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2006年5月21日

《父のみもとへ行く》

説教者:
牧師 持田行人
聖書:
ヨハネ福音書16:12〜24

教会暦に基づく連続説教について、もう一度お話したほうがよさそうです。
私たちの教会の、最近の傾向は、連続講解説教でしょう。説教者の恣意的な選択によらず、聖書を、そのままの順序で、出来るだけ私的な感情を交えず、聖書そのものに語らせる。これが、大方から受け入れられてきました。確かに良い方法です。しかしそのために、教会が長い歴史の中で生み出してきた教会暦が全く無視され、顧みられない、ということが起きてきました。
 クリスマスを待つ季節なのに、何の関係もない説教をしている。いや、そんなことはない、と言いたいのです。しかし、そのことをすっかり忘れて、聖書の釈義を一生懸命している、というようなことが現実なのです。皆が一緒に心を一つにする良い機会なのに、と考えると「暦」も大事にしたいものだ、と考えます。信仰生活の流れを大切にする、と言うことです。短歌を詠む方々が、調べがある、と言われることと通じるように感じます。

 教会は、長い伝統・歴史の中で教会のカレンダーを生み出しました。それは様々な配慮の結晶と言えます。何よりも単調になりやすい信仰生活にリズムを与え、メリハリをつけました。そして、教会の教義を、暦を通して教えることが出来るようにしたのです。これは大変な知恵だ、と感じます。私たちはこれを宝として重んじて行きたいものです。
欧米の教会は、教会暦に基づく説教の伝統が有り、その説教が財産として残されています。
 神学校の説教学や説教実習の時間に、そうしたものが取り上げられました。同じ聖句による説教がいろいろ遺されていて、それを読み、学ぶことが出来る、これはありがたいことです。もちろん、自分で説教を作らず、そうしたものに頼る人もいるでしょう。そのほうが好い説教であることもあるでしょう。しかし説教は、先ず説教者が最初の聴き手になり、聞いたことをその会衆に向けて語るもの、と考えています。一期一会であり、茶花のように、その時だけのものと考えます。参考にはするが、そのまま持ってくるような事は出来ないものでしょう。学校の論文、レポートとは違います。

 教会暦によると、主日には、福音書、旧約、詩篇、新約の四箇所が挙げられます。
これらは、無関係なものではなくて、その主日の暦の上での主題に基づき、関係あるものを選んでいます。逆に言えば、四つの聖句を丁寧に読み、その間の関係を見出すと、その主日の意味が明らかになる、ということです。
ここでも聖書自身が語り出します。僕聴く、主語り給え、という心で説教に取り組みましょう。説教者は最初の聴き手です。聴いたことを正しく、恐れることなく、率直に語ることが出来るように祈ります。祈ってください。
本日の日課は、ヨハネ福音書16章12節から24節です。小見出しの着いた段落の途中から始まるようになっています。あまり気にしないで下さい。いつも申し上げるように、章・節は、始めはなかったものです。後の人が、印刷の都合上急いでつけたものです。大変便利ですが、それ以上大きな意味を持たさないようにしましょう。

 先ず、真理の御霊が来る、と語られます。
主イエスは、あなた方に語るべきことはたくさんある。しかし、あなた方は、今それを理解することは出来ない。だから、もはや語ることを止める、と言っているようです。すでに十分語ったので、重ねて語るのは辞めにしよう、というぐらいでしょうか。
 これまで語り、教えたことで十分です。あとは、真理の御霊が来て、それを理解させてくれるでしょう、と約束されるのです。
主は、「その方は」と言うことで、非常に人格的なものとして表現されました。御霊は、それ自体力を持ち、人々の只中で働かれます。語り伝えます。告知します。

