早いものです。12月、師走を迎えました。寒さも順調に深まっているようです。
アブラムに対する約束をお読みになられて、皆様はどのようにお感じになられたでしょうか。素晴らしい、と悦ぶことが出来たでしょうか。それとも、そんなことあり得ないのに無理だよ、と感じられたでしょうか。
アブラムは、サラの死後、ケトラと再婚し、6人の子を儲けています。この子どもたちは、嫡子イサクと引き離すように、遠く東の方に移されました(創世記25章)。彼らはいずれもアブラムの子孫であると主張することになります。
問題は、どうやらアブラムの妻サライには子を生む力が欠けていた、ことのようです。
今日も同じ問題、悩みや苦しみ、悲しみがあります。医学の進歩は時には朗報をもたらすこともあります。ある人々は、敢えてそのような恩恵を受けることを選ばず、それを良い機会、チャンスとして養子を迎えることを善しとしています。欧米のクリスチャンが、アジアやアフリカの孤児を迎えているケースが多いようです。アメリカ軍が駐留していた国、ということも絡んでいるようです。根本的には、人それぞれ異なった賜物が与えられている、という信仰に基づいています。
アブラムにとってもう一つの考えがありました。心配と言っても良いかもしれません。妻サライの年齢です。当時の常識からしても、すでに出産年齢を超えています。こうしたことは、経験的に判るものでしょう。アブラムはこのように考えたようです。
サライによって子を得ることはおよそ困難、不可能だ。「お前から出るものが跡継ぎになる」とは言われたが、妻からとは言われなかった。私が何とかして神の御言葉を成就させなければならない。こうした考え方です。
こうしてみると、アブラムは神を信じてはいなかった、と感じそうです。
しかし、そうでしょうか。アブラムは、神の言葉を信じ、その成就、実現のためには自分が努力しなければならない、と考えたのです。これは、今日のクリスチャン、とりわけ勤勉で道徳的なプロテスタントに普通な考え方ではありませんか。そこからマックス・ウェーバーの名著『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』が生まれます。
スペインはローマ教会で有名です。バルセロナ・オリンピックの中継では、しばしば大聖堂を見ました。その植民地であったメキシコも同じです。信仰と言語は深く関わります。
スペイン語に特徴的な言い回しがあるそうです。アスタ マニャーナ、フランス語(かイタリア語)は、ケセラセラ。歌の題にもなっています。意味は「なるようになるさ」。
カソリックは、教皇様と神様にお任せする方法を生み出したようです。ラテン系の民族性も関係しているのでしょう。しかし、プロテスタントは当時のカソリック教会、教皇のあり方に対して抗議しました。その結果、教会を追われました。
そのため新しい教会を造る事になったわけですが、その教会の考えは両面性を持ったものでした。一つは、教皇や高位聖職者の事実上の結婚、に対しては、結婚が正常な在り方であり、それを認める、としました。緩和、開放の方向、といえましょう。
その一面で、カソリックとの違いを示すためもあり、信仰生活全般において、厳しく倫理、道徳を守るよう指導しました。
子どもを産む力がないことが災いなのではありません。それを良い方向に変えることが出来れば、十分に満ち足りた人生を送ることが出来るのです。他の人とは異なるその人の力を発揮することが出来ます。神に委ねた生き方、と言えるでしょう。
さて、アブラムとその妻サライの現実に戻りましょう。彼らは神の約束を信じたのです。アブラムの実子が後継者となり、アブラムの名を残す、と考えました。そこでサライは、エジプト人の女奴隷ハガルによってアブラムの子を獲ようとしました。ハガルの生んだ子を我が子として育て、後継とすることで神の約束が果たされる、という考え方です。
これはうまく行きました。彼女は身ごもりました。ところが人間の計画はなかなかうまく行きません。感情の動きを忘れています。ハガルは、自分を誇り、サライのことを軽んじるようになります。それに対してサライは女性として、女主人として怒りを燃やします。夫に訴えます。アブラムも困ったでしょう。女奴隷のこと、天幕の中のことは女主人の役割だから、あなたの考えでことを処理しなさいと、告げます。6節はそのように考えます。サライが主婦であることを重んじたのだ、と考えるのです。
サライはハガルに冷たい仕打ちをするようになりました。耐えられなくて逃げ出します。恐らく南の方、エジプトへ向かったのでしょう。場所は不明です。そこでハガルは御使いと出会いました。「帰りなさい。従順にすればよいのです」と諭され、更に「あなたの子孫は数え切れないほど多くする」と約束します。御使いは言葉を継ぎます。男の子を産む。イシュマエル、「神、聞き届けたもう」と名づけなさい。荒々しく、たくましく、兄弟とも争うようになる。
