四旬節第四主日になりました。寒い冬もいつの間にか去り、窓を開けて外気を取り入れようとする季節になりました。それにしても風は、些か寒い感じがします。桜前線も描かれるようになりました。一日ごとに気温も上下しています。乱高下と言いたいほどです。どうぞお気を付け下さい。こうした中でご一緒に礼拝することが出来ることは何より嬉しいことです。感謝いたします。
ところで、昨年の四月からこの創世記を読み始めました。ちょうど半ばまで来ました。
この辺で暫くお休みにしようと考えました。最初に申し上げたとおりです。全50章は、少々長過ぎます。次聖日からは、教団の聖書日課に基づいた説教を試みる予定です。
私の記憶では、多分一度だけどこかで一年間しています。苦手な説教スタイルです。
しかし、教会暦を中心において教会を育てる意図を持っているので、一度くらい、してみるべきでしょう。
さてこの章は、イサクの物語です。新共同訳は、三部に分けて小見出しをつけています。
順に読みましょう。
最初は14節までの部分。「イサクのゲラル滞在」とされます。
この時代にも飢饉があったことが丁寧に記されます。カナン地方では、水を管理することがほとんど出来なかったのでしょう。今日のイスラエル共和国は、その問題をガリラヤ湖の水を大きな水道管で南へ引いてくる、と言う形で解決しました。それは同時に新しい問題を生み出しました。ガリラヤ湖の水源地帯をイスラエルの手によって管理しなければならない、ということです。ヘルモン山の南麓、パニヤスがその地域です。
馬場嘉一『聖書地理』P.203、にこのように記されます。
「ピリポ・カイザリヤは、フーレー湖の北北東18km、ヨルダンの東支流ナハル・バニアスに沿い、ヘルモン山南麓の高台地(標高329m)にあった町で、今日はシリア領に属している。ヨルダンの水源の一つをなす泉が湧出している洞窟(ムガーレト・ラース・ネバ=泉の洞窟)にはローマ時代にパンの神がまつられた。前20年ヘロデ大王がこの地を領有・・・ピリポ・カイザリヤと命名した。しかしギリシャ名パニアスをもってよく知られ、アラビア名バニヤースはそのなまったものである」。
レバノン、シリア、ヨルダンが、この水の利用権を主張します。折あらば権利を行使しようとします。イスラエルにとって、ほとんど全イスラエルの水源ですから、この水利権は譲ることが出来ません。余り報道されていませんが、この問題も現代のパレスチナ問題の一つです。
話を元に戻します。イサクは飢饉に際して、父親とは違う選択をします。エジプトへ行かず、ゲラルの王アビメレクを尋ねます。
ゲラルとは何処を指すのでしょうか?
地中海沿岸にガザと言う町があります。死海の中央部を西へ進み海岸に出たあたりです。
そこから東南へ降るとベエルシェバにいたります。その中ほどにあるのがゲラルです。
馬場嘉市氏の『聖書地理』P,52では少し違います。
「ゲラルはガザの南15?、ペリシテ平原にある現今のテル・エ・ジェンメである。ここからは火打石の刃をつけた鎌が80挺も出土し、古くから穀物収穫の中心地であったことを示している。ペリシテ人はここから穀物をクレテに輸出した。イサクがこの穀物豊穣地を追われたのは経済的理由から加えられた圧迫による。イサクはベエルシェバに移って安住を得た」。
このペリシテ人を相手に、アブラハムが、エジプトで妻を妹と偽った物語と同じ物語が、イサクを主人公に語られています。恐らくアブラハムと同じ存在であることの主張なのかも知れません。そのためでしょうか、神の祝福が事新しく告げられます。2〜5節です。
ゲラルの地に住めば神が守り祝福されるのです。
この祝福を受けながら、イサクはアビメレクに対して恐れを抱きます。まるで神が何らの力も持っていないかのようです。そしてアビメレクとその国民に対し嘘をつきます。
これは私たちが、日常的に行っていることではないでしょうか。信じている、と言いながら何も信じていないかのように恐れる。
バルトは、「信仰とは信頼である」と語りました。しかし私たちは、その日常生活では何も信頼せず、何も信じていないかのように振舞うことが多い。不安と恐怖に満ちている。
神は、このような私たちを放り出すか、と思えば然あらず。なおも背く私たちへの愛を明らかにされるのです。それがこの時期、レントの(受難の)出来事です。
嘘をついてでも自分たちを守ろうとうごめく私たちを愛したもうお方がおられるのです。
アビメレクは、イサクとリベカが戯れているのを見て、二人が兄妹などではないことを知ります。そして罪を犯すことのないように、国民のうちに命令を下します。
簡単に言えば、二人とそれに連なるものに手を出すな、ということです。
12〜35節、飢饉のあと、農業に成功、さらに牧畜にも成功。これは神の恵みの物語です。
しかし水争いが起こり、移住を余儀なくさせられます。その先でも井戸を掘ります。大成功です。17節に「ゲラルの谷」とあります。これはワディと呼ばれる涸れ谷を指します。
雨季には水が流れますが、乾季には一滴の水もありません。
井戸掘りの技術と井戸を維持する技術はたいそう難しいようです。古代の灌漑設備の優秀さは良く知られています。その技術水準を維持できなくなったとき、その地の文化が滅びてきました。
ここでも基本的にはアブラハムと同じ物語が語られています。
ペリシテ人はイサクたちが出てゆくことを求めます。実際は、その井戸を独占しようと考えたのでしょう。しかし技術を持っていませんでした。アブラハムの井戸も維持できなかったのです。砂に埋もれさせてしまったのです。
アビメレクとイサクは協定を結びます。これによって神がイサクに与えた祝福が実現します。ベエルシェバは、誓いの井戸という意味であると説明されます。同時に他の伝承によれば、多くの泉あるところ、と意味になります。二つとも正しいのです。この豊かな土地の状況をよく示しています。
この章の物語は、何を伝えようとしているのでしょうか。
聖書記者が、アブラハムとイサクの間で均衡をとることを、考えたのでしょう。
イスラエルの先祖として、アブラハム・イサク・ヤコブは常に対等に呼ばれます。
余りにもエピソードに乏しいイサクのために、記者は筆を加えたのでしょう。
イサクこそ神の祝福の分岐点であることが示されました。
アブラハムの子孫だからといって、その全部が子であるのではないからである。かえつて『イサクから出るものが、あなたの子孫と呼ばれるであろう』」。ローマ9:7
イエス伝について言われることですが、現代的な歴史学者が書くような歴史ではなくとも、すべてフィクションだ、と言うことは出来ません。どのようなこと、物語にも、必ず事実の核があるはずです。
イサクにとって事実の核は何でしょうか。聖書記者は、イサクを美化して書いていません。一つ一つの出来事は、アブラハムと同一であって、イサクの出来事としての印象は薄くなります。それにも拘らず、イサクが怖がりであり、嘘をつき、自己保身を図る人間であること。それにも拘らず祝福され、豊かになったことは事実として伝えられました。
それがあるから、イサクはイスラエルの祖先として、声高にその名が呼ばれるのです。
イサクから出たものだけが真正のイスラエルだ、とまで言われるのです。
神に信頼することを忘れるイサクにもなお、神の愛、神の祝福が注がれている、このことが伝えられてきました。感謝しましょう。
欄外
アビメレクとアブラハム、創世記20章・21章
ペリシテ人がアブラハム時代にレバンテ地方に居た、と信じる根拠はない。
アビメレク、サムエル記上21・22章、ノブの祭司
士師記9章、ギデオンとシケムに居た側女との間に生まれた息子。