集会のご案内
所在地・交通
教会のあゆみ
牧師紹介
教会カレンダー
教会暦・行事
説教ライブラリー
フォト
リンク集
玉出教会 説教ライブラリ [一覧へ戻る]

2005年12月11日

《諸国民の母となる》

説教者:
牧師 持田行人
聖書:
創世記17:1〜27

   待降節第三主日、讃美歌31、100、286、

ローソクが3本立てられ、灯が点されました。

アドベントについて少しお話しましょうか。

すでに住之江集会でお話していますが、そのときは少数でしたので。

アドベントは「接近、到来」という意味で、キリストの再臨が近いことを表します。

この点ではイースター、復活節ともよく似ています。主の甦りを待つ、準備の期間40日間。

待降節はクリスマス(主イエスのお誕生)に先立つ四回の主日を含む約4週間を指します。

その起源は全くと言って良いほど判りません。ただ推測されるだけです。

早くから復活節に対して、四旬節があり、準備の期間とされていた。それに対してクリスマスにも準備の期間を設けようではないか、ということで各人が、または教会が守り始め、だんだんと広がっていった、ということが考えられています。

何を待つのかは大きな問題になります。

初期の頃から、キリストの来臨は、四重の意味に理解されていました。

肉体をとってこられた第一の来臨。

信徒それぞれをその死の時に迎えに来られる第二の来臨。

エルサレム陥落のときの来臨。「最後の審判」のときの来臨が第四。

当初はこれら四種の意味に基づいて各主日ごとに相応しい聖句が用意されていました。

その中から二つの意味が残りました。それが再臨と降誕です。それに加えて、主の霊的来臨に備える意味が強調されます。



 これまで、「アブラムとサライの夫婦」と呼んでおりました。この17章からようやく、「アブラハムとサラ」の夫婦と呼ぶことになります。説教者の中には、便宜上一貫して「アブラハムとサラ」と呼びましょう、とおっしゃる方もあります。たとえ面倒でも、錯雑になるにしても、やはり聖書が途中で名を変えるのです。そのことを大事にすべきではないでしょうか。信仰の歩みの中で大きな変化の時がある、ということをこの改名の中から読み取りましょう。

 アブラムが99歳になった時、主が現れました。その時、サライは89歳でした。伊達や酔狂で年齢を記しているわけではありません。記憶力や数字に強いことを誇るわけでもありません。通常であればすでに子どもが生まれる年齢ではない、ということを示しています。17節を見るとそのことが示されています。

「百歳の男に、九十歳のサラに子どもができるものか」。

 腹の底では、そんなことあるものか、と笑いながら表面的には恭しく、受け入れているのがこの時のアブラムの態度です。何故このような面従腹背の態度をとるのでしょうか。

神は初めに、私こそ全能の神である、と自己紹介をしています。その上、祝福の約束をします。一つは、多くの国民の父とする。その意味を持つアブラハムを名乗りなさい。二つは、王となるものがあなたから出る。そして三つ目は、子孫との契約とする。

 これは、15章の祝福と見事に合致します。それが正確に何年前のことか判りません。少なくとも、イシュマエル誕生の時からは13年を経ています。15章の祝福はそれよりも、何年も前の事です。この夫婦が、子どもが生まれる、という期待を持ち、諦め、ハガルによってアブラムの子を得ようと決心する、ようになるほどの時間が経過しているのです。その間にアブラムが、もはや自分には子を生ませる力はない、と確信し、明言するようになるのに十分な時間でした。

 しかし、それを上回る力がこの時、神の自己顕現には備わっていました。その圧倒的な力の顕れにアブラハムはひれ伏しました。これはおかしなことでしょうか。この時代の人々は、ある意味で非常に信仰的でした。包括的に宗教的といってもいいでしょう。ある人々は迷信深いだけだ、といいます。そうかも知れません。しかしアブラハムは、正確に繰り返される神の顕れと、その約束の言葉、祝福によって、怖れを抱いたのです。まさに、かつて私に語りたもうた神が再び現れてくださり、語られていると信じたのです。

