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2006年6月4日

《聖霊の賜物》

説教者:
牧師 持田行人
聖書:
マルコ福音書3:20〜30

日課 ヨシュア記1:1〜9、使徒1:1〜11、詩篇122:1〜9

今日はペンテコステ、五十日祭、教会の誕生日、聖霊降臨日、使徒言行録2章の初めに記される出来事が起こったときと言われてきました。何故でしょうか。
今朝は、与えられた主題と教会暦を中心に、すでに良くご承知のことでしょうが、もう一度ご一緒に考えてみましょう。学びましょう。

 12人の弟子たちがいました。その一人 ユダは、自死しました。その代わりにマッテヤが選ばれ、12人の仲間になりました。その理由、基準などは、今回、残念ながら割愛します。この12人を初めとする弟子たちの群れは、ユダヤ人たちの迫害を恐れていました。ガリラヤへ帰りたかったことでしょう。しかし、エルサレムを離れないでいるように(言行録1:4)、という主の言葉に従い、エルサレムにとどまります。この辺は福音書によって異なりますが、初期の伝承の違いでしょう。いろいろなことが起こり、すべてが伝えられたわけではなかったようです。人によって知っていることが違った、ということです。
言行録は、聖霊によるバプテスマが授けられることを約束します。そして、主イエスは、弟子たちに「ユダヤとサマリヤの全土で、また地の果てに至るまで、わたしの証人となる」とお話になります。

 この約束が現実化したのがペンテコステの日であり、私たちの教会の誕生物語になるのです。そのためには、次の言行録2章をお読みいただかなければなりません。これは、エルサレムにおける出来事です。弟子たちは、主イエスの約束をいただきましたが、いぜんとして、主イエスを十字架につけたユダヤの領主、祭司、律法学者、ローマの軍人、役人たちを警戒していました。もっとはっきり言えば、ユダヤ人一般に至るまで、民衆の力をも恐れていました。民衆の力は、弱いように見えますが、支配者たちの思いを超えて動き出し、とどまることを知らず、暴発するのです。どうやらでした知はそのような力を恐れていたようです。エルサレム市中の一軒の家に閉じこもり、祈っていたようです。その彼らに聖霊が下りました。炎のような舌が別れ別れに現れ、とあります。これは主イエスがヨルダン川でヨハネからバプテスマをお受けになった時と違います。聖霊の顕れは、人間的な思いを超えています.私たちの思い通りではありません。それで良いのです。

恐怖の中にあった弟子たちが、恐れから解放されて宣教を始めました。これが教会の第一歩です。それを見た多くの人々は、弟子たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ、と言って嘲った、と記されます。決して格好良いものではなかったようです。
それが最初の宣教です。

これはみ霊の働きの現れです。霊は眼に見えません。主がヨハネ福音書3:6以下で語られ、教えられたとおりです。風は見えません。その通る音、そよぐものの姿は見ることが出来ます。

今朝の説教題は、そのことを語るよう求められているようです。み霊の働きは何を起こすか、ということです。
先ず、恐れからの解放、解き放ちです。向こう見ずになることではありません。恐れを知らなくなることでもありません。恐れを感じつつ、それを乗り越える力が与えられることです。
次に、見聞きし、学んだことを語りだしました。黙っていられなくなりました。人間に対して、恐怖というものは大きな力を振るいます。人を縛り付け、心に働きかけ、闇に閉じ込めてしまうのです。み霊は、そのような人の心の状態をすっかり変えてしまいます。闇の中から光の中へ解き放ち、知る限りのことを証言する強さを与えます。

み霊の働きの顕れは、最初の教会が安息日規定からも解放されたことに顕れます。
ユダヤの律法は、非常に厳しく安息日を守ることを求めました。何事もしてはならない、ということが主体となりました。創世記2章の初めは、この日は、主なる神がすべての業をなし終えて休まれた日である、と語ります。同じように、人も休みなさい、とします。即ち、すべての労働から解放される喜びの日でした。私たちの心が、週末や祝日を喜ぶことと変わりがありません。律法主義は、それをしてはならない日としました。束縛のときとしたのです。それを教え、守る人が権威ある者とされます。出来ない人は退けられます。格差社会の出現です。

み霊は、人々の中に信仰を惹き起こします。み霊によらずに、イエスは主なり、と告白することは出来ません。み霊について、様々なことが言われます。ハトのように、火のように、舌のように、などです。依然としてその実体は、私たちの眼には見えないもの、としか言えません。その働きの結果しか見えません。

み霊は信じる者たちを一つにします。そのために必要なことは、他の人々の言葉を聞き、それを理解することでした。言行録2章の記事は、多言語奇跡、と呼ばれます。イスラエルが、バビロン捕囚を経験してから、随分時がたちました。故郷を失い、他国で生活するようになって、たくさんの月日が経ちました。外国生まれのイスラエル人も大勢になりました。彼らは祖国を忘れないように、故郷を憶えているように願い、毎年過ぎ越しの祭りに合わせてエルサレム詣でをしました。
ですから、この時期イスラエル中に、エルサレム中にたくさんの国の言葉が飛び交っていました。大阪は道頓堀、心斎橋あたりが同じ状態です。同じような顔、服装、すれ違う時、ハッとする.あれッ、日本語ではない。私の知らない言葉、理解することは出来ません。
エルサレムでも、この日、同じことだったはずです。大勢の人々がいる。しかしその出身地は違う。皆不安を持っている。心配している。み霊は、人々のうちに働いて不安を、心配を取り去り、集中して聞くことが出来るようにしました。不安や焦りは、人の心の理解力を奪います。低下させます。み霊はここに働きかけました。

創世記11章、バベルの塔の物語と全く逆のことが起こりました。あのところでは、通い合っていた言葉が通じなくなり、人々は混乱のうちに全地に散らされました。高い塔も建てられなくなりました。

ペンテコステは逆です。それぞれの故郷の言葉は、本来通じなかったものです。今や突然、知らない言葉で話しているのに、その意味を理解することが出来るようになったのです。言葉が通じたときには、感動を覚えるものです。大勢の人々は感動を共有しました。
タイガースの優勝で大阪の人たちが分かち合った感動です。ワールド・ベースボール・クラシックで日本チームが優勝したとき、サッカー世界選手権出場を決めたときの国内の熱狂振り。普段関心を示さない人たちも参加して盛り上げたあの心でしょう。

 今この世界の中で、私たちが少しずつでも、他の人の発言に耳を傾け、聞こうとするなら、み霊自ら働き、大きな実りに至らせてくださるでしょう。

 教会の存在は聖霊の働きの明らかな顕れです。その教会には、平安と相互の理解が共有されているはずです。言葉の通じない外国人が来たとしても、その礼拝で平安と相互理解を感じるのです。
安息日の変化もそうです。週の初めの日に変わりました。禁止される制約の時から、讃美と感謝の日に変えられました。
共感と奉仕の教会が形成されることは、み霊の働きが今ここにあることのしるしです。
そのゆえに、私たちは全国の諸教会と一つになることを祈り続けます。
慰めと望を共有する教会を形作ることが出来ますよう祈りましょう。