待降節第4主日、讃美歌54,95,270、
アドベント第4主日になりました。次週はクリスマス礼拝です。
この週の土曜日にはクリスマス前夜の燭火礼拝が行われます。キャンドル・サーヴィス、本当に心温まるものです。イヴェントなどでは盛り上げるために前夜祭、後夜祭などを実施します。クリスマス前夜、クリスマス・イブを盛り上げる、そのような意味でしょうか。
先日、何方かが「イブ、降誕前夜の礼拝の意味が判らない」と言われました。そうです。いろいろな本を捜しても書いていません。きっと、余りにも簡単なことだから書いていないのでしょう。これまでに何回か、イスラエルの一日の数え方をお話しました。日没から日没ですよ、と。
最初の時代、教会はイスラエル、ユダヤの数え方を採用していたはずです。一日の始まりは、土曜日であればその前の日、金曜日の日没と共に始まります。12月25日は、24日の日没から始まります。クリスマスのお祝いは、24日の日没と共に始まるわけです。嬉しくて嬉しくて我慢できない。だって4週間も準備してきたんだから。25日に入ったら、すぐにお祝いを始めましょう。これが当然のことでしょう。今日でもローマ教会などは真夜中のミサを行います。少しでも祝いたい気持ちの現れでしょう。
今のところ、これ以上妥当性のある説明を見付けることが出来ません。
前回に続いて、今朝も男子誕生の予告とイサクという名前をつけるべきことが示されます。17章ではアブラハムが対応します。サラは、その話の中に出てきます。
主の顕れは、三人の旅人の姿をとっています。砂漠の民にとって、旅人はもてなすべきものです。イスラエルは、この伝統の中に生きてきました。同じように砂漠の民であるアラブ人にとっても、客人をもてなすことは絶対のことでした。たとえ敵対するものであっても、ひとたび天幕の客となったら、もてなし、安全に去らせねばなりません。
ある西洋人が、砂漠を旅して、現地の若者と争いになり、殺してしまいました。その場を去ってその地域のシーク(首長)を訪れ、その天幕の客となりました。食事の最中に、その家のものが主人の耳に何事か囁いています。顔色が変わりました。しかし何事もなく食事は進みます。終わったときに主人が告げます。客人よ、お前はわしの息子を殺した。この天幕を去るときまで客人としてもてなそう。そして去るときには、安全に旅を続けられるようにわしの印を持たせよう。追手は一日置いて出かけるから、道を急ぐが良い。
しばしば神秘のヴェールに包まれて、理解不可能とされるアラビアのイスラームの人々は、このような独自の法と規律を持っているのです。キリスト教の絶対優位性を説いても、十字軍の野蛮さが語られるでしょう。今では、イラクに対する野蛮な行為、主権侵害が語られ、退けられます。独自の文化を尊重しながら丁寧に話を進めることが大切です。
アラブを含む東洋は、絶えず西欧の攻撃を受けてきました。防衛のためにその心にも鎧を重ねるようになりました。不可解と言われます。
これは私たちの間でも同じです。激しく攻撃されると、自己防衛するようになり、拒絶的になります。更に対抗的に攻撃するか、最初から回避するのです。キリストの福音に相応しい生き方は、慎重な対話でしょう。意見が異なっても耳を傾けるようにする事です。能力があり、確信を持つ人は、威圧して黙らせようとしてはなりません。この弱い兄弟のためにも、キリストは死なれたのです。出来る限り多くの人と平和に過ごすのです。
ここにはもう一つ大事なことがあります。樫の木の所、と記されます。マムレはすでに出てきました。現在のヘブロンです。高い所、大きな岩、高い木は、いずれも神が顕れる所として、聖なるところ、聖所とされました。礼拝所とされたのです。そこで主が現れました。これは同時に、アブラハムはここを生活の本拠としていたことを示します。人目を引くところなら神も、旅人も気付く、という古代人の考えでしょう。しかし軽く片付けてはなりません。新約聖書でヘブライ人への手紙の記者が語る通りなのです。その心は絶えず主の宮にありましたアブラハムは絶えず備えをしていたから、知らずして主をもてなすことが出来ました。
アブラハムはひれ伏します。これは17:17とは違います。そこでは自分の笑いを隠そうとするかのようです。そのため、生まれてくるサラの男の子に、笑いという意味のイサクと名づけなさい、と命じられます。18章の平伏は歓迎であり、服従を示しています。
彼の言葉も魅力的です。「お客様、どうか僕のもとを通り過ぎないで下さい」。一つの機会です。チャンスは後ろから掴むことは出来ない。真っ向から取り組み、引き止め、もてなします。お茶などを、と言いましたが、それどころではありません。上等のパン菓子、子牛、凝乳。特別なお客様のための料理です。普通は子羊が出ればよしとするところです。
最上等のもてなしをしています。しかしこれも伝統に従い主人役の彼が給仕をしています。
いつの時代でも、主人に給仕をされるのはとても名誉な事です。その反面、女主人であっても、女性はその席に連ならないことが礼儀でした。
