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2006年5月14日

《神の民》

説教者:
牧師 持田行人
聖書:
ヨハネ福音書15:1〜11

出エジプト記は、エジプトの地で奴隷となってしまったイスラエルが、唯一の神を礼拝することを求めて脱出し、カナンの地まで40年間、荒野をさまよう物語です。荒野の40年を、神礼拝のための訓練期間である、と記す学者がおられます。まことに意義ある言葉です。知っている積りであっても、まことの神礼拝には、訓練が必要である、と教えられます。
この19章の初めには、主なる神が、イスラエルに対しどれほど大きなことをなされたか、鷲の翼に乗せて、という印象的な言葉で記されます。申命記32:11に、鷲が雛を翼に乗せて運ぶことが、神のイスラエルに対する導きの比喩となっています。鷲がその雛を翼に乗せて運ぶように、神は奴隷のイスラエルをその掌に載せて持ち運んだ、ということでしょう。礼拝招詞は、イザヤ書46:4です。それを思い出していただくと良く分かります。何らの功績もない奴隷の民をエジプトから導き出されたのは、神の恵みに基づくものです。
エジプトやバビロン、カナンの神々は大勢だけれども、何も力はない。その信じる者を持ち運ぶよりも、自らが背負われ、載せられ、持ち運ばれる。
イスラエルは、このことをよく考えるべきです。あなたがたの神は、真の神であり、確かにその民を持ち運ぶことのできる神なのです。聖書は、抽象的なことを書いているように思えますが、イスラエル人にとってはそうではありません。歴史的な出来事の上に立っておられる神を語るのです。非常に具象的、現実的な神です。

イスラエル人は、民族を考えるとき、その神を考えるとき、必ず出エジプトという歴史の中に顕れ、立ち働き、イスラエルを守り導き支えた唯一の神に思いをはせるのです。本日の詩篇もそうです。95篇を御覧下さい。天地創造から荒野の40年間が歌われます。そこでは、イスラエルの失敗が指摘されます。神は怒り、「彼らをわたしの憩いの地に入れないと誓った」と記されます。その地に入れることのおできになる神だから「入れない」と言えるのです。神の憐みは、このような罪のイスラエルを、約束の地へと導かれました。
「わたしの道を知ろうとしない」「心の迷う民」を神はどうされたでしょうか。結局約束の地、カナンの地へと導き、永遠の嗣業としてお与えになられました。

そしてもう一度、出エジプト19章です。
神の恵みを思い、「その契約を守るなら、イスラエルは諸民族の間にあってわたしの宝、祭司の王国、聖なる国民となる」。これは宣言です。
「祭司たちの王国」は、イザヤ書61:6にやや似た形で現れますが、他にはみられない考え方、表現です。祭司たちが神に近付くことが出来たように、諸国の中でイスラエルだけが神に近付くことが出来るという意味でしょうか。
これは、バビロンからの帰還後の祭司主導の状況とよく合致します(エズラ、ネヘミヤ)。更にマカベヤのユダで有名な祭司一家、ハスモン王家の支配とも合致します。それらを預言しているようにも考えられます。逆に、それを正当化するために挿入したのかもしれません。写本を読む力はありませんので、判断できません。「聖なる民」を考えましょう。
「聖なる民」、申命記7:6、14:2で「所有、占有物の民」と「聖なる民」が並んで出てきますが、「民」を意味する言語は異なります。なお、「聖なる民」はそれ以外にも、申命記14:21,26:19,28:9にもあります。清らかさではなく、神のものであることです。
祭司たちの王国、聖なる民とする、いずれもイスラエルに対して、契約を守るならばわたしの民となる、と語っています。

今朝の福音書は、先ほどお読みいただきました。
この部分は、第二の告別説教と言われます。その直前、14:31には問題があります。
「立て。ここから出て行こう」と記されます。ところが、15,16章へと話は続きます。
この結びの言葉は、18:1に続くものと考え、読むと繋がりが良くなります。
15,16章は第二の告別説教、17章は結びの祈りです。ある人は、大祭司の祈り、と呼びました。とりなしの性格が強いことによるのでしょう。

