イサクは、リベカを得て慰めを得た。
それに続いて描かれるのはケトラとハガルの系統によるアブラハムの子孫。
ケトラ系は南アラビア、ハガル系は北アラビアに広がる諸部族である。
イサクの結婚、その結果は、双子の男の子という形になった。
そして二人の間に大きな争いが生じ、その結果が注目される。
ここでもなかなか子どもが生まれない、という状況が描かれている。そして父親
であるイサクが神に祈る。サムエル期などでは、母親ハンナが祈っている。誰の
祈りでなければならない、という拘束はありません。
ここで強調されるのは、子どもが生まれるのは、神の業である、という考え、
信仰です。わが国においても「子は授かりもの」という言葉で表されてきました。
様々な医療努力が進められてきました。良い知らせに喜びを得た人たちが多いことを共に喜びます。
それでもすべてが、人間の思い通りになるわけではありません。医療努力の結実も神の御旨によるものなのです。
イサクは、「妻のために祈った」と記されています。跡継ぎの子どもがいないのです。自分のために祈るのではないでしょうか。しかし聖書記者は「妻のために」と語るのです。
これは、イサクの妻に対する優しさを示すものです。
サラの物語で見たように、この時代、子を生むことがない、ということは他の人々からの侮りを受ける基でした。召使からさえも侮られました。現代ではそのようには考えられません。自ら産まないことを選ぶ人もいます。産みたくても産めない場合、自分に課せられた特別な使命がある、と信じる女性も増えています。
そのような状態の妻リベカのために祈りました。自分の責任も感じているかもしれません。そうであっても、優しさであることは変わりません。
祈りは聞かれ、リベカは身ごもりました。
体内には二つの命が宿りました。元気よく動きます。身がもたない、と感じたのでしょうか、リベカは神の御心をたずねに出かけました。
そこで始めて双子を宿していること、兄が弟に仕えることになる、と告げられます。出産の時が来てそのことが確かめられました。当時は事前に知ることは難しかったのでしょう。
先に出てきた子どもは、毛深く色も赤かったとされます。ある翻訳者は「全身毛衣のようであった」と訳します。その名はエサウと付けられました。これは、後に彼が住まうことになる地域の名と一致します。また、赤いという言葉も、エサウの別名エドムと関わりを持ちます。
遅れて出てきた男の子は、兄エサウのかかとを掴んでいたので、「踵アケブ」に関わるヤコブと名付けられました。アケブの語根を用いて、神を示す「ヤー」を頭につけています。
二人は成長します。それぞれ個性豊かに育ちました。エサウは狩人で、野の人になります。エサウは父の後をついて羊を飼い、狩をする者となりました。古代においては当然のことなのでしょう。野の人という言葉は、粗暴で単純な野人を感じさせるものがあります。
この後を読むと、外れてはいない、と判ります。父親イサク特愛の子として成長します。
ヤコブは、穏やかな人、余り天幕の周りを離れなかったようです。ということは、母親の側を離れなかったことを意味しています。天幕の周りの仕事は何でしょうか。農作業、水汲み、炊事などです。力のある男子がリベカの側に居ることになります。リベカは喜びました。特別にヤコブを愛します。可愛がります。この穏やかな人が、やがて兄エサウを騙し、父親を騙します。ある翻訳者は、これを「非の打ち所のない人」と訳しました。穏やかであっても、非の打ちがなくても、自分の利益のため、欲望のためには、愛する者、親しいものを騙すのです。ここに人間の恐ろしさが描き出されています。
特別な悪人だから悪いことをするのではありません。普通の人、むしろ黙ってそこに居たら善人と言われるような人が、大きな悪を行うのです。ここに聖書の基本的な人間観があります。アダムとエバも悪人だとはかかれて居ませんでした。むしろ、すべてよし、と祝福されています。それがあのように神を裏切りました。
大胆に言えば、人は善人だから悪を行うのです。その様子をもう少し見て見ましょう。
ある日のこと、と聖書は語りだします。
ヤコブが煮物をしていると、エサウが野原から疲れきって帰ってきます。普通これは、狩をしたが、獲物に恵まれなかった、と解されます。成果の見えないとき、疲れは数倍にも感じられます。そこでエサウはヤコブに言います。そこの赤いものを食べさせて欲しい。
よほど飢えていたのでしょうか。野の仕事もうまく行かなかったようです。弟のヤコブは、すぐにどうぞ、とは言いません。本気で交渉に入ります。
「長子の権利を譲ってください」。飢えている人間を相手に、兄弟を相手に、食べ物を巡って取引をしています。ここからユダヤ人批判を引き出してはなりません。
「長子の権利」とは何でしょうか。長男として、父親の死後、財産を受け継ぎ、何よりも神の祝福を受け継ぐ権利です。今現在の、飢えているエサウには何の役にも立ちません。
将来のことです。
将来のことより、現在の飢えを満たす方が先だ、というのはごく普通の考えです。それよりほかに考えられない、ということです。年金保険の払い込みが少ないのは何故か。将来支払われる年金額が、その時の政府の考えで変更されてしまうからです。すでに何回も変えられてきました。当初約束されたものを変更するのは、常識的には違法行為です。一般の企業などがそのようなことをしたら、レッドカードです。親子の間でも、子どもとの約束を破るでしょうか。
このところで、ある人は、安易なヒューマニズムには注意が必要、と書きました。今の必要の充足を考えるだけではなく、将来のことを考えるべきです、ということでしよう。
エサウは、今のことだけを考え、将来のことなど如何でも好い、もしくは何とかなるさ、と考えたようです。神に誓って、長子の権利をヤコブに譲ってしまいます。もはや取り返すことは出来ません。「後の後悔、先に立たず」。ヤコブは神の祝福を求めました。
このところで、聖書記者は、ヤコブの態度についてとがめだてしません。彼の関心事ではないのです。彼はエサウが、長子の権利、神の祝福を受ける特権を軽んじたことを書き、人々が関心を寄せるよう求めています。財産や権威の問題ではありません。神の祝福です。
エサウは創造主、天地の主なる神への憧れを欠いていたのです。私たちが、礼拝を休むと心の渇きを覚える、というのは良いことです。聖餐に与りたい。こうしたところに、神への憧れ、永遠を思う心が表れます。大事にしましょう。
欄外
「毛衣」の「毛(セアル)」はエサウとその子孫が住むことになるセイル(36:8)に結
びつく。「赤い(アドモニ)」もエサウの別名エドムと結びつく(30節参照)。
両親の原文は「彼ら」。主語は次節にならって単数に読み替えるべきか。
エサウの姿は長男としては珍しいかな、と感じますが、これは現代を基準とするためでしょう。現代では、長男は母親の期待を受けて、優しく賢い子どもに育てられます。母親っ子。
ヤコブの名は、かつて「押しのける」という意味に捉えられていたことがあります。
レンズ豆の煮物。レンズマメは、今日も用いられる食材です。小指の爪半分程度の小さいレンズ状の豆で、赤系の色をしています。よく煮込んで、スープ、シチュウにします。