イシュマエルの子孫は、周辺の荒野の民として、定住民と絶えず小競り合いを繰り返すようになることを告げています。
ここでハガルは、主の御名を呼んで、エル・ロイと告白します。「私を顧みられる神」という意味です。様々な内容が、考えられます。女奴隷が主人の子を生むことになったこと。
驕り高ぶり、女主人を蔑み、結局逃げ出すことになったが、なお神は見守ってくださり、大きな祝福を与えてくださったこと。子孫を増し加えると約束してくださったこと。
東京集会でもお話しましたが、私たちの思い、願いをはるかに超えて神は恵みを与えていてくださっておられます。「我が杯溢るるなり」詩篇23篇の言葉どおりです。
キリスト教は、罪の赦しを説きます。それは、多くの失敗あるこの人生が、やり直すことのできるものだ、ということを意味します。決して諦めてはならない。望みがあるのです。失意の中でこそ神は出会ってくださるのです。望みが語り継がれるのです。ここにクリスマスの祝福が示されます。
この泉は、ベエル・ラハイ・ロイと呼ばれるようになったと記されます。
この出来事が、元来、地名原因物語だったことを示します。
やがて、イシュマエルが誕生します。アブラム86歳でした。
まだ彼が、子種を与える力を持っていることを示しています。自分に力がある人間は、神の御旨に対しても、自分の力で努力しなければ、と考えるものです。今、早く成就させなければ、と考えるのです。神のご計画があるのに、それを自分のものにしてしまうのです。自分の都合の良い時に、自分の力で実行しようとするのです。神の約束の成就は、神ご自身がなさいます。私たちは、それを忍耐して待つことが必要です。
神の力は、最も弱い時、所で働きます。それはそのことが、すべて神の御手によってなされたことを示すためです。そしてすべてのものが、この方こそ全地の主である、と讃美を捧げることを求めておられるのです。人間には不可能なことも、神はなしたもうのです。感謝しましょう。
欄外
私の小さな経験を、お話させてください。
中学生の時のことでした。恐らく2年生。初夏の頃の遠足の日が近づきました。どうしたわけか雨が降り続きます。降ったり止んだりしながら、だんだん近くなる。前日は雨。ラジオが、雨の中遠足に行った麻布学園の生徒が大勢、相模湖で水死した、と報じています。私たちの遠足は、水郷めぐり。茨城県の潮来です。相模湖は前の歳、一年生のときに行きました。ラジオの語る様子が良く分かりました。何故そのようなことになったのだろうか、不思議でした。放送の様子では、大変な有名校らしい。そのようなところでどうして、そのような危険なことが起きたのか、ただただ不思議でした。でも自分には関係がない、良く寝ておこう、水郷はどんなところかな、と楽しみにして寝ました。明日は晴れだ、と信じて。目を覚ますと、昨日と同じようにかなり強く降っています。あああ、これでは中止だな。延期かもしれない。学校からの連絡は駅へ集合、決行する、でした。父も母も大反対。息子も頑固です。学校が大丈夫だと言って行くことにしたのだから、僕も行く。
どうしても行くな。昨日の事故を見て判るように、学校の判断が絶対のものではない。何日も降り続いているのに決行するという判断はおかしい。止めなさい。
とうとう父は言いました。お父さんがいつか連れて行ってやるから、今回は、学校行事だけれど止めなさい。そこで私も諦めて、一日中、雨の降る中、音楽を聴いたり、本を読んだりして楽しく過ごしました。同級生は、夕刻無事、しかし疲れ果てて帰ってきました。雨の中の遠足、それなりの学びはあったでしょう。しかし良いお天気のときの方が楽しいに決まっています。
しかし、この時の約束は果たされることはなく、父は1999年2月2日、94歳でその生涯を終えました。父が水郷へ連れてゆくという言葉を私は疑いませんでした。その気持ちを持っていても、人間には出来ないことがあるのです。
このことから私は学びました。いかなる者も間違うものである。学校も生徒のことよりも、それ自体の計画を優先するものである。自分で判断しなければならない。
私たちの経験は、誠実になされたものであっても、約束が完全に果たされるのは難しい、と教えています。
フィレンツェの修道士サヴォナローラは、メディティ家支配を打ち破り、神の直接政治に近いものを打ち出しました。神聖政治という言葉が用いられています。教皇アレッサンドロ六世に期待しましたが、最後は火あぶりの刑でした。そのうちにお話したいことの一つです。