っています。それは、この出会いと喜びを他の人々に宣べ伝えるためなのです。

今は三位一体主日、聖霊降臨節。これは聖霊の期間、教会の期間、信徒の期間です。
主は、病を身に負い、苦しんでいる人々に対して、助け手となられました。
聖霊は、主のなさったことは教会のものである、と示し、導きます。

旧約の日課はサムエル記上16:14〜23です。
イスラエル初代の王はサウルです。預言者サムエルは、イスラエルの民衆の求めにこたえて、多くの人の中から選び、油注いで王としました。サムエル記上9〜11章です。
その後、サウル王は、神の言葉に背きます。主は、このサウルを王としたことを後悔します(15:11)。サムエルは、命じられて、選ばれたダビデ少年に油注ぎます(16章)。
 「容姿や背の高さに目を向けるな。私は彼(エリアブ)を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」。16:7
王位から退けられたサウルは、なおも王位にしがみつきます。そうした彼を神の霊が襲いました。今日の躁鬱病的な発作でしょう。サウルに近く仕えていたダビデは、竪琴の名手であったと言います。彼が琴を奏でると、サウル王の心が静まり、気分が良くなりました。

聖霊の教会は、その時代の科学技術その他あらゆる力を用いて、人々の福祉、厚生のために働きます。「顔施」という言葉があります。顔が施す、と書きます。何も出来なくても、田だニコニコとしたお顔でそこにいるだけで、多くの恵みを感じさせる。喜びと感謝を分かち合うことが出来る、というものです。寝たきりになる、車椅子の生活になっても、なお私たちは、福音を宣べ伝えることが出来るのです。

詩篇32:1〜7、ダビデの詩篇です。しかし、サウル王と直接関連しているものではありません。七つの悔罪詩編のひとつ(6、32、38,51,102,130,143)。
1〜7節は、神の許しと加護がいかに幸いであり、また真実であるかについての証言であり、讃美と感謝の祈りとしてささげられたものです。
この詩人は、自分の罪を強く自覚しています。多くの悩みは、自身の罪から発する事を告白します。それにも拘らず神は私を守り、悩みから救い出してくださる、と謳います。
イスラエルを始め、古代人の間では、苦悩や貧困、病気などは、神に対する背きが原因している、神の怒り、捌きである、と言う信仰がありました。
「背き」「咎」「欺き」、罪の三様相。罪とは神への反乱、未知から迷い出る子と、心の歪んだ堕落のことである。神との打てば響くような交わりの喪失、関係の崩壊。
同様に「赦され」「覆われ」「数えられず」も、謝罪の三つの様相を示し、対応させる。
こうした三重の表現は、その体験が如何に徹底的、完全なものであるかを示す。


使徒言行録16:16〜24、占いの霊に取り付かれた奴隷女。その状況を利用して利益を得ていたその主人の物語。フィリピの町へ来たパウロとシラス、その街の祈り場に集まってきた女たちの一人、紫布の商人で敬神家のリュディアがその家族と共にバプテスマを受けた。その後のこと、ある日祈り場へ行く途中で、占いの霊に取り憑かれた女奴隷と出会う。
この女奴隷は、主人の利得のために、悪霊に憑かれた状態に留め置かれている。
利益のための道具とされている。普通の奴隷より更に酷い状態です。
 パウロがしたことは、この拘束からの解放です。しかしこの一人の女性が、悪霊から自由になることは、その主人にとっては都合の悪いことでした。主人の利益にはなりません。
パウロとシラスは訴えられ、投獄されます。人間存在の回復よりも金銭的な利益が重視され、重んじられる。これも悪霊の働きの一つです。

 ここでもゲラサ人の地で起こったのと同じことが起きました。周囲の人々の間に悪霊がいる、という状況です。ここには慰めがあります。主はゲラサの男から悪霊を追い出されました。フィリピの女奴隷からも追い出されました。それだけではありません。ゲラサの人々、奴隷の主人に対しても、彼らの中の悪霊を追い出すよ、と言っておられるのです。同じように、現代の私たちからも追い出しましょう、と言ってくださいます。
聖霊は、今も働いています。顕著な形の悪霊に対し、また認識が困難な形の悪霊の働きに対しても、働いています。私たちの教会は、この聖霊の教会として、この働きに参加したいものです。