13節、ト プニュウマ テース アレセイアス、これが真理の御霊です。真理の御霊とは一体なにを指しているのでしょうか。真理の付属でしょうか。真理へ導く力でしょうか。
ここで言われていることからすれば、すべての真理へと導き、理解させる力であり、それは神から送られるものである、ことになります。
 真理の御霊は、それだけではありません。人々の中に喜びを惹き起こす力を持っています。悲しみ、嘆いている人々が、喜びに満たされ、誰もそれを奪い取ることが出来ないようになります。

 御霊の働きについては、様々なことが言われてきました。とりわけ聖霊体験について。
聖霊はハトのように下ってくるものだ、それを体験した。あなたも早く体験しなさい、などと言われます。聖霊の働きかけは、ひとつの形ではありません。人により、時によって異なります。イエスを神の子、救い主と信じ、喜びに満たすように働くものはすべて聖霊の力です。を体験しているのです。私たちは、様々な形で、今も生きて働く神の力、聖霊を体験しています。喜び、感謝しましょう。讃美しましょう。
ペンテコステ、聖霊降臨日に向かっていることを憶えさせる。
御霊の働きによって、私たちは隠された神の秘儀・秘密・ミステリーを理解するようになります。とすると私たちは、強くなり、完全なものになるのでしょうか。そのような主張もあるようです。しかし、使徒パウロは、もっと違うことを書いています。新約の日課は、ローマ書8章です。新共同訳284ページです。
ローマ8:22〜27、 簡単に言えば、“御霊”も弱い私たちを助けてくださる、ということです。ここでは、被造物という言葉で、私たちすべてを指し示します。それは、神の子とされることを待ち望んでいる者たちです。自分の力ではどうにもならないことで苦しみ悩んでいる、呻いている。その私たちを霊も助けてくださる、といいます。
?コリント1章、冒頭で「慰めに満ちたる神」という言葉が繰り返し用いられることで有名です。聖霊なる助け主がいる、それこそ慰めなのだ、ということが大変力強く語られています。
ここで用いられるのは、パラクレートスという言葉です。元来、法廷用語だそうです。パラカローという言葉で、側に呼ぶ、呼び寄せて弁護させるような意味で、弁護人を指して用いられました。そこから、勧告、慰めなどの意味になりました。それが教会の歴史の中で、聖霊を指す言葉へと変わって行きました。
御霊は、真理へ導き、理解させ、喜びに満ちさせます。更に私たちのために執り成しをしてくださるのです。
真理はおのずから知られることを欲す、と言われます。しかし知られてもなかなか受け入れられない、と言うのも真理の特徴です。人は自分にとって都合の良いことしか認めないのです。

旧約聖書では、アブラハムがソドムの町のために執り成しています。これがもう一つの日課です。
創世記18:22〜33、アブラハムがソドムの町のために執り成す箇所。
神は、正しい者と悪い者を一緒に滅ぼすことはしない。50人から10人まで値切りますが、基本はただ一人でも正しい者がいれば、滅ぼしはしない、ということです。
しかし結局、ソドムは滅びます。ただの一人も正しい者はいなかったのです。ソドムは特別な町でしょうか。現代世界の通常の姿になっては居ないでしょうか。

四つ目の日課は詩篇です。
詩篇15:1〜5、主の幕屋、その聖なる山に住まう者は誰か、それは義人です。
唯一のまったき義人、神にあって堅く立つことこそ義人の姿。
宿る、住まう、は神に対する場合 神の保護と支配の下に立つことである、と考えます。
2節の「全く」は完全を意味します。心の問題だけでなく、「義を行なう」こともふくみます。さて、私たちは、このような義人でしょうか、主の幕屋に住むことが出来るのでしょうか。ソドムのような現代において、私たちの誰も主の幕屋に住むことは出来ません。私個人の力では出来ません。甦った主イエスがこの地上を去った後、助け手として御霊が来るのはそのためです。悪人、罪人を救い、義人と看做すために、執り成し、真理へと導き、真理を理解させ、悲しみ・嘆きを喜びと讃美に変えます。
 主イエスは、この地上を去って父のみもとへ行かれます。それは私たちの喜びが満ち溢れるためなのです。讃美しましょう。