女、子どもは、客たちの食事が終わると、その残りを皆で食べるのだそうです。腹をすかしてやってくる客は上客ではないでしょう。十分食べた、満腹したしるしにゲップをするのが礼儀である、と聞きました。
そしてそのところで、主は、99歳のアブラハムが父親となることを告げます。それも明確に「来年の今頃までにあなたの妻サラに男の子が生まれている」と語ります。
アブラハムとサラの現実は、もはや子どもを得ることが出来ない、と言うものでした。
17:17では、アブラハムが密かに笑いました。それもひれ伏すという服従の姿勢をとりながら、それとは逆の態度を示したのです。不服従、不信仰の笑いです。
今この18:12では、サラが笑います。サラは、9節によれば天幕の入り口にいたようです。一同の食事は、樫の木の下で行われたのでしょう。天幕はすぐ近くで、サラにはその様子がすべて判ります。最初の約束から何年経ったことでしょう。カルディアのウルを旅立ったときも、子どもが与えられることを祈っていたことでしょう。以来その願いはかなえられませんでした。人間の力ではもはや不可能であることを知っています。サラは「そんなバカな、生まれるはずがない。生む力を持っているはずがない」と感じ、笑いました。
もちろん声を立てるわけがありません。主に対する不信仰です。自分の、人間の力に対する自信は、神への不信となりやすいのです。能力のある人に多い事です。与えられた力を信じ、しかも謙遜であり、神への信頼を持ち続けましょう。
さて客人は、アブラハムに対して、「サラは何故笑ったのか」と言われます。アブラハムには何のことかわかりません。サラは、離れたところから声を上げたのでしょう。「私は笑っていません」と。恐ろしかったのでしょう。喜ぶべき知らせが拒絶されるのです。
神の恵みによる選びは、この二人の不信仰、不信頼にも拘らず変わることはありませんでした。主には不可能なことがあろうか、ないのです。こうして不可能を可能とする神の力の表れを行くたびも見つめたイスラエルは、この神を信じたのです。
ヨシュアはこのように語ります(ヨシュア記24:15)。「今日、自分で選びなさい。ただしわたしとわたしの家は主に仕えます」。
そしてこの信仰が、乙女マリアの信仰になります。「まだ結婚もしていない、生まれるはずのない子を生むとは、一体どういうことだろうか」。恐れと不安で気も狂わんばかりであったでしょう。その中で婚約者ヨセフに守られ、ベツレヘムの家畜小屋で出産し、飼い葉桶に嬰児を横たえます。不可能を可能とする神への信頼があったのです。恐れおののく民を守られる主が居られるのです。感謝しましょう。
ささげ、給仕する、これは礼拝の本来の意味
ローマ12:1参照、「兄弟たちよ・・・あなたがたのからだを生きた聖なる供え物として神に捧げなさい。これがあなたがたのなすべき霊的な礼拝である。」
欄外
今朝は、前主日の続き、教会のカレンダーについての話から始めましょう。
先ずクリスマスを祝う歴史からです。
最初のクリスマスは何時のことだったのでしょうか?
今日本の国では、国際化の観点から西暦を併用しています。西暦とは何か、当然ご存知と思います。西暦の紀元元年は、キリスト・イエスがお生まれになったと考えられる年です。
ですから、紀元前はキリスト以前と言う意味で「ビフォー・クライスト」、B.C.と書きます。お生まれ以後は、「主の後」ということでラテン語「アンノ・ドミネ」、A.D.で表します。
西方教会は降誕日の前4週間をアドベントとし、東方教会は40日間をアドベントとして守りました。大グレゴリウス(在位590〜604)が現在の形、制度を教会暦に取り入れたと伝えられています。
祝祭日の交換が行われ今日の形になりました。教会の必要であり、教育、牧か以上の配慮によるものでしょう。クロムウェルなどは、それまでのクリスマスディナー、大宴会はくりすますに相応しくないとして禁止しています。
でも、本当に、その年に、お生まれになったのでしょうか。鍵となるのは、マタイとルカの福音書です。博士たちが大きく輝く星を頼りにベツレヘムの家畜小屋で嬰児イエスを見出だし、礼拝し、宝物を捧げた、とあります。天文学者たちは、大きく輝く星の正体を求めて研究しました。ケプラーは、これを惑星交合としました。
羊飼いたちは野宿していた。冬はとても寒く、野宿は困難である。12月から3月は除外して考える。それなのに何故、12月25日なのか?
第3世紀になっても教会の中では様々な論争がなされた。そうした中で、児戯に等しい論議はもう止めなさい、と言う指導者が現れた。むしろ、協会として決定し、その意味を考えるべきだ、ということでしょう。同じ時期に行われていた、異教の祭りに対抗できるように整えることを求めた、と考えられます。ローマや北欧の人々は、太陽の復活の時として祝宴を開きました。冬至の祭りとそれと類似したものです。それに対して、教会は「義の太陽の復活・再臨」を主張することになります。