 さて、この箇所は、ぶどうの木と枝の譬としてよく知られています。
ぶどうの木に限らず、命をもつ植物は、根から幹、枝から葉の隅々まで繋がりがあります。
御殿場から甲府へ行くことがありました。富士山の東の肩、籠坂峠を越えると山中湖、標高1000メートルにある美しい湖です。その湖畔の道を走り、忍野を抜け河口湖。御坂峠を超えて勝沼を目指します。太宰治が「富士には月見草が良く似合う」と書いたのは、この御坂峠の天下茶屋であったと伝えられます。太宰の死後、井伏鱒二らによって石碑がこの所に建てられ、よく知られるようになりました。今はトンネルが出来て、茶屋も廃れていることでしょう。勝沼は、すでにぶどうの名産地。街道沿いにお店があり、ブドウなどを直売しています。見上げるほどの高さの巨木もあります。どれ程あるでしょうか。そのお店の上一杯に広がっています。はしごが用意されています。話を伺うと、ぶどうは枝を張るのと同じほど根を張っている、とのことでした。驚きでした。見上げているその足元にぶどうの根がうごめいているような感じになります。それほど大きく根を張らないと、枝葉の先まで養分を取り入れることが出来ないのです。
 ゴールデンシーダーと呼ばれる木があります。杉の仲間でしょうか。幼稚園の庭に植え、育てようとしました。1.5メートルほどに伸びた時、クリスマスが来ました。私は病後で、教師に任せていました。この木の枝振りがよいのでクリスマスとリーにしたい、と言って教師が抜いて鉢植えにしました。もう大失敗です。戻せません。この木はまっすぐ下に向って根を下ろします。横ではありません。この木は移植が難しいのです。
 主イエスがお話になっているのは、こうしたことです。
ここでは、皆が良く知っているのでぶどうの木を譬に用いました。
いつの頃からか、大塚の家にはぶどうの木があります。昭和25年ごろからこの家で生活しました。庭にデラウェアー種のぶどうが一本あります。これは父が、戦争の終わった頃、焼け跡から拾ってきたものだそうです。母方の祖母と子ども(私には叔父)が何人も大空襲で亡くなりました。その近くから、と聞きました。戦没者を追悼する気持ちがあったのでしょう。今もなお生き続け、実を結んでいます。
 
ハリウッド映画『十戒』で、エジプトから脱出したイスラエル人たちの行列が描かれます。その中にロバの背から袋が下げられ、その中にぶどうの木が入っているのを見ました。
映画の作者たちは凄い力を発揮します。随分勉強させられます。もちろん、これは一つの解釈と言ってもいいでしょう。しかし面白い。エジプトのぶどうの木を持ち出し、約束の地で育てよう、と言うのです。長年エジプトで育ててきて、その様子は分かっている。育てることは出来る。それにしても40年間は予想外です。40日程度、と考えていたはずです。
エジプトと同じ種類のぶどうでしょうか。カナンの地のものかもしれません。ぶどうの原種、原産地はカスピ海のほとりと考えられています。イスラエルでは、結実する7月から9月は乾燥期で、太陽の恵みを豊かに受けて甘くみずみずしい実が取れます。干しぶどうやワインにします。アブラハムの時代はもちろん、それ以前にも好まれていたことでしょう。

 主が語られることは、今日の私たちのことです。
つながっていなさい。そうすれば、多くの実を結ぶことが出来る。離れてしまえば、何も出来ないのです。枯れて捨てられるだけです。焼かれるでしょう。灰になり、肥料になるのでしょうか。「何も出来ない」と言う言葉には冷たい響きがあります。もう少し慰めと希望が欲しい、と思うのは私だけでしょうか。出来ると思いたいのに主は、できない、と切って捨てるのです。出来るというのは、私たちの思い込みなのです。知っている、と言うのも同じです。知るべきことすら知らないのです。

 そうです。つながっているとはどういうこと、状況なのでしょうか。
主イエスの愛のうちにおることです。格別、何かが出来るようになることではありません。愛されているその愛の中にとどまることです。そうするとき、あの愛の掟が私達のうちで醸成されるのです。そして、喜びが満ち溢れるようになるでしょう。
これが祭司たちの王国、聖なる国民なのです。そのことを使徒ペトロは、第一の手紙2:1〜10で詩篇95を引用しながら語ります。
 人々に捨てられているような者たちよ、あの方のもとに来なさい。
招かれているのです。応えましょう。更に、招く者になりましょう。