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2005年11月13日

《アブラムの戦い》

説教者:
牧師 持田行人
聖書:
創世記14:1〜16

長い間の懸案であった天王寺教会百年記念行事は、先週で一応成果を見ることが出来ました。敢えて終わりました、とは申しません。長く憶えることが始まるからです。戦後60年の歩みの中で、余り理解できていなかったことがはっきりしてきました。これから、更に理解を深め、正しく記憶することが私たちの務めであろうと存じます。私も私なりに考えるところがあります。理解の足りなかったところ、表現の未熟なところ、おゆるし願い、そうしたことも忘れることなく、一つの教会形成に努めたいものです。
特別礼拝の説教者にお願いした聖学院の大木英夫院長は、記念に造られた年表をたいへん悦ばれました。関連の学校長、理事さんたちにいろいろ教える材料にも使いたい。今では、こうしたディサイプルスの伝統、これまでの活動を知る人は少ないから、とのことでした。
大木先生は、あの時話そうと思いながら、落としてしまったことがあるので伝えて欲しい、との事です。電話の内容をメモしたわけではありません。記憶に基づいて、二点だけお伝えします。
一つは、聖餐式の事です。先生は司式に当たって、敢えて中央には立たれないのだそうです。それは説教の中で触れたように、エマオ途上で弟子たちに現れ、パン裂きの時にその中に共にいましたもうたキリスト・イエスが、今この時にもいましたもうことを指し示している、との事です。これは私たち、プロテスタント教会の礼拝堂の中に見られる事です。講壇の中央部に三つのイスがあります。真ん中のイスは大きめになっています。誰も座らない。何のため、主イエスがお座りになっているのさ。
三位一体をあらわすという考えもあります。
 もう一つお伝えしましょう。それはガウンの事です。滝野川教会で用いられるようになったのは最近のこと出そうです。大学は伝統的に使用しています。あの時用いられたのは来る無地の簡素なものでした。ジュネーブ・ガウンと言うそうです。それは英国国教会(アングリカン・チャーチ)から非国教会派が分離、自立したとき、国教会の聖職者たちが使用していた彩り華やかなガウンに対する抵抗だったと伝えられます。教会内での身分、階級、地位によってガウンの彩が違うことはおかしいと考えたのです。初めディサイプルスでは、通常の服装でした。しかしそこにも国教会と同じような違いが現れるので、すべて同じガウンを使用したほうが良いだろう、という考えになったのです。
これは教会の働き人の間に違いはないという考え、思想です。

聖書を読むとき、やはり読み難い、と感じるのはカタカナの人名・地名が次々出てくる時ではありませんか。外国だなあ、という感じにもなります。昔は、外国の宗教、異教徒、邪教徒など他から変われたわけです。これが漢字ならばまだ少しは取り組めるけれど、カタカナになると煩わしさが先にたってしまい、面倒くさくなってしまいます。
1節にある、シンアルは南メソポタミア、創世記11章・バベルの塔の物語の舞台です。エラムは西南イランを指しますが、エラサルとゴイムは不明です。この王たちの歴史的同定は困難です。従って、この物語の歴史的背景は定かではありません。かつて、アムラフェルはハムラビと同定されました。最近の学問上の傾向は、ハムラビを前1728〜1686年とするため、この同定を放棄しています。この進入経路は前19世紀頃の事情と符合します。
「彼らは、いわゆる『王の道』を通って南下し、バシャン、ギレアデ、モアブそしてセイル山地を攻略しつつアカバ湾頭のエル・パランに至り、そこから北西に引き返してエン・ミシパテ、北東に転じてはザソン・タマルに達し、東に転じてシデムの谷でアラバ地域の五王連合を撃破したものでしょう。
 2節の王たちは、いずれもヨルダン渓谷の低地、特に死海南端の一地域にあったと伝えられるカナン人の町とその王たちです。これらの町のうちツェボイムとアドマを除く三つ(ソドム、ゴモラ、ツァオル)はソドム滅亡物語(19章)に出てきます。
この2節の戦争が、4節にある13年目のものと同じか、その初めのものかはわかりません。
2節の戦争の結果、12年間服従を余儀なくされたものかもしれません。
とすれば、ここに記されるのは、征服者に対する自由と独立を回復する戦い。しかし、四王の連合軍は強大であり、対する五王連合は力足らず、敗走するのです。
ソドムとゴモラの王は、アスファルトの穴に落ちて助かるようです。他の王たちは、山へ逃げました。普通なら、叛乱の指導者たちは厳しい追及を受けるはずですが、ここでは問題にもされていないようです。おそらく彼らが逃げてもたいしたことは出来ない、と考えたからでしょう。それに、彼らの町を略奪してしまえば、再び戦いを仕掛けるような力は消えるだろう、と考えられたのでしょう。後のアッシリア、バビロニア、ペルシャにも通じる考えです。
 ここで一つの重要な出来事が起きます。ソドムの町には、これより先、アブラムの甥であるロトとその一家が住み着いていました。北からやってきた四王の略奪の被害を、彼らも受けることになります。「財産もろとも連れ去られた」とあるとおりです。
 戦いは戦場で兵士たちが傷つき、倒れ、死んで行きます。それだけではありません。戦費をまかなうために高い税金を取られます。戦利品の多くは王たち、将軍たちのものです。
負けたときは、更に多くの兵士が殺される。そして非戦闘員にも被害が及びます。ロトの一家は部外者でもあったのでしょう。市民として受け入れられてもいなかった筈です。ところが、町を略奪に来た兵士たちによって連行されます。戦争の悲劇は、いつでも関係なさそうに見える所、時に、弱いものに襲い掛かってきます。平和を願い、求めるロトの考えや、気持ちなどは一顧だにされません。どんどん巻き込まれてしまうのです。
ロトとその一家が財産もろとも連れ去られた、という知らせがアブラムに伝えられました。彼は訓練された僕を引き連れ、ヘブロンからダマスカスの北まで追跡します。そして奇襲攻撃によって、敵の輸送部隊のようなものを打ち破り、奪還に成功します。
 