 その故に、かれは神の言葉を受け入れつつ、それを笑うことになりました。人間としての経験は、神を信じることと、その内容が不可能であること、二つながらに教えているのです。

 これと同じような自己顕現の言葉が出エジプト20:2に見られます。交読文34では、次の3節から読まれています。神がご自分を闡明する、ということが、かように重い意味を持っているのなら、交読文にもこの部分を入れるべきであるように感じます。「私はあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出したものである」。そして、十戒です。ある教会も採用して、この文章を読んでいます。真似るのではなく、自発の意志に基づいてこの部分も入れたいものです。話を元に戻します。

 「ひれ伏す」という行為は服従を示すものです。笑いには様々な意味があります。嘲笑、蔑笑、泣き笑い、喜び。この場面では、不信仰、拒絶を示します。

ここでマルコ福音書9:24を思い出し、考える方も居られるでしょう。悪霊にとり付かれた息子をイエスの下に連れて来た父親の言葉です。

「信じます。信仰のない私をお助けください」。主イエスは、穢れた霊を叱って追い出されます。そして29節で「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことは出来ないのだ」と言われました。祈りは信仰の顕れです。

ある牧師は、ここにこそ信仰の現実が見事に描き出されている、と言いました。

信じつつ疑い、疑いつつ信じる、これが私たちの実相ではありませんか。信仰は不信仰との緊張関係の中に成立しているのです。そのことをすでに、アブラムが示していました。

 神が祝福されるアブラハムは、このような人物でした。神はそのことを知りながら、更に言葉を続けられます。割礼の契約を守りなさい、という事です。割礼とは、男子の陽の皮を切除する事です。これはイスラエルだけでなく、中東で広く習慣的に行われていたことで、砂漠の民の衛生法だったと言われます。

それを信仰的な意味のあることとしました。割礼ある者だけが、全能の神の祝福に与ることが出来るのです。永遠の契約とされますが、その一方の契約者アブラハムは、疑いつつ信じている者なのです。神は、どのような者からでも契約の相手を選ぶことがおできになります。ここに福音があります。

 さて、ここでサラが祝福されます。アブラハム同様、否それ以上にサラは神を信じつつも、神の言葉を信じることが出来ません。ハガル、イシュマエル以前、ダマスコのエリエゼルを跡継ぎにしたときから、子どもが出来ないことを知っていたのです。長いこと悩み、苦しんだことでしょう。そうした時に希望を与えられました。それからどれ程年月が経ったことでしょうか。彼女の身の上に起こったことは、少しも悦べるものではありませんでした。祝福の約束の成就がますます遠のいてゆきます。女の経験が、今や全く子を生むことが出来ないことを教えます。その彼女が、男の子を産み、諸国民の母とされる、と告げられるのです。アブラハムはひれ伏して、密かに笑い、サラは天幕の入り口で笑います。不信仰です。その故にアブラハムは、イシュマエルが祝福されるように、と願います。

 人間的な努力の結果も祝されます。多くの問題を惹き起こし、引きずってゆくことになりますが、確かにイシュマエルも祝福されます。

 神の計画は、来年の今頃、サラが産む男の子によって、サラが諸国民の母となることなのです。

私たちは教えられます。アブラハムとサラの信仰は、この時、疑いつつ信じ、信じつつ疑うものでした。恵み溢れる神は、このような者をも、神の民、諸国民の初穂とされたのです。アドベントは霊的な降誕・来臨を待望する期間です。クリスマスの出来事は私たちが、霊的なアブラハム、サラの子孫であることを告げています。ただ神の恵みによる選びによっています。

 欄外

マタイ福音書17:17では、弟子たちがこの悪霊を追い出すことが出来なかったのは信仰が薄いからだ、と叱っておられます。「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。いつまでわたしはあなた方と共にいられようか」。