日課 歴代誌下15:1〜8、使徒言行録4:13〜31、詩篇69:17〜22、
日本基督教団が定めた教会暦では、今の時期は聖霊降臨節と呼ばれます。
その意味は、この期間の主役が聖霊です、ということです。
聖霊が降って後成立した教会の期間、またそれを形作る信徒・クリスチャンの時とも言われます。また神は聖霊降臨によって、ご自身が父・子・聖霊なる三位一体の神であることを明らかにされたので三位一体節と呼びます。これは教会がその長い歴史の中から生み出し、守ってきたものです。
私たちにとって、教会暦はあまり馴染み深いものとは言い難いように感じます。それは私だけのことかも知れません。普段は、あまり意識していない、と言った方が妥当するでしょう。注意を払うのはアドベントからクリスマス、レントからイースターそしてペンテコステ。この程度のように感じます。これでおよそ半年、残りの半年は毎週同じ聖霊降臨節、あるいは三位一体節、殆んど考えたこともありません。この期間にどのような意味があるのだろうか?
教会暦の見方をもう一度まとめてみましょう。
先ずアドベントから暦は始まります。待降節、御子イエスのお生まれを待ち望む期間です。
クリスマスを迎えます。顕現節があり、レント・四旬節になります.主の受難と復活に備える期間です。受難週があり、喜び溢れる復活節になります。主の御昇天のときがあり聖霊降臨節、ここまでおよそ半年。この間はみ子イエスが主役となる期間です。
残りの半年、これが聖霊降臨後の聖霊を主役とする期間となります。聖霊の働きは、弟子たちを励まし、勇気を与え、大胆に主イエスに関わることを証言させました。それによってキリスト・イエスの教会を興しました。信じる者たちを導き福音を生きる者としました。聖霊降臨節の期間は、このように教会について、信じる者の歩みについて学び、それを生きるものへと導く期間です。
聖霊に導かれ、守られる教会は、伝道する教会です。
教会については、聖書学、教義学、などが様々に語り、教えてまいりました。
最近では、日本伝道論の再構築が叫ばれ、日本伝道会が組織されています。これによって
キリストの御名が讃えられ、高められるならば、私たちは喜ぶでしょう。
主にある一致と平和が来たらせられるなら喜び、感謝しましょう。
さて、聖書は「伝道の教会」について何を語るのでしょうか。マルコ福音書は、小見出しを二つに分けています。「多くの病人を癒やす。巡回して宣教する」。
伝道する教会と癒やし、病からの回復は無関係ではありません。シモンの姑は発熱して、寝ていました。主が手を取って起こされると、熱は去り、一同のもてなしに加わることが出来ました。自分本来の役割を果たすことが出来るようになったのです。
一家の主婦にとって、自分がその役割を果たすことが出来ないとするなら、どれほど大きな苦しみ、悲しみになるでしょうか。昔であればもっと厳しい状況を考えなければなりません。主婦として役立たずであれば、主婦の座は他の者に取らせよう、となりはしないでしょうか。旧約聖書は一夫多妻を認めていました。アブラハムとヤコブ・イスラエルはそれぞれ四人の妻を持ちました。それを受けてのことでしょうか、現代に至るまでイスラム社会は一夫多妻制を維持してきました。その背景には、幼児死亡率の高い砂漠地帯の事情があったことでしょう。しかし、事情が変化し、生活も豊かになり、定住化が進み、死亡率が低下しているはずですが、この制度が変えられたとは聞いていません。
恐らく長年にわたる生活様式は、それが当たり前のこと、それ以外は考えられないようになっていることでしょう。わが国でも長い間、男子厨房に入るべからず、としてきました。ところが最近は大変わりです。多くの人に喜びを与えるために男子も厨房に入り、積極的に男の料理をしましょう、というのです。かなり本格的ですね。料理学校で勉強しましょう、というところまで行っているようです。
