終末主日、収穫感謝日、讃美歌26,194,284、
この週、陽気は秋から一気に進み、冬に突入したようでした。お風邪などお召しになりませぬようご注意ください。
前回、私たちの礼拝は、アブラムの戦い、と題された説教でした。
北の方、南メソポタミアと呼ばれる地方の四人の王が連合して南の方、死海南部の五人の王の連合軍と戦った。アブラムの甥のロトは、死海のほとりソドムに住んでいたために略奪を受け、捕虜となり連れ去られました。
このことを聞いたアブラムは、自分の親族のものを奪い返すために、凱旋して行く四王の連合軍を追跡し、直線距離でおよそ250キロほど北上し、ダマスコの北で輸送隊を奇襲し、捕虜たちやその他の財貨まで奪い返します。正確ではないかもしれません。アブラムは、この戦いによって更に多くの資産を加えたようですから。このときは訓練された家の者たちをまとめていましたから、いくらかやりやすかったでしょう。しかし帰り道は大変だったと思われます。聖書は何も書いていません。無事帰り着いたから、何も書きません。
しかしこのために、アブラムが族長としてどれほどの力を発揮したか、私たちは知っておいたほうがよいでしょう。だますから、死海南部へ行くのにはガリラヤ湖の東、死海の東を抜ける「王の道」があります。これは北からの遠征軍も使った道です。その道を使ったのでは、遠征軍に追跡され、またもや戦いとなりましょう。まともに戦ったのでは負けることは判っています。知られない道を通らなければなりません。幸いアブラムは、カナンの地を良く知っています。これまでに示されただけでもシケム、ベテル、アイ、ネゲブ、そしてヘブロンです。これらはいずれも「王の道」から、遥かに離れた西の山脈地帯です。
お分かりになると思いますが、山の中は大きな軍勢を動かすには不適切です。しかし女、子どもや家畜、財産を運ぶにも困難が多かったでしょう。アブラムはそれをやり遂げたのです。追っ手の追求から逃れ、無事帰ってきました。
このことから、「何故アブラムのいるヘブロンやサレムは戦いの圏外だったのか?」が理解できます中央の山地は、遠征軍にとって魅力がなかったのです。山道は狭く、曲がりくねり、大軍を動かすには不便です。その上、死海の南岸に広がる肥沃な地域に比べると、はるかに貧しく、おとなしく邪魔をしないならば、戦うほどの相手ではなかったのです。
実はソドム、ゴモラなど五王連合ですら、たいした問題にはならない。遠征してきた本当の理由は、時折の軍事演習のようなものだったろう、と私は考えています。中国でも、日本でも昔から常備軍の訓練は大きな課題でした。鷲や鷹のような猛禽類は、生餌を与えないと、野生の鋭い精気を失ってしまうそうです。当然猛獣も同じです。軍隊もその強さを保持しよう、向上させようと考えるならば実戦と流血が必要なのです。戦力を保持しながら戦わないというのは無理な事です。軍隊は自らを保持するために戦いを欲するのです。
メソポタミアの王たちにとって、今回の遠征は一方では反逆した者たちの懲罰のためでしょう。他方、自分たちの軍隊を訓練する格好の機会となったのです。どのような理由であっても戦争は多くのものを巻き込み、多くの悲劇を生み出します。
17節は「シャベの谷、即ち王の谷」と記しますが、それが何処であるかわかりません。知らせを受けたソドムの王とサレムの王メルキゼデクが迎えに出てきた事から、サレムに近いところ、と推測します。ソドムの王は戦いに敗れ、略奪を受け、それが戻ってくると聞いたのですから大喜びで来たことでしょう。
先に、このソドムの王とアブラムのやり取りに注意を向けましょう。
21節で、この王は、「人は私にお返しください。しかし、財産はお取りください」とアブラムに申し入れます。アブラムは拒絶します。意固地な態度といえないこともない、と思います。この時代、戦利品や財産の所有権はどのようになっていたでしょう。このことを教えるものがありませんので、正確には判りません。しかし、一般的な傾向からすれば、略奪されたものは自分で取り返さない限り、所有権は失われたと看做される、ものです。現代、海事法という分野があります。そこでは難破して、乗組員が放棄した船は所有権が失われます。保険に入っていれば所有権は一旦保険会社のものになります。サルベージ、難船救助したものも所有券を手に入れます。そこから保険会社との難しい交渉になります。これは、恐らく古代の法を継承しているものでしょう。
ソドムの王には、財産をやるから人は返せ、と言う権利は認められないのです。
アブラムは、王の権威をかさに着たようなこの言い方を承服することは出来ませんでした。
