前週は、神山教会のご奉仕でした。送り出していただき有難うございます。また留守中のご奉仕、柴田牧師にも感謝申し上げます。お蔭様で、良いご奉仕が出来ました。
駿河療養所は、25年前、400人ほどの方たちが生活していました。今は130人あまり。神山教会の礼拝も、かつて15,6名は居たものが良くて5名程度です。今後もお支えいただきたく願います。
神山でも、玉出同様聖書日課に基づく説教を致しました。ヨハネ福音書10:7〜18による《まことの羊飼い》という主題です。神山と玉出がひとつのみ言葉を共有することを願っていますので、他日何かの機会にお話したいものです。
さて今朝は、受難前の光景に戻ります。過越祭の前に弟子たちと食事をした時のことです。食卓で受難の予告をされ弟子の足を洗い、イスカリオテのユダには出かけてなすべきことをなすように促しました。
ユダは裏切ったのでしょうか。
「裏切り」には、倫理的な評価がこめられています。悪行です。
ユダの行為は、文字通りには「引き渡した」、ということです。これが第一に申し上げることです。より客観的に考えた方が宜しい。
最近、新聞に関心をそそられる記事がありました。お読みになった方も多いかと存じます。ワシントン発の外電ですので、大きな新聞にはすべて載っていただろう、と感じました。私は朝日の夕刊です。
見出しでは「ユダ、イエスを裏切らず」とあります。これだけでも十分刺激的です。
1700年前の「ユダによる福音書」の写本が、鑑定され、解読された、というものです。
科学的な鑑定結果は、紀元220年〜340年頃のものとされました。更に文章の構造、文法、書体などの分析結果も、3〜4世紀のもので後世の修正は加えられていない、と結論しています。
この文書は、初め70年代にエジプトの砂漠で発見され、古美術商がアメリカの銀行の金庫に保管していたものです。パピルス紙13枚の表裏に、コプト語でインクを使って書かれている。紀元2〜3世紀にギリシャ語で書かれたものを翻訳した、と考えられる。約5年をかけて、一千の断片となっているものを、ジグソーパズルのようにつなぎ合わせ、約8割を解読した。
結論は、ユダの福音書であり、イスカリオテのユダが、師イエスと秘密裏に交わした会話録である、とされました。
ユダの裏切りとされる行為が、実はイエスの一番弟子としてイエス本人の依頼に従い、「救済」を完成させる役目を担った善行だったと主張している。
これに対して新約聖書学者のクレイグ・エバンズ氏は、朝日の取材に答える。
「この福音書が描くイエス像は異端とされた『グノーシス派』の信仰に基づくもので、歴史的な事実を反映しているとは私は考えない」と。
裏切りの悪行から依頼どおりの善行まで、随分開きがあります。
この新聞記事をお読みになった方は、これまでの評価との違いに困惑されたかもしれません。私は、あまり驚きませんでした。むしろ、1700年前にこうした異なる考えがあった、許容されていたことに安心を感じました。青年時代、ユダの裏切りについて考え、仲間と討論したことがあるからです。討論まで行ってはいないでしょう。でも心に残っています。
ユダの行為がなければ、イエスの十字架はなかった。ユダは救いの成就の功労者ではないか、と。ユダが裏切らなければ、他のものが引き渡す役を担ったに違いない。少なくとも、今日の私たちは、そう簡単にユダを『裏切り者』と言って断罪することは出来ない、と考えました。そのおかげで私の罪の許しがあるのなら、用いられたユダに対して感謝があってしかるべきだし、身を投じたユダのために涙してもおかしくはなかろう、と思います。少なくとも、ユダを裏切り者と呼ぶのではなく、引き渡した者、と考える方が良い、と感じます。
主が、これに引き続き掟を語られたのは、当然と考えられます。
その前に、31節、「主が受けられる栄光」という言葉を考えましょう。
ユダが出てゆくと、「今や、人の子は栄光を受けた」と言われました。この栄光とは何でしょうか。私にとっては非常に判りにくい言葉です。神に関わる言葉だからだろうか、と感じます。それは、私の日常生活からは遠く離れた、神秘的な内容を持っているのです。人間の言葉では、上手に表現することに困難を感じるのです。
それでも無理やり言葉を当てはめてみると、置き換えると、神が神として崇められること、となります。どの様にして、それは達成されるのでしょうか。
第一に、イエスの十字架によって。人が自己を犠牲として捧げるとき、その栄光は不朽のものとなります。その人は、後の世の多くの人によっていつまでも讃えられるでしょう。
第二の栄光も、十字架によってもたらされます。イエスは、この杯を過ぎ去らせてください、と祈りました。しかし、みこころならば、と言って、十字架への道を進まれました。この従順こそ栄光をもたらすもの、神が讃えられる基になりました。
第三に、イエスが最も低くなられたことによって、神は栄光をお受けになります。神の愛する独り子が、まったき人の姿をとられたことによって、神は讃えられます。
第四に、十字架にかけられた主イエスの甦りによって、命の主たる神は讃えられるのです。
第五に、イエスが贖いの供え物になったゆえに、神は和解の主として讃えられます。
それは、第六を導き出します。罪びとは神に対し背を向けるしかありませんでした。しかし贖いが受け入れられた故に、神への道が開かれました。祈りをもって神と交わることが出来るのです。
そして最後に、天高く上げられる主イエスによって神は讃えられるでしょう。
一見すると敗北にしか見えない受肉と十字架が、神の栄光の源になりました。そして、栄光はみ子、イエスに与えられるのです。父のものはすべて子のものだからです。
「人の子」とあります。ここでは主イエスご自身を指した言葉です。神が神として讃えられるとき、御子イエスも正しく讃えられるのです。
これはすべて、ユダが出て行くことによって、確かなものとなったのです。
誤解を恐れながら、あるいは、間違っているのではないかと畏れながら、大胆に語りましょう。わたしには、ユダは裏切ったというよりも、師匠であるイエスを祭司長たちに引き渡すために出かけたと考えます。それは自らは悪人、裏切り者と呼ばれても、イエスによる救いが確立するなら犠牲となりましょう、というものだったのです。これは、イエスへの愛であり、多くの人に対する掛け値なしの愛なのです。
イエスは、そのユダの姿を見ながら、弟子たちに愛を教えました。
愛は自分の義を打ち立てることから遠いものだよ、と言われたのです。
今日の日課には、出エジプト19:1〜6が置かれています。詩篇95:1〜11も?ペトロ2:1〜10も同じ箇所を基にしています。掟を守りなさい、そうすれば、あなた方は私の民、私はあなたがたの神となります、という約束です。
?ペトロ2:10は、ホセア2:25からの引用です。
「かつて民でなかったものが、今は神の民であり、憐みを受けていないものだったのが、今は憐みを受けたものなのである」。
何らの功績を持たないものが、ただ神の憐みによって神の民とされるのです。愛することも功績ではありません。愛そうとする者たちに神の憐みが潅がれるのです。辛い仕事を果たそうとするユダへの、深い憐みの眼差しが感じられます。
鵜飼猛(伝道者)1865〜1948、メソジスト教会。銀座、鎌倉の牧師。勇は息子(銀座)。
「忘れじと思い定めつ忘れまじ 神のめぐみと 人のなさけは」、1948年5月6日帰天。