伝統的な役割の枠を超えて、新しい自分の役割を見つけ、新しい自分を生きようとするものです。教会は、その歴史の中で新しい生き方を教えてきました。御殿場教会は、アメリカから来た「ダッチ・リフォームド・ミッション」によって宣教されました。その一人ジェームス・バラは、ある時三島大社の大鳥居の下で路傍説教を始めました。それを見て町の人は怒りました。日本の神々を汚すもの。玉石を投げました。やがてバラの額から血が流れ出しました。投げていた一人の青年が、これはいけないことだ、と気付き、バラを支え、自分の家に連れ帰り介抱したそうです。数日家におらせ、打ち解け、やがてしばしば訪ねて来るようになった。この青年が最初の実りとなり、三島教会が始まる。御殿場の人々は、このバラの盛名を聞き、日曜毎に三島まで尋ねるようになりました。朝早く握り飯を三回分、四回分用意して出かけます。25キロ前後、6時間、くだりでも5時間はかかるでしょう。朝の礼拝、午後の集会、そして帰ってくるともう真っ暗、くたくただった。
これは御殿場の呉服屋「そびや」さんから聞いた話です。「そびや」という店の名は、バラ先生が付けてくれました。ソフィアです。近くに自転車屋があります。斉藤輪店、ここもバラ先生の話を聞きにわらじ掛けで三島詣でをした家です。新しい時代のクリスチャンの仕事として自転車を勧めたのもバラ先生でした。
もう一軒教会員の自転車屋さんがあります。鈴木輪店。ここも同じです。
宣教師は福音に相応しい新しい生活を教えたのです。古い町であっても、その仕来りや、言い伝えに従うよりも、新しい福音の言葉に従う生活を教えました。
伝道する教会、宣教することは、福音のことばを伝え、それに相応しい歩み方を指し示すことなのです。私たちの教会はディサイプルス派の伝統を担っています。第一世紀の弟子たちの精神・信仰を分かち合おうとするものです。最初にこの国へ来た宣教師たちは、様々な事情の下決断して東北・奥羽の地を目指しました。その拠点としたのが、当時江戸・東京の北の郊外、飛鳥山近くでした。古川庭園と渋沢邸の中間あたりです。聖学院と教会を建てました。多くの先生方の中でもガルストは大きな足跡を残しました。この人は、陸軍士官学校出身、191センチの巨漢、教職のための教育は受けていない。先輩格のスミスと共に秋田へ赴任する。鉄道も開通していない僻地。三菱の汽船「住之江丸」で東から津軽海峡を経て秋田。
ガルストは、県内を歩き回り、栄養不良の子どもが多いのに驚き、一年後の1885年から乳牛を飼うことにする。後年この地方で伝道した一牧師によれば「今日、昭和の初期、東北地方でヤギや乳牛が飼われ、その飼料としてクローバーが植えられるようになったのはガルスト先生が始められたものであった」。
やがて山形県鶴岡に移ります。そこでは日本の税制を研究します。そして単税論を主張し、知られるようになります。「土地は天からの授かりもの、その土地を占有する地主が不当に高所得を上げ、小作農が極貧に追いやられているのは正しくない。課税はこうした地主に対してなされるべきだ」。日本史では「単税太郎・ガルスト」として出てきます。
1898年12月28日、天に召されます。遺言を求められて答えました。
「私の生涯が私の遺言です」My life is my message.
伝道は、アレをする、コレをする、という類のものではありません。その人の生き方が語ります。
現代の日本社会は少子高齢化が進んでいます。教会の礼拝出席者の中にも、私はもう年寄りだから何も出来ません。ごめんなさい、と言われる方がいます。歳をとったら何も出来ないのでしょうか。教会は、老人を無能、何も出来ない者として切り捨てるのでしょうか。とすれば、私も間もなくその一人、それでは困ります。仏教徒の家から出て、キリスト教徒になったのに棄てられるのでは本当に困ります。これは福音ではありません。
旧約日課は歴代誌下15:1〜8、詩篇は69:17〜22です。いずれも主を求めなさい、ということが語られます。礼拝です。私たちが主イエスを求めて礼拝をするとき、主は答えてくださいます。礼拝する姿を神も、時代の人々も見てくれるのです。そして聖霊が実りを与えてくださるでしょう。