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2006年4月2日

《十字架の勝利》

説教者:
牧師 持田行人
聖書:
マルコ福音書10:32〜45

前回までは、「連続講解説教」と思しき形をとってきました。厳格な意味で講解をしてきたか、ということには、私自身、疑いを持っています。聖書が語るところを、今日の自分の言葉で語り、福音の言葉を紡ぎ出す、という願いを持って説教してきました。自分の好みで聖句を選ぶのではなく、定められたところに基づくことを考えてきました。

本日からは、教団の聖書日課に基づく説教を試みます。と言っても、礼拝に試験とか実験が許されるはずもありません。とはいえ、試行錯誤の繰り返しであることも事実です。
聖書日課は、教会暦に基づき、聖書通読にも役立つように、というかなり欲張りな性格を持ちます。特に主日の日課は、旧約聖書、福音書、その他の新約聖書、詩篇から選ばれています。これは信徒の友・日毎の糧を御覧いただくと分かります。
本日を例にとりましょう。旧約は哀歌3:(1〜9)18〜33、新約はローマ5:1〜11、福音書はマルコ10:32〜45、詩篇が22:25〜32.そしてタイトルがあります。《十字架の勝利》がそれです。
 どのような意図でこれらが選ばれ、タイトルが付けられたか、私にはわかりません。偉い先生方が、ご苦労なさったものでしょう。それを利用させていただくことで、全国の信徒と同じ聖書の箇所を読むという恵みに与りたいと願います。

 連続ではありませんが、私の説教の基盤は「聖書」にあります。不十分かもしれませんが、聖書を読み、私たちに語られるメッセージの、最初の聴き手になることを求めてまいります。

 マルコ福音書10章を読んで参りましょう。先ず32節から、受難と復活の預言が語られます。場面はエルサレムへ登る途上です。「登る」、これは地理上の様子を表します。エルサレムという町は、この周辺で最も高い場所です。同時に、ここは神殿のあるところです。古くから礼拝所のあるところを、高き所などと呼び習わしています。信仰的な意味で高き所、それがエルサレムです。
 同じことがルカ福音書19:41では、もう少し違うことを含めて語られます。
「エルサレムに近付き、都が見えたとき、イエスはその都のために泣いて、言われた。『もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら・・・しかし今は、それがお前には見えない。やがて時が来て、敵が周りに堡塁を築きお前を取り巻いて四方から攻め寄せ・・』。
どうやら、このルカの記述がマルコを補ってくれるように感じます。ルカもそのように感じたからこそ、19章に自分だけに伝えられたことを書いたのでしょう。大勢の人が同時に経験したことでも、それを記憶する人、しない人に分かれてしまうものです。知っていてもその値打ちをどの様に考えるかも違うものです。
 
主の態度、姿勢そして語られたことが普段とは違っていたので弟子たちは驚いています。誰かがそれを記憶しており、ルカにも語ったのでしょう。そして、ルカはそれを特別なこととしてここに記したのです。
語られたことは、第3回目の受難予告です。「死と復活の予告」です。三度、同じことを語るというのは、かなり執拗なことです。内容も喜ばしいことではありません。弟子たちにとっては驚きを通り越して、不可解な気持ち悪いことに違いないように感じます。文字通り、非常な覚悟を持ってお話になっておられるのですが、弟子たちも今は理解できません。
主ご自身、それは期待していません。ことが終わった後になって、アアこのことであったか、と分かることを願っています。

35節以下には、ゼベダイの子ヤコブとヨハネが登場して、先生であるイエス様に何事かをお願いします。彼らは、イエス様の栄光の時にその右と左に座らせてください、とお願いしています。他の弟子たち、仲間を出し抜いて、権利を確保しようとしたようです。
「吾もよけれ、人もよけれ。されど吾は人よりちとよけれ」。
私たちの間でも良く見られる姿が此処にも見られます。
主は彼らに対して、明言されます。「お前たちは、何を求めているのか判っていない。その時には、私が飲む杯を飲み、私が受けるバプテスマを受けることになるだろう」。
これは主が、ヤコブ(使徒12:1〜2)とヨハネが後に殉教の死を遂げることを預言されたもの、と信じられています。
そして、私の左右に座ることは、私がすること、決めることではない、と言われました。
ここで出し抜かれた10人の者たちとの間で争いが始まります。自分のことだけを考える人のいるところでは、他の人もそれと同じ姿勢をとるために、常に争いになります。
ヤコブとヨハネは言い出した者たち。他の10人も、同じ望みを抱いていたことが明らかになりました。

 そこで、42節以下のイエス様の話になります。ある意味ではとても分かりやすいものです。今日の世界、我々の社会と同じことが下敷きになっているからです。
この国家、民族の中では力のある者が力による支配を行っている。弱い者、力のない者は従うしかない、服従するのだ。現在の世界はこうして成り立っている。しかし、あなた方、弟子たちの間ではそうであってはなりません。偉くなりたいと願うなら、上に立つものになりたいと願うなら、みなに仕え、すべての人の僕になりなさい。そうするのは、人の子もまた仕えるため、多くの人の身代金として自分の命を捧げるために来たからである。
この(人の個は、いろいろな使い方がありますが、ここでは、主イエスご自身のことです、と申し上げておきます。
弟子たちとは、キリストから学び、それに倣う者たちのことです。私たちの教会は、ディサイプルス教会の伝統を引いています。「弟子」という意味です。
 
このところの言葉に注意を向けざるをえません。私たちは何を学び、何を倣う者たちなのでしょうか。

「十字架の勝利」、これは形容矛盾と言わねばなりません。おかしな言い方です。
十字架は犯罪者の死刑方法であり、決して良いもの、麗しいものではありません。罪と汚れ、汚辱と無力の象徴です。悪意と憎悪が見え、敗北と苦痛の極みがあります。そこには喜びや輝きのかけらさえ見えません。イザヤ書53章や詩篇
何故これが勝利に変わってしまうのでしょうか。
「神の痛みの神学」を書いて有名になった北森嘉蔵先生は、後に「絶妙の真理」という御本を残されました。その帯にこんなことが書かれています。
「聖書の中の奇妙な話、珍妙な話が、是と妙の真理として顕れるために、聖書はどう読まれなければならないか」。
 私たちは、聖書とか、教会というものに慣らされてしまいまして、聖書は真理であり、教会の信仰の規範、正典であるからおかしなこと、奇妙奇天烈なことなど書かれているはずもない、と感じるようにされてはいないでしょうか。ところが、北森先生は、聖書に書かれていることは奇妙珍妙なことであり、教会はそれを絶妙な真理となるように、読み解かなければならない。読み解く責任がある、と言われるのです。

 「十字架の勝利」なども将にそうした奇妙なことの一つです。初めての方が、これを聞いたらびっくりするでしょう。もっとも、アクセサリーとしての十字架に慣れ切ってしまって、なんとも感じないかもしれません。
 敗北の象徴のような十字架が勝利になるために、二つのことが重要です。
誰が偉いとか、偉くないとか評定するのか、と言うこと。私たち人間ではありません。
イエス・キリストの父なる神が評定されるのです。見えないものも見られる神が見ていてくださる。
基準は何か、と言うことです。自分のために他の人を利用するのではありません。
むしろ、自分自身を他の人の利用に提供することでしょう。そんなバカな、と思う方もあるでしょう。しかし、主が言われているのはこのことです。仕えられるためではなく、仕えるために、という言葉がそのことを示します。
 この逆転は、キリスト・イエスが立ちたもう時に、そのところで起こります。受け入れられ、主となりたもう所路、時です。主ご自身は、絶えず私たちの傍らにおられるのです