ソドムの王の意向で自分のものが、財産が増えて豊かになるのではない、と主張します。戦いにおいても勝利を与えたもう神の力によるのだ、と言っています。
これとは全く異なる対応が、サレムの王メルキゼデクとの間に交わされます。
サレムは後のエルサレムです。
サレムの王は、五王連合とは無関係ですし、戦争をするよりは、平和を守ることで知られた祭司を兼ねる王だったようです。
メルキゼデクは、パンとぶどう酒を持ってきました。それをアブラムに与えます。そしてアブラムを祝福します。「アブラムに祝福あれ。いと高き神がほめたたえられよ」。
いと高き神、とあるのは「エル・エルヨン」という言葉です。これが「至高者エル」と訳されます。この祝福に対して、アブラムは、全てのものの十分の一を贈ったと記されます。
後の時代の、十分の一税の影響を受けている、という学者もあります。逆に、ここから十分の一のささげ物が生まれた、とする学者もあります。どちらかに決定する必要はないでしょう。
アブラムが、メルキゼデクをまことの祭司と認めたことが重要です。祭司は、神と人の間にあって執り成しをするものです。そのことをアブラムは喜びました。アブラムは知らずしてメルキゼデクの祝福を受けました。
ソドムの王は財産も人も取り返したでしょう。しかし、そのために大切な、いと高き神の祝福は逃しました。彼の意識の中には存在していなかったからです。
アブラムは、神と人との執り成し手であるメルキゼデクの祝福を受けました。これは、神がアブラムを、そして彼のなしたことを、祝福したもうたという事です。これを受けてアブラムは十分の一の捧げ物をしました。それを神は受け入れられました。神は故なくして捧げ物を求めたり、受けたりすることはありません。アブラムが十分にその祝福を理解し、応答しようとしたゆえに受けられるのです。
もう一度、パンとブドウ酒を考えましょう。これは今日では、聖晩餐の式で、キリストの体と血であるとして、ごく少量が食されます。メルキゼデクは、その予言としてこれらを与えた、という考えもありますが、私はそこまで考える必要は認めません。むしろ、アブラムとその一行にとって実際上の必要を満たすものだった、と考えます。神は戦いに勝利を与え、今また日常の必要を満たしたもうた、これが神の「目に見える祝福」です。この祝福に対して、どのように応えるか?
私たちにとっての喜びは、私たちが知らない時に平和の主を与え、執り成しをなさせ、赦しを与えたもう事です。
欄外
さて今日は、教会の暦では、終末主日と申します。教会暦の一年の終わりが来ました、ということと、同時に世の終わりである終末の到来を覚えなさいという意味を持ちます。
次の主日からは新しい年度になり、アドベンと、クリスマスへと進みます。
主イエスがお生まれになるまでに、二つの旅がなされています。
一つは、マリアとヨセフが、人口調査のためにベツレヘムを目指した旅です。ルカによると、ガリラヤの町ナザレから上ったとされます。南へ行くのですから、私たちの感覚では下りです。その他を考えても地理的には下りの方がよさそうです。でもダビデの町ベツレヘムだから「上った」としたのでしょう。この道筋は中央の山地を行くものか、山裾を行くものだったでしょう。どちらであっても、アブラムが帰ってくるときの道です。
もう一つの旅がありました。それはマタイが告げるもので、東の賢者たちが西南の方向を目指したものです。彼らは、不思議な星に導かれてやってきます。その道は、四人の王たちが遠征軍を率いて南下した道です。いわゆる王の道です。東のほうから来た人々にはいろいろな呼び方があります。占星術の学者、賢者、博士たち、王たち、三人とつけることが多いのですが、聖書は複数だけです。限定してはいません。
今回、学者たちは、何事かを求めていません。ユダヤ人の王としてお生まれになった嬰児を礼拝するために来ました。彼らは捧げ物をして祝福を受け、無事帰って行きます。
御子イエスを礼拝するために来るものは、祝福されます。メルキゼデクが与えたように、御子イエスが与えてくださるのです。
メルキゼデクは、ヘブライ人への手紙6章の最後から7章にかなり詳しく説明されています。その時代の理解・信仰を基に、キリスト・イエスとの関わりを示そうとしています。そこでは「平和の王」と記されますが、これはサレムが、シャレームであることから、シャロームの王・平和の王となったものでしょう。
大祭司は、多くの罪人に代わって、年に一度神殿の幕の内に入り、永遠の贖いをなしたもうお方です。この点でメルキゼデクとキリスト・イエスとが同一視されることになります。しかし御子としてのイエスの独一性はゆるぎないものです。同じではなく、救い主の予兆と考えることが許されるでしょう。