信仰の人、平和の人アブラムが、その珍しい一面を見せました。戦争も出来る、しかもたいへん上手に。実は、「訓練を受けたもの380人」の意味が良く分かっていないのですが、文字通りならば、このようなときに備えていたことになります。

戦いとは一体、なんでしょうか?
様々なレベルで、欲望と欲望がぶつかり合うことから生まれる事象でしょう。
新約聖書は、出来る限りすべての人と平和に過ごしなさい(ローマ12:18)、と教えます。
しかし世界の現実は宗教戦争と民族戦争大流行。しかもその二つが組み合わさっている。
そればかりではありません。身近なところで、理由にもならないことで、人を殺している。殺し合っている。対立と抗争が続いているのです。
 これは、自分には誤りはない、正しい、正義の側に立っているという自負が起こすものです。その上に欲望があります。豊かになればなるほどもっと欲しくなる。認めさせたくなる。人間関係、民族関係、宗教関係、国家の関係。何処を見ても同じです。相手の非を鳴らし、自分の正しさを主張し、自国の役割を強調する。そして悪い意味で「目には目を、歯には歯を」という復讐をする。テロに対するテロを見れば判ります。私たちは、そんなに立派ではないのです。人が心に思い図ることは、皆悪いからである、と学んだとおりです。この言葉の前で、私たちは謙遜にされるのです。
 
アブラムは、悪意ある略奪者に対して備えをしていたようです。それは今日、自衛、防衛のための戦力という言葉に置き換えられるでしょう。そのためにどれ程多くの財貨が費やされるのでしょうか。それを異なった目的のために用いれば、戦争を無くすことが出来る。貧困、病気、地球環境のために用いれば、平和になる。一旦戦力を持つとそれを使いたくなるのです。しかしそれでどれほどのことが出来るでしょうか。この国を守ることなど出来ません。
アブラムとは時代が違います。この核の時代、アブラムが今ここに居れば、できる限り多くの人と平和に過ごすために考えるでしょう。平和のための備えは軍事力ではなく、貧困や病気、環境のための戦いを考えるべきだ、と語るでしょう。すべての争い、戦いの根っこに貧困、冨の偏在、貧富の格差がはびこっているのです。その上、人間の限りない欲望です。蛭のように、もっともっとと叫ぶ。蛭は、やがて自分の体が破裂するまで血を吸い続けるのです。貧困、欲望、これが私たちのなすべき戦いです。


欄外

アシュテロトはカルナイムに近い所という意味。ガリラヤ湖の東33km。ハムはヤベシ・ギレアデの東北20km。共に青銅器、鉄器時代の古址。
シャベ・キリヤタイムは「キリヤタイムの野」と訳される。デボンの西北10km。
エル・パランはエラテの古名。エンミシュパトは「裁きの泉」の義で、古代の聖所であったことを示し、カデシ・バルネアの古名。ベエルシバの西南70km、現今エジプト領に属するアイン・クデーラトで、そこには中期青銅器時代の大きな居住址がある。
ハツェツォン・タマルは、タマルと同一で、死海南端の西南西16km、ビザンチン時代のタマラ要塞。シリヤ語訳に従って「エンゲデ」をとり、その付近のハザゾンを挙げる学者もいる。

ヘブライ人アブラム、ヘブライ人は、元来、傭兵、寄留民、奴隷など一種の局外者集団を指していたらしい。後にイスラエル人の別名になった。